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明六社同人はエリート意識強く愚民観有する政府官僚で民衆の自由民権運動を裏切った。朝日の社説表現は誤解を生む

2024-03-05 20:14:52 | 日本人

 2018年10月21日の朝日新聞社説「明治150年 議論重んじた先人たち」が、「『明治』に学ぶべきは何か」と問いかけ、「それはしっかり議論する事。互いに尊重し合い、異見にも耳を傾け、考えを深める姿勢ではないだろうか。新しい時代を切り開こうと苦闘した先人の営みは、議論を避け、仲間内の言葉に酔い、独善がまかり通る『いま』に、警告を発しているように見える」と結論づけ、「多様性と寛容さがあった」一例として「明六社」同人の活動を取り上げ、特に福沢諭吉の名前を挙げて称賛し範とすべきよう紹介している。

 しかし、このような「明六社」同人についての紹介内容は、「社説」の意図に合う都合の良い部分だけを利用して紹介しているものでありひじょうに短絡した紹介になっており、このような紹介では読者が「明六社」同人について誤った理解をしてしまうため、実態を紹介したい。

 神聖天皇主権大日本帝国政府文明開化や富国強兵策を打ち出すと、1873年に明六社が結成された。「明六社同人」は福沢諭吉を除いてほとんどが政府の官僚であり、政府と基本的に同じ立場であった。エリート意識を持つ彼らは政府の開化政策推進のため機関紙『明六雑誌』を発行し、愚民視していた民衆の啓発活動を行った彼らは政府の政策作成に関わるとともに、その政策に自発的に協力する民衆を生み出す事が目的であった。

 ところが、1874年に板垣退助らが「民選議院設立建白書」を政府に提出(自由民権運動の開始)すると、この建白に対して明六社同人は口を合せたように「時期尚早」であると反対した。中でも加藤弘之は「今の農商の人民には何らの政治的自覚もなく、むろん知識もない。士族にはやや政治的自覚はあるが、政府は何者であり、政府の収税の権は何にもとづき、臣民の軍役の義務は何の理によるかなどを解する者はほとんどいない。この時に民選議院を開けば、いたずらに愚論の府となるばかりか、あるいは国家の大害ともなりかねない」「我国開化未全の人民を挙げて天下の事を共議せしめ、その公議を採って天下の制度憲法を制定せんと欲するも、恐らくは木に縁って魚を求むるの類であろう」と反駁した。それに対し大井憲太郎は「建白や民権主張の世論そのものが人民知識の発達を物語っており、議院設立はさらに実地教育で民衆を向上させる事となる。納税者が政治に参与し政府財政を調理するのは当然の権利だ」「世襲の士族は人民と相離居する事多年、まったく真に人間の利害に疎く、よって議員は士族からのみでなく、一般の人民からも選ばれなければならない」とした。その後の「明六社」は、政府が1875年に讒謗律や新聞紙条例などを制定し政府批判を禁止すると、それに抵抗して言論・出版の自由のために闘うのではなく、機関紙『明六雑誌』の発行を止め自然解体した。これは明六社の啓発主義の性格を示している。その後の加藤はその後立身出世の階段を歩き1877年に東大初代総理、1890年には帝国大学総長となるが、1879年には「天賦人権論」反対を発表し、1881年には「優勝劣敗・敵者生存」を説き、1882年には『人権新説』で天賦人権説や自由民権は虚妄であるとして攻撃し、国家主義に転向宣言した。加藤と同様に福沢諭吉も変貌する。民権運動を危険なものであると考え、民衆への啓発を止め、1876年には「人の智愚は系統・遺伝による」と説く。それ以降は民権運動と敵対し、富国強兵の「侵略主義」を説いた。西周も学者官僚として、軍人勅諭の起草に携わり、貴族院議員にもなり、出世階段を歩んだ。西村茂樹皇室中心主義の国民道徳の興隆に尽力。国粋主義の先駆となった。森有礼は伊藤内閣の文相となり、国家主義的教育体制を確立した

 明六社同人は、啓発した教え子たちが自由民権運動に政治的主体性の成長を誇示し始めると、これを抑える側にまわり、啓発の論理を転換させていったのである。

 明六社同人は、啓発した教え子たちの民権運動によって乗り越えられ、その時彼らはその啓発思想とその理想を投げ捨て、現実主義に居直る事によって、教え子たちを否定しようとしたのである。

(2018年10月25日投稿)

 

 


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