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鮮魚介類は、トリチウム濃度確認と同時の購入は測定方法上不可能

2023-08-25 22:46:49 | 原発

 福島原発にあるトリチウムを含む処理水海洋放出再考すべきだ。以下に認定特定非営利活動法人「原子力資料情報室」発行の2020.12.1「原子力資料情報室通信」№.558 「トリチウム水の海洋放出に反対する」の一部を抜粋し掲載します。

 「菅自公政府は福島原発にあるトリチウムを含む処理水を、海洋放出しようとしている。トリチウムはベータ線核種であるので、広く行われているガンマ線測定はできない。トリチウム濃度は、魚そのものの形で測定する事は難しく、乾燥・燃焼・生成水の回収など、測定前処理に時間と手間がかかる。商品の鮮度を維持しながら販売と同時に測定結果を得る事は困難だ。つまり、消費者が検査結果を確認して魚介類を購入する事はできない。現在、放射能検査体制を信頼して福島県産の魚介類を購入している人々は、トリチウム水の放出によって購買行動が変化すると思われる。海洋放出を行えば、福島の漁業に甚大な被害を与える事は避けられない。トリチウム水の処分法の再考を求めたい。」

(2020年12月14日投稿)


偽りの原発会計

2023-08-22 14:04:56 | 原発

 原子力資料情報室の連続ウェブ講座第6回(2021年9月21日)で講演した金森絵里・立命館大学教授(会計学)によると、原発の「廃炉会計」は会計として成立していないという。以下に講座要旨を紹介したい。

電源別発電コストで、原子力は2020年に11.5円、2030年に11.7円と試算しているが、高レベル放射性廃棄物最終処分費用は0円としている。政府は現時点で分からない金額を限りなく安く見積もっており、実際には10万年後までの処分費用がいくらになるか会計学者も計算不能であり、原発は安いという主張は欺瞞である。

 「東京電力を潰すと福島への責任が果たせない」という主張があるが、東京電力は2011年の事故から2年間は赤字であったが、13年からは黒字に転じ自己資本率はV字回復した。事故後一度も債務超過にはならず、事故前に約2兆円だった純資産は2021年3月には約3兆円となっている。

 「廃炉を円滑に進める会計制度」は、総括原価方式から託送料金へと変わった。廃炉に資産性をもたせるため、料金回収のための料金回収が必要という循環論法に陥っている。電気料金に廃炉会計を乗せるために新しい会計制度を作った事が問題である。会計の自立性が喪失し、廃炉会計は会計として成立しておらず、原発推進を正当化するために会計を利用している。

(2023年8月22日投稿)


全国戦没者追悼式の式辞からうかがえる天皇の先の戦争に対する認識と国民観

2023-08-18 00:31:03 | 皇室

 今年の「全国戦没者追悼式」での「天皇の式辞」(天皇陛下のおことば)で、まず全体を通して言える事は、「第三者的」な立ち位置を感じさせる表現を使用している事である。

 例えば、かけがえのない「命を失った」という表現や、「深い悲しみを新たにいたします」という表現であるが、「命を失った」のは誰に責任があるのか?それは現行天皇のお祖父さんである「昭和天皇」やお父さんである「平成天皇」であろう。それをきちんと自覚しておれば「深い悲しみを新たにいたします」という表現では済まない事は明らかであろう。この表現を使用するところに現行天皇の「先の戦争」に対する認識や国民観が表れているといえるだろう。

 また「終戦」ではなく「敗戦」とすべきであろう。「終戦」という表現はただ無意識に使っているのではなく極めて意識的と思えるもので、「敗戦」を認める事はできないとする天皇家皇族全体の統一認識に基づくものと見做してよいだろう。「終戦」という表現の使用については、敗戦処理内閣である東久邇宮内閣が、1945年9月初めに議会を開き、そこで首相自ら国民に向けて戦争終結のメッセージを送る演説を行っているが、その演説の草稿段階で、陸相であった下村定が草稿の中の「敗戦」という表現をみつけ、「敗戦ではなくて、終戦としてほしい」と注文をつけた事がきっかけとなっているのである。それを天皇家皇族も延々と踏襲しているという事なのである。天皇家皇族が自ら負わねばならない責任を自覚し使用すべき適切な表現を選択すべきであるにもかかわらず、「終戦」という表現を今回までそのまま踏襲し続けている姿勢に天皇の「先の戦争」についての認識が表れているのである。国内では問題視されずに使用できても、外の世界や外国からみればこれは「異常」「不可解」としか思えないにもかかわらずである。

 また、「再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」という表現については、「さきの戦争」を引き起こした責任者について、憲法前文の表現を認識しておれば、天皇は政府の部分(敗戦前は統治権の総攬者であり、敗戦後は内閣の助言と承認により、法律、政令及び条約を公布する役割)であるから、「政府の行為によって」という表現をその前に付け、戦争責任者の継承者である立場を明確にするとともに自身の意思を示すため、「過去を顧み、深い反省の上に立って、政府の行為によって再び戦争の惨禍を引き起こす事のないようにする事を決意し」とするべきであろう。しかしそうではなく、極めて第三者的な無責任な表現を使用しており、天皇が主権者国民に対し「繰り返してはいけない」と説諭しているような表現になっている。

 そして、「全国民と共に」とあるが、天皇と国民とは立場も人格も別なのであるから、天皇が国民の個々の意思を無視して自身の都合で一方的に、全国民(主権者)を代表しているような表現を使用したり、全国民(主権者)に対し天皇の意思に同調させる圧力をかけるような表現を使用したりすべきではない。天皇として自身の意思だけを表明すべきである。「先の戦争」に対する認識は立場の違いにより異なるものであるからだ。「戦陣に散り」という表現は期せずしてそれを示してくれており、この表現は天皇の「先の戦争」についての認識を表しているものである。「散り」とは「死」を「美化」するため神聖天皇主権大日本帝国政府が敗戦までよく使用した「散華」と同じであり、「玉砕」などにつながる表現で、戦争の真実を曖昧にし隠蔽し美化する表現であった。そのような表現を使用しているところに「先の戦争」についての主権者国民の認識との違いが表れているといえる。また「追悼」という表現についてであるが、本来とは異なる意味をもたせておきながら、それを「曖昧」に使用し主権者国民を「ごまかして」いるように思われる。つまりそれは「戦死者を顕彰し、讃えている」にもかかわらず、それを「哀悼しているのか」のように思わせているという事である。この「追悼式」は、「追悼」という表現を「戦死者を顕彰し、讃える」意味で使用しておきながら「哀悼」しているように思わせているのではないかという事である。

 今後もこのような「式辞」を続けるというのであれば、もう止めていただきたい。このような問題は地方自治体が実施している「追悼式」や、その「式辞」においても同様に存在していると思えるがどうだろう。

(2020年8月22日投稿)


戦没者追悼式の安倍首相式辞は歴史を書き換えた歴史修正主義

2023-08-18 00:24:09 | 宗教

 安倍首相の式辞はアジア太平洋戦争について、その侵略的性格と神聖天皇主権大日本帝国政府為政者とそれを継承する人間たち、つまり自民党だけを利したという性格を認めず不問にし、事実を自己に都合よく書き換えたものである。

 「皆様の尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄がある」という文言は、安倍首相がアジア太平洋戦争の侵略的性格を認めているならば語れる文言ではない。また、「平和と繁栄」は「尊い犠牲」の上に享受しているのではない。

 「尊い犠牲」によって「平和と繁栄」が生み出されたのではないし、戦没者は「尊い犠牲」ではない。「尊い犠牲」という考え方は、神聖天皇主権大日本帝国政府為政者のために「犠牲」になってくれた人に「ありがとう」という感謝をし「顕彰」する考え方に基づくものである。

 しかし、侵略戦争の戦没者はそれには当たらない。侵略戦争で亡くなった人々は、戦場へ本人の意思の有無を問われず送り出され、弾なく武器なく食料なく医薬品なくという「ないない尽くし」の状況下の戦闘に追いやられ、そのうえ見捨てられ「無念の死を政府によって強制」された人々である。安倍首相はそれを「尊い」としているのである。それはなぜか。国民が戦場へ行って命を賭して戦ってくれる事が為政者にとっては好ましくありがたい事であって、それによって戦争を遂行できたとして讃える事を目的としているからである。つまり、為政者のために戦ってくれた事に感謝するという考え方に立つ「言葉」なのである。その為政者側に立つ安倍首相にとっては当然の言葉なのである。また、あえてしつこくそのように語る事によって、安倍首相は国民の意識を洗脳し、過去の侵略戦争を正当な戦争であると評価認識させようとしているのであり、現在推進している戦争政策を正当化しようとしているのである。

 だからその文言の後に「改めて敬意と感謝の念を申し上げます」としているのである。しかし、安倍首相が日本国憲法の前文に基づいて国民に対して示すべき誠意ある言葉としては、戦没者に対する謝罪と遺族に対する補償についての文言であるべきである。彼がその文言を使用しないのは、そこに彼の国民観(戦前の国民観)が表れているといえる。

 また、「尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄がある」という文言と「敬意と感謝の念を申し上げる」という文言の間にある「哀悼」という文言は、その前後の文言の意味を考えれば、「顕彰」という文言を使用するのが妥当であるにもかかわらず、それをなぜか「哀悼」という文言を使用しているのは国民をごまかすためなのだろうと思われる。 

 その後の文言には「我が国は戦後一貫して戦争を憎み、平和を重んじる国として、孜々として歩んでまいりました。世界をよりよい場とするため惜しみない支援、平和への取り組みを、積み重ねてまいりました。」とあるが、これはまったく事実と正反対と言ってよく、歴史的事実を都合よく書き換える「歴史修正主義」に立った歴史観そのものである。なぜなら、

 朝鮮戦争やベトナム戦争では、日本政府はどのような役割を果たしたのですか。「死の商人」として米国に協力し、戦後の経済復興を短期間で果たし、経済発展の基礎としたのではなかったのですか。その間、直接戦闘に参加していないけれども、沖縄県を兵站基地として、米軍を支援してきたのではないですか。最近では、「正しい決断」と称して、イラク戦争などにも関わっていますね。

 また、武器輸出をするようになったという事もあるし、原発をも輸出するし、「積極的平和主義」という言葉でごまかして、「憲法違反」の声にも耳を貸さず、安全保障法制を強行成立させ、世界へ自衛隊を派遣する事を可能にしてしまったしね。最近では核兵器を持つ事を憲法は否定するものではないと強調しているし、核先制不使用に反対しているというしね。安倍政権は詐欺師政権といわれても当然ですからね。

 その後の文言は、今までの安倍政権の姿勢を見ていると、その欺瞞と傲慢さに開いた口が塞がらない、という文言ではないですか。

「戦争の惨禍を決して繰り返さない。これからも、この決然たる誓いを貫き、歴史と謙虚に向き合い、世界の平和と繁栄に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世の中の実現に全力を尽くしてまいります。明日を生きる世代のために、希望に満ちた国の未来を切り開いてまいります。その事が御霊に報いる途であると信じて疑いません。」

ヒトラーの言葉そのままを実行している人物ですね。その一つに、

「大衆は小さなウソより大きなウソを信用する」という言葉がある。

しかし、日本の若者の多くは、安倍首相のこの言葉をそのまま信じてしまうのですね。若者だけではないようですがね。

(2016年8月26日投稿)

 


全国戦没者追悼式式辞:安倍首相が一貫して加害に触れない理由は靖国神社の思想

2023-08-16 23:27:55 | 宗教

 安倍首相は、2016年、71回目の全国戦没者追悼式の式辞で、13年から4年続けてアジア諸国への「加害」と「反省」に触れなかった。13年には、首相は「誰のため、何のために開く式なのか抜本的に考え直して欲しい」と指示し、官邸幹部も「参列者が遺族中心のためアジアへの謝罪はなじまない」として、「加害」や「反省」や「哀悼」を消したという。

 この事は彼らの「歴史認識」を表しているものであり、今日普遍性を持たない「価値観」であり「歴史認識」である事は言うまでもないが、この首相たちの「判断」、「価値観」は何を背景にしているのだろう。

 これこそ、「靖国神社」の思想(国家神道)そのものなのである。サンフランシスコ講和条約発効後の1952年9月30日に、靖国神社は東京都知事の認証を得て、「宗教法人法」による「単立宗教法人」を設立した。そして、「宗教法人『靖国神社』規則」と「靖国神社社憲」を定め、敗戦までの靖国神社の思想性格を継承する事を表明した。靖国神社は、「明治天皇の『安国』の聖旨」に基づく神社である事を強調し、戦没者を「万代に顕彰」し、「その神徳をひろめ」る事を目的に掲げて、大日本帝国下での役割を復活する事を公然と表明したのである。そして、「国家護持」運動、「天皇・首相らによる公式参拝実現」運動をへて、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」による集団参拝運動の今日に至ってるのである。

○「宗教法人『靖国神社』規則」1952年

(目的)第3条 本法人は、明治天皇の宣らせ給うた「安国」の聖旨に基づき、国事に殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行い、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化育成し、……。

○「靖国神社社憲」1952年

(前文)……嘉永六年以降国事に殉ぜられたる人々を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため、……。

 第一章 総則

(目的)第2条 本神社は、御創立の精神に基づき、祭司を執行し、祭神の神徳を弘め、その理想を祭神の遺族崇敬者及び一般に宣揚普及し、社運の隆昌を計り、万世にゆるぎなき太平の基を開き、以て安国の実現に寄与するを以て根幹の目的とする。

                               以上

 そして、靖国神社へ神として祀られる対象が、天皇への忠誠を基準としており、天皇に敵対した者は厳重に排除している事である。この価値観こそが安倍政府の主催によって行われている「全国戦没者追悼式」であるという事だ。

 「追悼式」までもが、安倍政権の価値観によって作り変えられているのである。「追悼」という名称であるが、実態は「顕彰」なのである。安倍政権からすれば「戦没者」は「平和」のために尽くしたという事になるのである。

 また、敗戦後の自民党の政治政策は天皇制護持を目的としたものであり、それが「平和」を守る事を意味したのである。朝鮮戦争やヴェトナム戦争などへの支援もそうなのである。そして、「これからも……世界の平和と繁栄に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世の中の実現に全力を尽くしてまいります。希望に満ちた国の未来を切り開いてまいります。」という文言は他でもなく「積極的平和主義」の正当性をアピールしているのである。

また、おまけに、「その事が御霊に報いる途であると信じて疑いません」という文言は、「戦没者(御霊)の後に続く事を誓います」という意味を含めており、国民の意識を鼓舞しているのである。

 これに反対する国民は、みずからの価値観で安倍政権とは別に「追悼式」を実施する決意を持たねばならない事態になったという認識が必要である。

 ちなみに、昭和天皇の動きを見ると、1952年10月16日、「靖国神社」が一宗教法人として復活を遂げた後初めて、皇后と共に、参拝し、翌年の秋季例大祭から、秋季例大祭ごとの「勅使参向」を復活させた。これによって天皇と靖国神社の結びつきが敗戦までのように復活したのである。

 そして、この時点から、先日の「生前譲位のお言葉」の中に「象徴的行為」についての悩みを述べていたが、「国民体育大会」や「植樹祭」という「象徴的行為」を始めたのである。そしてさらに重要な事は、この旅行の際には、地元の「護国神社」への参拝をするようにした事である。護国神社は、1946年に、国家神道の延長線上で、神社神道を宗教として存続させるために設立されていた「神社本庁」に所属していた。「神社本庁」は庁規第61条に「(伊勢)神宮は神社の本宗として本庁之を輔翼す」と定めており、神社本庁の設立は、国家神道時代の天皇中心の国体の教義と神社の中央集権的編制が、形を変えただけで基本的に存続する事を意味した。敗戦までの国家神道の組織は見事に復活したのである。

 つまり、昭和天皇は、国民に知られないように「政治的行為」(憲法の政教分離原則違反)を行っていたのである。メディアもその重要性を国民に伝えてこなかったのである。そして、現行天皇もこの象徴的行為を継続してきており、国民は放置してはいけない。また、天皇自身が責任を明らかにすべきである。しかし、それはあり得ないであろう。

 象徴的行為の中身は天皇の「慈愛」の顔であるが、この顔は、純粋なものではない。極めて計算されたもので、時の政権(現在であれば安倍政権)の政治政策に対する国民の不満のガス抜きをさせる役割を担っているのである。つまり、天皇の象徴行為は、時の政権と無関係ではなく、深く関係しており、両者がセットになって機能しているため、極めて政治的な行為とみなすべきであるという事である。

 天皇はそのような認識を持っていないようであるが、これは「無責任」以外の何物でもない。ハンナ・アーレントの言葉に、ナチス・ドイツのアイヒマンについて、彼の罪は「考えない事」だと言っているが、それと同様である。アイヒマンは、ユダヤ人虐殺であると知りながら、自分に与えられた仕事であるからと、それ以上の事を考えようとしなかった。

(2016年8月29日投稿)