朝比奈がかけ足を本当に望んだわけじゃないのはわかっている。ただ単に楽しんでるだけだ。つまりおれはそれにノッかって、朝比奈の期待を裏切らないように、そしておどけてみただけだ。そういうのがこの状況にハマってると、おれは漠然と思ったんだ。
水道のある場所はすぐに見つかった。コンクリの造形に上には水を飲むまあるい蛇口がついていた。その下に通常の、、、 そういう表現が稚拙だけど、通常としか言いようがないじゃないか、だいたいヘビの口ってなんなんだよ、、 だからまあ蛇口がついていて、開栓口をひねって水を出す。おもったより勢いよく水が噴出して飛沫が自分にもかかったけど、それはそれで気持ちが良かった。
あいかわらず、セミの鳴き声はうるさいし、木洩れ陽の反射も目に厳しかった。そんなひとつひとつの現象が、きょう一日の思い出となって、いつの日かあんなことがあったなあって思い返す日がくるんだろう、、、 たぶん今日は特に記憶に残りそうだ。
ハンカチを流水にかざすと、またまた水が飛んできた。でもそれは朝比奈のニオイつきで、さっきの水よりゴージャスに思えた、、、 ゴージャスって表現も古いか、、、 でもまあそんな表現が一番似合っている気がするんだよ。
言われたとおりに固くしぼって、母親が洗濯を干すときのようにパンパンって水気を払ってみた。そうするとまたいい香りが漂ってくるからいいもんだ。さてもう一回、駆け足のふりしてクルマに、、、 春空色のチンクに、、、 戻っていく。
行くときは窓からのぞいてた顔は、こんどは天井から、、、 ホロをあげた天井から上半身を出して右手を振っている。右手ってことは好意を持ってるってことだよな、左手はおあいそっていうか、サヨウナラの意味もあるっていうし、、、 そうじゃなかったけ?
いやその光景を見れておれはうれしいんだけど、どっかに人の目があるかと思うと気が気じゃないから、おれはいつのまにか真剣に走りだしていた。いくらなんでもそれはヤバいって。朝比奈って意外と天真爛漫なのか。
当の朝比奈は、そんなおれをおもしろがってるらしく、こんどは両手を振りはじめた。そうすると腕の動きにあわせて胸のあたりも、、、 ぼやかして言っても、胸なんですけどね、、、 右に左に振れたりして、だからおれはうれしさ半分、心配半分。はやく車内に戻ってもらいたく、だから自然と一歩、二歩すすむごとにスピードが増していった。
この感じ、身に染みていたはずなのに、実際やってみると、もう大昔のことのようにも思えるし、足の裏から届いてくる反発力と、上半身の自重が骨盤で重なって重力を感じなくなってくるのは、脳が覚えている。
だから考える前にカラダが反応していた。おれのカラダが脳の越えていく瞬間、この時間が好きだったことを思い出していた。だから、もっと、もっとスピードを上げるように要求してくる。
足の裏が跳ね上がる。尻に付くぐらいに。そうしておれはあっというまにチンクに到着した。朝比奈はそれを見届けると、吸いこまれるようにスポッと車内に吸い込まれ、またまた窓から顔を出す。
「なーんだ。走れるじゃん。医者の言うことも当てにならないもんね。それともホシノが臆病なだけだったのか、なっ?」
おれは息を切らしていた。窓に手をかけて下を向いたまま顔をあげられなかった。大きく息をして、言葉もでてこなかった、、、
おれが手にしていたハンカチは朝比奈に取り上げられ、おれの首とか、ひたいにニジみ出た汗が拭きとられていった。そんなつもりでハンカチを濡らしてきて欲しいと頼んだわけじゃないはずだ、、、 なのに、そうなってしまっている、、、
「まあ、そうね。自分で使うつもりだった。ホシノがね、ふざけて小走りするから、どこまでやれるのか見てみたくなって。まさかね、ここまでやるとは。ホシノだってそう思ったでしょ」
そうだよ、かばって、気にして、優しくして、負担かけないで、そんなのしてて、腰に手当ててトントンとかして、普通にしてても痛いときもあったけど、なんかいまは走れてしまった。それなりのスピードで。
朝比奈がバイクや、チンクをその性能を目いっぱい使ってカッ飛ばしているのを見て、、、 一緒に乗ってて、、、 血が騒いだっていうか、カラダが疼いたっていうか、それがまったくないわけじゃないんだと思う。
「なんだかねえ。とにかくクルマんなか入んなよ。いつまでもそんなカッコウしていると腰に悪いぞ。たぶん」
顔をあげると朝比奈は、水で冷やしたハンカチで首元とか腕とかにあてて、にじんだ汗を拭きとりながらカラダを冷やしていた。胸元を拭きだしたとき、タイミングよくキッと鋭い眼光がおれを射抜き、おれはすぐに目をそむけた。目はそむけたもののアタマのなかはフル回転で、きっと朝比奈ってこういう順番でカラダ洗ってるんだろうなあと、お風呂場シーンを想像していた、、、 ノビ太か、、、
だからおれは、朝比奈の方を見ないようにしてシートに座った。すると目の前にハンカチがぶら下がった。よく考えればおれが最初に汗ふいてもらって、そのあと朝比奈につかわせるのも悪かったなって、こりゃもうひと往復しないといけないな。そうするとまた汗かいちゃって、もとの木阿弥だな。
「そうじゃなくってね。ほらっ」
そう言って、朝比奈は背中を向けた。ああ、そう。背中拭けってことか。えっ!! いいのか。ハンカチづたいだとしても朝比奈のカラダに、しかも生肌にふれちゃったりしちゃったりすることになる。
ブラジャー、、、 じゃなくて水着は、、、 首と肩の下でリボン結びにされているしろもので、ひもを引っ張ったらポロリと、その、、、 いやいやそんなことしたら、眼光で射抜かれるどころかモリで射抜かれるな、、、
おれは手を震わせながら、朝比奈の背中をポンポンとハンカチを当てていった。すると冷たい、とか言って背中をそらすと、盛り上がっていた背骨の部分がひっこんで背中に筋があらわる。それがまた色っぽいじゃねえか、、、 オヤジか、、、
いやあ、あたまのなかはもっとオヤジで、手がすべったってごまかせば、ちょっと脇の下から五合目ぐらいまでなら登頂できるんじゃないかと想像してたら、さっきよりよけいに手が震えてきてこれは本当に手がすべりそうだとかえって慎重になってしまった、、、 小心者だな。やっぱり、、、
「キッカケはつくってるんだけどね。ホシノはなかなか曲がってくれそうにないな」
はっ? おれはカオを見上げた。だけど、前を向いている朝比奈の表情は見えない。えっ、なに。なんのキッカケ? どういうこと? おれはハンカチを手に、固まっていた。
好意的にとっていいならば、それはこれだけアピールしてるんだから手ェ出しなさいよってことだし、冷静に考えれば、朝比奈ほどのハイグレード女子が、、、 そういう言い方すると、女性を男子の物差しで表現するのは許せないとかヤリ玉にあげられるんだな、、、 この時代はまだ平穏だ、、、 おれみたいなヤツに言い寄る理由が見えないから、単にからかわれているだけとか、モノ笑いのネタにされるんだろうとか、、、 ああ、ネガティブな方向にしか考えがいかない自分がまたそれに拍車をかけている。
「でっ、どうするの?」
そう言って、ハンカチをおれから取り上げる。やっぱり母親がするみたいに、外に向かってパンパンと水気を払った。どうするって言われましても、はやり据え膳食わぬは男の恥とか、また時代錯誤の言葉を持ち出してしまうおれ。
「するの? しないの?」
そりゃ、したいです、、、 けど、、、 ここで? ですか。
「ここが安全でしょ。じゃあ変わって」
そう言って、おれはクルマの外に追いやられた。朝比奈は運転席から助手席に移動して、そしてシャツを着た。あれっ、ああそう、着てしまうんだ。朝比奈はクイックイッと親指で運転席を指す。そうか、運転するかってことか、、、 あたりまえだな、、、 そのためにここまでしたんだから。