
仁科盛信
【諱】
盛信
【苗字】
仁科
【朝臣】
源
【生没】
1557年ー1582年
【父親】
武田晴信
【母親】
油川夫人
【兄弟】
武田義信
海野信親
安田信之
黄梅院
見性院
武田勝頼
真竜院
葛山信貞
武田信清
松姫
菊姫
【子息】
仁科信基
武田信貞
仁科晴正
仁科信久
督姫
【解説】
武田信玄こと武田晴信の5男として生まれる。
安曇郡を領する仁科氏の養子となり、仁科盛信と名乗る。
同じく信濃豪族諏訪氏の養子になっていた兄勝頼と違い、葛山氏を継いだ信貞と共に通字信を名乗っている。
父信玄が存命している間は信濃と越後国境警備に務めている。
勝頼が継ぐと父存命時と同じく国境警備に務める。
織田・徳川の軍事再編成し、武田領侵攻に備えを開始し、小山田昌成.昌貞兄弟と共に防戦態勢を取る。
甲州征伐が始まると織田信長の嫡男織田信忠5万人の兵力が包囲。
降伏を勧められるが、盛信は軍使である僧侶の耳をそぎ落として追い払い籠城を決める。
猛攻が始まり、奮戦し玉砕する。
首は京の一条通の辻に武田勝頼・武田信勝・武田信豊らと共に獄門にさらされるが。
領民から慕われ、手厚く葬られ、2018年現在も献花が絶えないという。
【子孫】
子孫は旗本になったり、郷士になるなど存続している。
現在、唯一岩間家と並び信玄の男系血筋を伝えている家である。