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張作霖爆殺事件(満州某重大事件)に見る神聖天皇主権大日本帝国政府の侵略体質

2025-02-23 21:39:02 | 中国・台湾

 張作霖(1875~1928)は、中国人の中流農家に生まれた。彼の父は、理由は明らかではないが、地方長官に捕えられ、家を焼かれ他の家族も行方不明となったが彼は逃げ延びた。父が牢獄で死亡したのを知ると、復讐を誓い、馬賊(流賊)の集団を率い、地方長官を襲い家族もろとも殺した。その後日露戦争(1904~05)の際には神聖天皇主権大日本帝国軍と協力して戦い、戦争後は大日本帝国政府軍から譲り受けた近代的兵器と装備によって東三省総督趙爾巽に帰順。16年奉天督軍となり、19年に東北三省の実力者となり奉天軍閥を形成した。その後大日本帝国政府軍の支援を得けて他の軍閥を倒し北京政界を支配し、27年には北京で大元帥となった。しかし、1928年6月、張作霖は蒋介石国民政府の第2次北伐軍との戦いに敗れ、根拠地である奉天へ戻ろうとした時、いわゆる「奉天事件」で命を奪われた。6月4日午前5時30分頃、京奉線(北京~奉天)の上に立体交差して満鉄線鉄橋が架かっていた場所を、張作霖を乗せた京奉線の列車が通った時、満鉄線が爆破され、満鉄線の重い鉄橋の一部が張作霖の特別列車の上に落下し、完全に粉砕した。張作霖はこの車両ではなく、前方の車両におり随行していた将軍と話し合っていた。しかし、この車両も爆弾の破片で大損害を受け、将軍は即死し、張作霖も重傷を負い、自動車で自宅へ運ばれたがまもなく死亡した。首謀者は神聖天皇主権大日本帝国陸軍関東軍河本大作大佐で、河本は張作霖爆殺により東三省満州)における大日本帝国政府の勢力拡大を狙う綿密な計画(陰謀)を立てていた。爆破作業の実行者は東宮鉄男大尉らであり、中国人苦力2人を殺して死体を横たえ彼らの仕業と見せかけようとした。

 1931年9月18日には関東軍は「柳条湖事件」(満州事変の発端)を起こした。中国革命の東三省波及を好まず、軍事占領を画策していた参謀板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、奉天特務機関長土肥原賢二大佐らが計画した陰謀であり、奉天郊外の南満州鉄道(満鉄)線路で小さな爆発事件を起こし、これを張作霖の跡を継いでいた張学良軍の仕業であるとして直ちに奉天を占領し、直ちに全面的攻撃を開始し満州事変に突入した。

(2025年2月23日投稿)


孫文(天下為公の実現を目指した)ゆかりの移情閣(朝日新聞「いにしえナビ」記事)の物足りなさ

2024-12-14 11:11:06 | 中国・台湾

 2020年7月17日の朝日新聞の「いにしえナビ」が革命家・孫文ゆかりの建物として『移情閣』を取り上げていた。「孫文が1913年神戸を訪れた際、歓迎会の会場となったのが、舞子にあった中国人実業家・呉錦堂の別荘でした。移情閣はその2年後に別荘の東側に建てられ、……」と紹介していた。建物についての説明はそれ以外にも書いていたが、孫文についてはそれ以外にはまったく触れておらず、ひじょうに物足らないもので残念であった。

 孫文がなぜこの別荘移情閣に、また神戸日本にゆかりがあるのかをもっと詳しく伝えるべきである。孫文は、日中両国関係のあり方について、現在の日本国民にも示唆を与える言葉を残しているからだ。

 孫文が神戸(日本)を訪れた回数は、資料的に確認できるだけでも18回である。そしてその理由は、革命活動(亡命)にあり、1895年の広東省広州での武装蜂起の失敗から始まるのである。そして、「いにしえナビ」が紹介する1913年には、前年就任した「全国鉄路督弁」として鉄道借款交渉のため来日し、朝野の大歓迎を受け、2月から3月にかけて東京、大阪、神戸、福岡などを訪問している。その後帰国したが、袁世凱大総統と対立し、第2革命を起こしたが失敗し、8月に、翌々年に結婚し妻となる宋慶鈴とともに日本に亡命している。神戸にひそかに上陸し、在神協力者(呉錦堂など)の援助を受けて滞在している。この際に呉錦堂舞子にあった別荘に招かれ歓迎会が行われているのである。1916年には第三革命にも失敗し神戸を訪れている。

 孫文は1925年の死の前年の1924年にも来日し11月末には神戸を訪れている。この時には11月28日に兵庫県立高等女学校(当時は現在の県庁所在地に存在)講堂において、『大アジア主義』と題して講演を行っている。この講演会は神戸商業会議所が主催し、新聞社4社(神戸又新日報、神戸新聞、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞)が後援して開催された。その内容は、当時すでに「21か条要求」を押し付け、中国への侵略を推し進めていた神聖天皇主権大日本帝国政府を明確に批判反省を促そうとするものであった。それは、

「アジアの文化は仁義道徳を語る王道文化であり、ヨーロッパの文化は武力の文化であり、武力を用いてアジアを圧迫している。日本は日露戦争の勝利でアジアの人々を励ますなど武力を身につけており、また、アジアの王道文化の本質ももっているが、西方覇道手先となるか、東方王道守り手となるかは日本人は慎重に考慮してその一つを選ぶべきである」と訴えるものであった。

 しかし、この後の神聖天皇主権大日本帝国政府は、孫文の「訴え」に応えず期待を裏切る道を選び、中華民国に対して最も露骨な侵略者となっていった事は歴史が示す通りである。

 孫文が1924年の来日記念に揮毫した言葉は彼が革命によって実現しようとした「天下為公」である。中国古典『礼記』の「礼運篇」にある言葉で、「人々が等しく天下を共有する」「政権というものは一般平民が共有するものである」という意味である。

1925年3月12日、孫文死去(59歳)。

(2020年8月30日投稿)

 

 


蒋介石国民党支配の50年代台湾

2024-11-30 10:24:08 | 中国・台湾

 蒋介石国民党は1950年以降、地方公職選挙を導入して、台湾人エリートの地方政治への参加を可能とし、中央政治における外省人支配との二重構造とした。青年層対策では1952年10月、蒋介石の長子蒋経国中国青年反共救国団を設立し、青少年に軍事訓練や娯楽を提供するとともに、これを組織化、政治的教化をし、反政府化を予防した。

 1950年代には、外省人知識人らによる雑誌『自由中国』が、国民党公認の反共自由主義から国民党の独裁を批判する傾向を強め、1959~60年には蒋介石の憲法改正、総統三選の動きを社説で批判、また、「中国民主党」結成を図った。

 この動きに対し、1960年9月、国民党は同誌編集長を逮捕・投獄し、同誌を廃刊とし、少数のリベラル知識人による民主化運動を圧殺した。

 この結果、中国大陸で共産党との内戦に敗退した国民党は、台湾での体制改革基盤強化に成功し、権威主義支配を再建した。

 これを可能にした背景には、神聖天皇主権大日本帝国政府が1905年から45年の敗戦まで植民地として支配するために作り上げた、すべての土地・住民を把握する体制がすでに存在していた事があり、国民党はこれを基盤として強固な支配を確立したのである。

(2022年11月25日投稿)


いわゆる「台湾出兵」は台湾占領と琉球処分強行の領土拡張(侵略)政策

2024-11-30 10:18:37 | 中国・台湾

 神聖天皇主権大日本帝国政府(当時実権は大久保利通が掌握)による、教科書的に表現すれば1874年5月の「台湾出兵」の目的は、大日本帝国政府が国境を画定するための軍事行動である。「台湾」全体を「占領」し、大日本帝国政府の領土とするためであり、併せて「琉球王国」の清国との両属関係を断ち切り、大日本帝国政府の完全な領土とする「琉球処分強行」ためであった。しかし、「台湾占領」は、清国の抗議や、英国の反対にあいこの時点で達成できず、1895年、日清戦争後の下関条約でついに清国に割譲させた。

 【経過】

○1871年、廃藩置県実施、薩摩藩は鹿児島県となり、琉球王国は鹿児島県の管轄

○1871年10月、琉球王国への上納を終え、宮古島へ帰る役人たち約70名が那覇港を出港。途中暴風にあい台湾東南岸牡丹社へ漂着し、54名が台湾の先住民族(パイワン族)に略奪殺害された。原因不明。

○生き残った者12人は清国の役人により1872年正月、福建省福州へ送られ、6月には琉球王国へ送還された。琉球王国の漂着民が台湾の先住民族に襲われる例は、1790年、1810年にも見られ、この事件と同様に生存者は琉球へ送還されている。

○1872年7月、琉球王国政府から鹿児島県庁へ報告。大山綱良鹿児島県参事は、「台湾先住民を討つべし」と大日本帝国政府へ報告。

○1872年9月、琉球藩設置。外交権接収、清国への朝貢禁止、琉球国王を藩王とし華族に列す。

 ➀琉球藩の事務は鹿児島県を離れ、琉球王国が締結した外国との諸条約も含めて外務省の管轄に移す(琉球の外交権停止

 ➁大日本帝国海軍が琉球列島を測量。

 ③久米島・宮古島・石垣島・西表島・与那国島に「日の丸」を立てる。

 清国は認めず琉球王国も抵抗。琉球王国の帰属争いは継続。国際問題化。

井上馨大蔵大輔の「琉球国」に関する建議……正院あてに提出

「〈百度維新〉を迎えた今、琉球の『あいまいな位置』を一掃し、『皇国の規模御拡張の御措置』をとるべ   き事を主張し、その方法として、武力による制圧は避け、琉球の『酋長』にその『不臣の責』を問い、これまでの歴史や『順逆の大義』を説いて、版籍を収めさせ、『内地一執の制度』を施行する、というもの。」

○1873年、大日本帝国政府は「台湾占領計画」を立て、宮古島島民の「台湾遭難事件」の責任の所在を求めて清国と交渉。清国は、台湾全島は清国の領土であるが、先住民族は中国の教えが及ばない「化外の民」である、と述べ責任を回避。

○1874年2月6日、大日本帝国政府は「台湾占領」と「琉球処分強行」の前提をつくるため、「台湾の先住民族地域は清国の領土ではない。主権者のいない地域である。大日本帝国政府の属民が殺害された仕返しをするのは政府の義務である」という事を根拠に台湾出兵を決定。

米英スペインなどの諸外国は大日本帝国政府の台湾への侵略戦争を警戒し、苦情申し出と局外中立を宣言。米国を当てにしていた大久保利通は計画中止を命令したが、西郷従道司令官は命令を拒否して出兵を強行。三菱汽船会社が軍事輸送を担当。

○1874年5月、西郷従道軍約3600名(鹿児島県士族300人を含む)は長崎を出発し、台湾南部に上陸し、パイワン族の住む牡丹社及び南部に住む先住民族を攻撃。戦闘は1カ月足らずで終了(その後も占領し続け撤兵は74年12月)。戦死者12名。マラリアなどで561名が病死。

※1874年5月、琉球藩を内務省の直轄地とし、井上の建議のような皇権拡張方針一貫して強行。琉清関係の廃絶と天皇のもとの中央集権国家機構の枠内に琉球を包含する「藩治職制」を強制。

○大日本帝国政府の「台湾占領」の目的は、清国の抗議、英国の反対にあい挫折。

○1874年10月、英国公使の仲介。清国は宮古島遭難民に対し10万両、大日本帝国陸軍が台湾で建設した道路や家屋の買収費として40万両、計50万両(約67万円)を支払う事で決着。大日本帝国政府は台湾を清国領土であることを認め、清国は琉球藩を日本領土である事を認める形となった。しかし、同年、琉球藩は清国になお進貢使を派遣。

○1875年5月、大日本帝国政府は内務官僚松田道之を琉球藩に派遣し、清国への進貢や冊封の廃止、藩王の上京鎮台分営の設置などを命じたが抵抗。琉球は米英清各国公使に救済を訴える。

○1876年、大日本帝国政府は琉球藩の裁判権・警察権を接収。

○1877年4月、琉球藩は受諾拒否し、王族の幸地朝常をリーダーに久米村の人間も集め、密使として清国福建省福州琉球館へ遣わした。清国は大日本帝国政府へ正式に抗議。清国公使から寺島宗則外務卿へ「隣国どうしの交際のならいに背き、弱小の国を欺くなど決してあってはならない」と。

○1879年4月4日、大日本帝国政府は再び松田道之を、警官160名、熊本鎮台から300余名の軍隊とともに派遣し、首里城武力で占領。琉球藩を廃し沖縄県を設置琉球処分)。450年間の琉球王国滅亡。藩王尚泰の上京、邸宅及び公債20万円給与、侯爵授与(1885年)、首里玉陵に埋葬。

○琉球王国滅亡の知らせは清国福州にも伝えられた。琉球館に派遣されていた琉球密使(脱清人)は北京や天津へ嘆願を直訴。幸地朝常は天津で李鴻章に嘆願。しかし、李鴻章は欧米列強と対抗するうえで、日本との関係を重視したため認めず。

※神聖天皇主権大日本帝国政府は、欧米的な近代国際法の論理台湾の先住民族を侵略し、琉球処分を強行した。その論理は、国境を明確にする事にあり、国境が明確でない土地は先に手を付けた国の領土(無住地先占)であるというもの。琉球各地に「日の丸」を掲揚した事や、神聖天皇主権大日本帝国政府が侵略した台湾の先住民族の族長たちに服属の証として「日の丸」を配布した事に見られる。

(2023年12月6日投稿)

 

 


中国の木版印刷術

2024-03-25 11:05:34 | 中国・台湾

 朝日新聞「日曜に想う」が、中国で発明された「木版印刷」や朱子学の創始者「朱熹」について触れていた。

 中国の歴史では、(960~1127)の時代にその後の世界の社会文化の発展に大きな影響を与える「3大発明」(木版印刷術、火薬の製造法、羅針盤後漢蔡倫が発明したを含めて4大発明とも)が行われた。木版印刷技術唐代に始まり、宋代以後普及した。唐代には主に仏典・暦本・字書などが印刷された。経書(儒教)五代になって出版された。仏典ではの建国者太祖大蔵経(一切経ともいう。経〈釈迦の教え〉・律〈生活規範〉・論〈経の解釈〉からなる「三蔵」の経典とその注釈書・史書などの仏教聖典を集大成した叢書)を成都で刊行させ文化の普及を促す事となった。この印刷術はマルコ・ポーロによりイタリアへ伝えられ、さらにヨーロッパへ広まった。ちなみに、現存するアジア最古の印刷物は日本の奈良法隆寺に伝わり称徳天皇に由来する「百万塔陀羅尼経」であるといわれる。

 火薬の製造法については、北宋仁宗(位1022~63)の頃、硝石・硫黄・木炭を混合した黒色火薬が発明された。火薬が兵器として初めて実戦に使用されたのは唐末10世紀の始めで、宋代になると火薬が次第に発達し、色々な火器が作られた(『武経総要』1044年)。12世紀中頃、南京近くの采石の戦い(1161)で南宋軍がこれを初めて、南下する金軍(第4代海陵王、位1149~61)に対し使用した。モンゴル軍は鎌倉時代の日本で「てつほう」を使用した事が『蒙古襲来絵詞』(元寇1274、1281)に描かれている。ヨーロッパには13世紀頃、イスラム諸国に出征した十字軍により伝えられた。

 羅針盤は、北宋の末11世紀から12世紀にかけて航海に利用(朱彧『萍洲可談』)されるようになり、アラビア商船(イスラム商人)にも使用されヨーロッパに伝えられた。

 最後に、北宋時代より、「纏足」の風習が始まるが、朱熹は「男女の距離」を教える手段として南福建に普及させる事に熱心であった事を付け加えておこう。

(2024年3月25日投稿)