日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

伊豆法難

2013-05-01 | 御住職指導

正林寺御住職指導(H25.5月 第112号)

  大難四カ度の一つである伊豆法難は、弘長元(一二六一)年五月十二日、日蓮大聖人が四十歳の御時のことでした。大聖人は『船守弥三郎殿許御書』に、
「日蓮去ぬる五月十二日流罪の時、その津につ(着)きて候ひしに、いまだ名をもきゝをよびまいらせず候ところに、船よりあがりくるしみ候ひき」(御書261)
と仰せで、謀反の大罪人のごとく、小舟で相模灘を護送され、伊豆の川奈の津に引き下ろされました。
 御流罪中、大聖人は漁師の船守弥三郎の外護のもと難を逃れました。地頭の伊東八郎左衛門が重病に陥り、大聖人の病気平癒を契機に念仏信仰から法華経に帰伏し、八郎左衛門は病気平癒の御礼に漁師が海中より引き上げたという立像の釈迦仏(一体仏)を大聖人に捧げられました。その立像の釈迦仏は大聖人滅後に墓所の傍らに立て置くように命ぜられた釈迦立像仏のことです。

 日興上人は当時十六歳で伊東の大聖人のもとに参じ御給仕されて宇佐見・吉田など、近くの村々に行っては折伏弘教に専念され伊東にも大聖人の帰依者が次第に増えていきました。大聖人への日興上人の随身給仕や折伏教化の姿は『富士門家中見聞』(聖典606)と日亨上人の『富士日興上人詳伝』(14頁)に様子が伝えられています。
 大聖人は法難中に『四恩抄』や『教機時国抄』など述作され、『四恩抄』に流罪配流の身となったことは、仏の未来記である法華経を我が身に当てて符合する不思議に法華経の行者としての悦びを仰せです。また仏法を習う者としての悦びが四恩を報ずる事であるとも仰せです。
 冤罪であった伊豆への配流も、弘長三(一二六三)年二月二十二日に許されて一年九カ月ぶりに北条時頼の措置で赦免状が発せられ、その後、大聖人は再び鎌倉の草庵に帰られました。

 私達は、この法難から大聖人の法華経身読と、弟子檀那の大聖人へのお給仕や外護の精神を学び、さらに難来たるを以て安楽と意得べきなりとの精神で信心する事が肝要です。

この記事についてブログを書く
« 平成25年5月度行事予定 | トップ | 第68世御法主日如上人猊下... »