つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

安倍首相が、宗教法人の一つである靖国神社へ代理稲田朋美(総裁特別補佐)を遣わし玉串料を奉納

2024-10-08 21:48:35 | 宗教

 2019年8月15日、安倍首相は自民党の稲田朋美(総裁特別補佐)を代理として靖国神社へ遣わし、玉串料を奉納させた。玉串料とは、神社にお参りした際やお祓いを受けた際の謝礼として奉納した金銭の事である。どのような言い訳をしようが靖国神社は数多ある宗教法人の中の一つに過ぎないものである。そのような靖国神社に「総理大臣」の肩書を持つ人間である安倍氏が、私費であるか否か、代理を遣わしたか否かに関わらず、玉串料を奉納したという行為は、紛れもなく、憲法の「政教分離原則」に違反する行為である。第20条「信教の自由」1項には「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」、3項には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている。さらに、代理人の奉納行為の護衛などに国家公務員を関わらせた場合、2項の「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」の定めに違反しており、公務員の人権を侵害している。憲法違反行為を直ちに止めさせるべきである。

 さらに重大な放置してはならない事は、首相代理の稲田朋美氏が首相から託された言葉である。その言葉は「令和の新しい時代を迎え、改めて我が国の平和と繁栄が祖国のために命を捧げたご英霊のおかげであると感謝と敬意を表します」というものである。この認識は明らかに安倍首相の偏向した主観的なものであり、誤ったものである。日本国の今日の姿(繁栄であるか否か、平和であるか否かは一概には言えない)は戦没者(「祖国のために命を捧げた」という表現や「ご英霊」という表現は、戦没(者)の真相(情)を歪曲して独善的に讃え美化するもので、不適切)のお陰ではなく、感謝や敬意を表す事との関係はない。「英霊のおかげ」とか「感謝や敬意を表す」などの感情や行為は過去の戦争を侵略戦争とは認めず、侵略戦争を正当化する「聖戦」認識を有する人間の認識である。安倍首相が神聖天皇主権大日本帝国政府為政者の立場に立っている事を示す言葉であり、断じて認められない。神聖天皇主権大日本帝国政府によって捏造された新興宗教国家神道(幕末に生まれた他の多くの新興宗教を抑圧弾圧し統制下に収めて創生)を根拠とする靖国神社に、首相がそれへの信仰を有する事を示す「玉串料を奉納する」という行為は奇々怪々で憲法違反そのものであり主権者国民はこの行為をやめさせるべきである。その際国民は、この問題の根源元凶は天皇家の宮中神道にある事に気づき、それにどう対処すべきかにも思考を巡らせるべきである。

 安倍内閣の閣僚による敗戦(終戦という言葉は当時の陸軍大臣や為政者の価値観に基づくもので不適切)の日の参拝は、17年以降途絶えているが、超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長=尾辻秀久・元厚労相)の衆参議員は例年通り集団参拝した。それに先立って、萩生田光一幹事長代行や小泉進次郎衆院議員も参拝した。

 2018年の敗戦の日は、柴山昌彦(自民党総裁特別補佐)が代理を務め、「自民党総裁 安倍晋三」の肩書で玉串料を納めた。安倍首相からは「先人たちの御霊にしっかりとお参りして下さい」との話があったとの事。今年の言葉は昨年より首相の価値観を明確に表明していると言って良いだろう。

(2019年8月23日投稿) 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丸川珠代氏の『選択的夫婦別姓制度』答弁や会見内容は支離滅裂の屁理屈

2024-10-08 21:46:17 | 選択的夫婦別姓

 丸川珠代氏(男女共同参画担当相兼五輪パラ担当相)の国会答弁や記者会見への不信感と批判が日毎に高まっている。

 それはなぜか?丸川氏の国会答弁や記者会見の発言が、すればするほど、どのように考えても、上記担当相にあるまじき支離滅裂な屁理屈としか言いようがないからである。

 丸川氏は、今年2021年1月30日付(大臣就任前)で、選択的夫婦別姓制度実現を求める意見書の採択を進めていた埼玉県議会議員宛に「『選択的夫婦別氏制度』の創設には反対しております」との文言で、自民党衆参50人の国会議員有志の名前を連ねた中に丸川氏の名前も入る書状を送っている事が明らかになっている。

 賛同し名前を連ねた事に関して丸川氏は、2月24日の記者会見で「私個人の信念だ」と説明するとともに、「私の考えは脇に置いてでも、国際社会から理解を得て、力を尽してやる」とも述べている。

 また2月24日の衆院内閣委員会では、選択的夫婦別姓の議論の進め方についての質問に対し、「国民が深い議論をするような環境を後押しするのが自己の役割」と答弁している。

 また、3月3日の参院予算委員会では、選択的夫婦別姓に反対している丸川氏の男女共同参画および五輪パラ担当大臣としての資質を問う質問に対して、「今は大臣である」「一議員としての意見を表明した」「家族の一体感について議論があって、家族の根幹にかかわる議論だという認識をもったからだ」とも答弁している。

 上記の丸川氏の答弁主張をそれなりに整理してみると、「夫婦別姓反対の信念脇に置いて、国際社会から理解を得て、ジェンダー平等の職責を果たし、男女平等参画を推進する」という事になる。これは支離滅裂な屁理屈に過ぎないのではないだろうか。

 果たして丸川氏の言うような事が可能であるのか。彼女の言うような事は実際は不可能である事は分かり切っているのではないだろうか。彼女のジェンダー平等推進についての考え方では形だけの結果しか生まないのではないだろうか。

 なぜなら、丸川氏は「信念」という言葉を使ったからである。「信念」とは「固く信じて動かない心」という事である。自己の考え方を変革しようという意思がないのである。学び成長発展しようとする姿勢がみられないのである。担当相ならば、自ら学ぶ意思を持ち、さらに自己変革しようとする意思をもつ必要があるのではないだろうか。はじめから「信念を脇に置く」のではそれは不可能である。常に柔軟で科学的な思考をし、これまでの「信念」をも変革する柔軟な意思がなければ、どんな事でも「推進」する事はできないのではないだろうか。

 このような点から、丸川珠代氏は、男女共同参画担当相および五輪パラ担当相の資格を有しない事が明確であり、自ら辞任および更迭すべきであると考える。

 また、菅首相が3月4日の参院予算委員会で、丸川氏について、「一政治家としてこうした活動(夫婦別姓制度反対)をする事は、おかしくない任命時に承知していないけれども、こういう事を事実と知っていても、大臣は丸川さんにお願いする」と答弁している事に関して付け加えておきたい。

 「任命時に承知していない」というのはどういう事なのか。これはウソだと思うが、誰でもいいのか。任命というのはそんないい加減なものだという事である。また、「こういう事を事実だと知っていても、大臣は丸川さんにお願いする」という答弁は、菅首相は森発言をきっかけに現在世界中で、菅自公政権の「ジェンダー平等」意識やその解消取り組みについて強い関心を持たれているなかで、その解消に本気で取り組もうとしていないという事を表しているのだろう。今のままの方が都合がよいという事であろう。

 菅首相も、菅自公政権も、まったく主権者国民のための政権担当能力を有していない事は明らかで、主権者国民は、生活の安心安全を守るためには菅自公政権をできる限り早く打倒し、主権者国民の安心安全を第一とする新しい政権を樹立しなければならない。そして、主権者国民も新しい政権を支え、ともに汗を流し生きる覚悟を持つべきである。主権者国民が自己の将来を本気で考えなくて何を求める事ができよう。

(2021年3月6日投稿)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孫基禎が生きた神聖天皇主権大日本帝国政府による植民地支配下の朝鮮:メディアは主権者国民に伝えきれているだろうか?

2024-10-08 18:58:29 | 朝鮮問題

※下記は2020年6月20日放送の「映像の世紀」『オリンピック・激動の祭典』を見た際に、2018年5月31日に投稿した内容を思い出し、改めて投稿したものです。

 2018年5月4日の朝日新聞記事「憲法を考える 揺れる価値2」が、1936年8月1日~16日に、ヒトラーが開催したベルリン・オリンピックマラソン優勝者・孫基禎の記事を載せていた。日本の新聞の取り上げ方、彼の悲しみ、彼や朝鮮メディアに対する特別高等警察(特高)の対応など。しかし、このような内容では読者は当時の神聖天皇主権大日本帝国政府朝鮮総督府(総督は天皇直属の地位と権力を有した)による朝鮮民族を奴隷化自由を奪う過酷な植民地支配を想像し理解する事はできないであろう。植民地支配の実像を知る者の多くがすでにこの世を去った今日、大人たちも多くが間違いなく、特に若者たちにはとっては確実に。朝日新聞はそのような意識状況を把握した上で、伝えたい事を適確に受け取ってもらえるように、内容に検討を重ね、試行錯誤の上、より良い手法で記事を書くよう心がけるべきであろう。それほどに今日の国民の意識状況が変貌している事に敏感であるべきであろう。

 ベルリン・オリンピックのマラソンでは1位が孫基禎であるが、3位にも南昇龍が入っていた事も知っておこう。同年8月10日の朝日新聞の見出しは、日本のオリンピック初参加が1912年第5回ストックホルム大会であった事から「マラソン24年の宿願成る」や、「世界に誇れ孫選手 見事1着 日章旗輝く」「南選手も堂々3着」とした。しかし、朝鮮民族の新聞『東亜日報』8月25日夕刊は、孫選手の白いシャツの胸の「日の丸」を消した写真を掲載して発行した(日章旗抹消事件)。朝鮮総督府(1936年8月5日~42年5月28日は南次郎陸軍大将が総督、第7代)はこれに対し、反日的であるとして無期停刊(翌年6月2日解除)の処分とした。写真修正した画家李象範、運動部責任者李吉用、社会部長、写真部長、社長宋鎮禹ら11名を逮捕し、40日間警察に勾留尋問した。そして、李吉用ら5名には「今後言論機関に一切関与しない」という誓約書を書かせて言論機関から追放し、宋鎮禹ら3名には辞任させた。同様の写真を掲載した『朝鮮中央日報』は自ら停刊して謹慎したが、1937年11月に発刊停止とした。また、『朝鮮日報』は1936年秋、本社2階の講堂で、「高等普通学校体育教師たちに対する報告」と題して、孫選手の歓迎会を開催した。ソウル市内の体育教師たち40名が集まったが、孫選手には朝鮮語(ハングル)で話す事を許さず、日本語で話させた

 1936年8月、朝鮮総督になった陸軍大将・南次郎は、朝鮮民族に対し、国家神道による皇国臣民化(民族性抹殺、日本人への同化)政策を推し進め、思想統制の強化や民族運動を弾圧した。新聞・雑誌の用語は、日本を「内地」、日本語を「国語」、日本軍を「我が軍」「皇軍」の使用を強制した。1940年8月10日には『朝鮮日報』『東亜日報』を廃刊処分にした上で、『防共朝鮮』『思想報国』などを出版した。

 皇国臣民化政策の内容は、①1村1神社計画を推進し神社参拝強要(家庭に神棚を作らせ、天照大神のお札を買わせ毎朝礼拝、キリスト教徒の投獄と教会閉鎖などの弾圧と懐柔も)、日の丸掲揚、皇居遥拝、「君が代」斉唱の強要、②「皇国臣民の誓詞」(1937年10月制定、「私共は大日本帝国の臣民であります」「私共は心を合せて天皇陛下に忠義を尽くします」「私共は忍苦鍛錬して立派な強い国民となります」などの内容)斉唱の強要、③第3次朝鮮教育令改正(1938年3月)し、「内鮮共学」として日本と同じ教科書、同じ教育方針などを規定し、朝鮮語(ハングル)を廃止して日本語の常用を強要、④国民精神総動員朝鮮連盟の発足(1938年7月、皇国臣民化政策推進組織、基礎単位として愛国班を編成させ、物資を配給するとともに防共防諜の相互監視をさせた)、⑤創氏改名(1940年2月11日)強要、⑥徴兵制実施(1944年。1938年4月陸軍特別志願兵令施行。43年7月海軍特別志願兵令公布。44年国民徴用令強制連行。44年8月女子挺身隊勤労令公布)などが主なものであり、朝鮮民族の土地を奪い、を奪ったうえに、人の体と心を奪い奴隷化し、神聖天皇主権大日本帝国政府によるアジア太平洋戦争を遂行するために強化されていったのである。

 しかし、皇国臣民化政策に対する抵抗は続けられた。その代表例の一つを紹介しよう。それは「朝鮮語学会」の活動である。「学会」は1932年機関紙『ハングル』創刊、33年「ハングル綴字法統一案」発表、36年標準語の査定完成、36年4月から「朝鮮語辞典」編纂を開始した。しかし、1942年夏、一女高生の日記に「日本語を使い処罰された」とあった事をきっかけに、総督府は「治安維持法」違反として、同校教員を検挙し、10月にはハングルを抹殺するため、「学会」が独立運動をしたとでっち上げて解散し、李克魯、崔鉉培、李煕昇らの言語学者ら33名を逮捕投獄した。李允宰、韓澄の2人は拷問と栄養失調で獄死した。これを「朝鮮語学会事件」という。

 神聖天皇主権大日本帝国政府が、「東亜の盟主」を任じ「アジアの解放」を主張した「大東亜戦争」なるものは、朝鮮に対する植民地支配をみれば、それがいかに欺瞞に満ちたものであるかが分かる。そして、この忌まわしい残虐な歴史は、民衆が支持をせず、それを黙許する姿勢を見せていなければ起こり得なかったであろう。今日の安倍自公政権下のメディアの記事はそこから学ぶべき事を読者に的確に伝えきれているだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄季評に書かれた教科書が載せない、敗戦直後のパンパンと明治維新の新島原遊郭

2024-10-08 10:50:23 | 慰安婦問題

 2021年11月5日の朝日新聞「沖縄季評」が「パンパン」の事に触れていた。「パンパン」とは、「アジア太平洋戦争で降伏した日本を占領した、連合軍兵士の相手をする日本人売春婦を指す言葉」であるとしている。

 さて、GHQによる占領下の日本政府は、占領軍兵士に対する性的慰安施設を設置した事を紹介しよう。日本政府は1945年8月18日、占領軍専用の「慰安施設」を特設するよう官僚に指示している。「日本の娘を守る」という名目であった。当時の大蔵官僚であった池田勇人が「1億円で純潔が守れるのなら安いものだ」と活躍した。しかし、プロの売春婦たちはこの事業に参加する事を拒んだ。彼女たちは「アメリカ人は大男なので性器も巨大だろうから怪我をする」と考えたようだ。そこで設立者たちは一般女性を募る事にして、東京銀座巨大看板を出した。それには『新日本女性に告ぐ、戦後処理の国家的緊急施設の一端として、進駐軍(占領軍)慰安の大事業に参加する、新日本女性の率先協力を求む』と書いた。愛国的、自己犠牲的に参加した女性もおおかったようで、8月22日までに1360人もの女性が「特殊慰安婦施設協会」(RAA)に登録した。そして、皇居前広場RAAの発足式と『……戦後社会秩序の根本に見えざる地下の柱たらんとす……国体護持に挺身せんとするに、他ならん事を、重ねて直言し以て声明となす』との宣誓を行った。

 RAA発足の日には数百人の米兵たちが大森のRAA施設に向かった。少数の娘たちが集められていたが、大半は処女であった。ベッドも布団も衝立もなく、阿鼻叫喚、官僚が罠にはめた娘たちは米兵に集団強姦された。当時の警察署長はすすり泣いたという。RAAの女性が相手にした米兵は1日15人から60人であった。自殺者も精神的な問題を抱えた女性も多かった。RAAは数カ月で廃止された。RAAの女性の90%が性病に感染し、米兵の70%が梅毒、50%が淋病に感染している事が判明したからである。

 RAAの廃止後、内務省官僚は『女性には売春する権利がある』と赤線地域を設定した。警察が市街地図に赤線を引き、その範囲内での売春を許可した。5万5千人から7万人の売春婦がいたという。

 ところで、明治維新においても新政府が同様の政策を実施していた事も紹介しよう。『戊辰物語』(東京日日新聞社会部編)によると、「吉原の廓築地へ移して外国人お取持ちのため「新島原」というのが出来る話が始まって、吉原の連中が「どうぞ移りませんように」と神様参りを始めたりした。ホテル館が出来る、居留地が出来る、遊郭が出来るで、攘夷家は築地近辺を通らなかった。新島原は確か2年に竣工したと思うが、仲の町があり、花魁道中があり、引手茶屋などすべて本式で、今のうなぎの竹葉の通りが仲の町、鉄砲洲に大門があった。遊女はどのくらいあったか知らんが、島原八カ町といった。この遊郭は2年ばかりで廃絶したが、一時は大したもので、遊女屋のおやじは「天下のための商売だ」とひどく威張った」とある。

ちなみに、新島原遊郭は、1868(明治元)年11月東京築地に開かれ、居留地の外人めあてに千名近い娼妓が存在した。後、各方面からの反対で、1871(明治4)年全部取り払われた。

赤線地域……政府公認の売春地域。日本政府はGHQの公娼廃止指令に基づき、1958年売春防止法を制定し、公娼制度を廃止し、赤線地域(売春許可地域)もなくした。

(2021年11月6日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1950年代政治家の沖縄県民観と芦田首相の「土人発言」

2024-10-08 10:37:20 | 沖縄

 沖縄県民の72%が署名までして「日本復帰」を請願したが、吉田茂内閣はそれを完全に無視して、1951年9月8日サンフランシスコ講和条約に調印し締結し、52年4月28日には条約が発効した。

 「沖縄タイムス」の29日付の社説は、「……国際社会へ復帰した祖国日本の慶事を、われわれ琉球住民は無量の感慨をこめて祝福したい。それにしても取り残された嘆息が深く、もがいたところでどうともならぬ諦めがわれわれの胸を締め付ける」と書いている。日本政府によって、本土が独立するために沖縄が切り捨てられ米国の植民地とされた「恨み節」、身売りされた子どものような悲しみが書き綴られている。

 このような沖縄県民の思いに対して、当時の日本の政治家たちは、どのような理解をしていたのだろう。それは以下のような言葉が物語っている。たとえば、

 1954年に社会党の訪ソ使節団が、帰途に沖縄へ立ち寄った事があった。それは、敗戦後初めての本土政治家の訪沖であった。その時に、使節団長が新聞記者に感想を求められて発したのが「沖縄には日本語の新聞があるのか」という質問であったのだ。また、

 1948年3月から10月まで首相を務めた芦田均、この人は現行憲法を制定する際に、「戦争放棄」を定めた第9条の第2項に「前項の目的を達するため」の字句を追加する「芦田修正」を発案した人物で、この表現が後に、「前項の目的(国際紛争の解決)」以外(自衛)のための戦力保持は「違憲ではない」という論拠となったのであるが、この人物が、50年代から始まる沖縄県民の「祖国復帰運動」の高まりに対して発した言葉が「沖縄の土人は戦前はヤシの実を食べ、裸足で歩いていたが、今ではアメリカのおかげで良い生活をしているじゃないか」という内容だったのである。

 つい最近も、大阪府警の機動隊員による「土人発言」があり、それに対する松井府知事の「正当化」発言があり、日本中の多くの国民が現在「憤懣」で煮えたぎっているのであるが、50年以上経った今日日本の安倍自民党政権や裁判官や国会議員や国家権力に携わる人間は、沖縄県民に対して、人権意識がまったく感じられない芦田首相などの沖縄認識からどれだけ成長したと言えるだろうか。

(2016年11月4日投稿)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする