沖縄県民の72%が署名までして「日本復帰」を請願したが、吉田茂内閣はそれを完全に無視して、1951年9月8日サンフランシスコ講和条約に調印し締結し、52年4月28日には条約が発効した。
「沖縄タイムス」の29日付の社説は、「……国際社会へ復帰した祖国日本の慶事を、われわれ琉球住民は無量の感慨をこめて祝福したい。それにしても取り残された嘆息が深く、もがいたところでどうともならぬ諦めがわれわれの胸を締め付ける」と書いている。日本政府によって、本土が独立するために沖縄が切り捨てられ米国の植民地とされた「恨み節」、身売りされた子どものような悲しみが書き綴られている。
このような沖縄県民の思いに対して、当時の日本の政治家たちは、どのような理解をしていたのだろう。それは以下のような言葉が物語っている。たとえば、
1954年に社会党の訪ソ使節団が、帰途に沖縄へ立ち寄った事があった。それは、敗戦後初めての本土政治家の訪沖であった。その時に、使節団長が新聞記者に感想を求められて発したのが「沖縄には日本語の新聞があるのか」という質問であったのだ。また、
1948年3月から10月まで首相を務めた芦田均、この人は現行憲法を制定する際に、「戦争放棄」を定めた第9条の第2項に「前項の目的を達するため」の字句を追加する「芦田修正」を発案した人物で、この表現が後に、「前項の目的(国際紛争の解決)」以外(自衛)のための戦力保持は「違憲ではない」という論拠となったのであるが、この人物が、50年代から始まる沖縄県民の「祖国復帰運動」の高まりに対して発した言葉が「沖縄の土人は戦前はヤシの実を食べ、裸足で歩いていたが、今ではアメリカのおかげで良い生活をしているじゃないか」という内容だったのである。
つい最近も、大阪府警の機動隊員による「土人発言」があり、それに対する松井府知事の「正当化」発言があり、日本中の多くの国民が現在「憤懣」で煮えたぎっているのであるが、50年以上経った今日日本の安倍自民党政権や裁判官や国会議員や国家権力に携わる人間は、沖縄県民に対して、人権意識がまったく感じられない芦田首相などの沖縄認識からどれだけ成長したと言えるだろうか。
(2016年11月4日投稿)