限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

ブログ連載、二周年を迎えて、【減筆宣言】

2011-04-25 23:16:50 | 日記
一昨年の今日(2009年4月25日)『はじめまして。。。』の記事とともにこのブログ連載をスタートし、昨年は『ブログ連載、一周年を迎えて』を書いた。

2年間、ほぼ毎日続けたのでブログ記事は700本ほど書いたと思う。そこで始めて分かったことは、確かに『継続は力なり』ということである。まだまだ一本の記事を書くにも苦労はしているが、当初と比べて、書くことが多少楽にできるようになった。それでも一本の記事を仕上るのに3時間程度はかかっている。ちょっとでも調べ事があると、 3時間では収まらないこともしばしばある。そのようにして出来上がった記事は字数にして2000字~3000字程度なので、読むと、2分程度で読めてしまう。単純計算で、書く時間と読む時間の比は約100倍である。

以前のブログ記事で『20倍違うと世界が違って見える』と書いたが書くのと読むのでは速度が100倍も違うだけでなく、内容をゼロから作りだすのと、そこにあるものを単に吸収するのとでは、脳の使い方が大幅に異なる。つまり読む方が遥かに楽である。

以前のブログ『私の語学学習(その18)』で述べたように、私はショーペンハウアーに一時期凝っていた。その時、彼が『読書について』の中で大略次のように言っていたように記憶している。

読書は、自分の脳を使わず他人の脳で考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の思考過程を機械的にたどるにすぎない。つまり読書では物を考える苦労はほとんどない。それで自分で思索する仕事をやめて読書に移るとき、ほっとした気持ちになる。それに反して思索は己の脳を絞らないといけないので苦痛なのだ。

私も記事を何本も書く内に、書く大変さを実感し、ようやくショーペンハウアーの言っていた言葉の意味を理解した次第である。



さて、このようにして二年間書き続けてきた訳であるが、この継続の動機の一つがこのブログタイトルの
三十年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。
という文句に述べているように、私の知識の蓄えをこのブログの読者との共有に資するという、大げさに言えば『社会貢献』であった。私は社会貢献というのは、各人が出来る範囲のなかですればよく、気負って大きなこと、難しいこと、苦痛なことをわざわざする必要がないと考えている。それでこのブログは他人からみればささいなことかもしれないが、私ができる範囲での社会貢献だと思っている。

この社会貢献という概念は、共和制ローマによって育まれたものではないか、と私は考えている。セネカの倫理書簡集(Seneca, Epistulae morales ad Lucilium)の第48には次のような文が見える。
『わが身だけを考え、何もかもを自分の都合だけで見る人は幸福にはなれない。自分の(幸福な人生の)為に生きるには、他人のために生きることが必要だ。』
【原文】Nec potest quisquam beate degere qui se tantum intuetur, qui omnia ad utilitates suas convertit: alteri vivas oportet, si vis tibi vivere.
【英訳】And no one can live happily who has regard to himself alone and transforms everything into a question of his own utility; you must live for your neighbour, if you would live for yourself.
【ドイツ語訳】Auch kan niemand ein glueckliches Dasein fuehren, der nur auf sich schaut, der alles zum eignene Vorteil wendet: Fuer den anderen sollst Du leben, wenn Du fuer Dich leben willst.

       【減筆宣言】

さて、私のブログ記事が少しでも社会の為になれば、との意気込みでここ二年ずっと書いてきた訳であるが、最近になって新たな知識の蓄積のための時間がないことに、正直なところ内心あせりを感じている。先日のブログ『知のパラドックス - 知れば知るほど知らないことが増す』でも書いたように、ある程度、物事が分かるようになった今の私には、逆に知らない事がたくさんできてきた。それで、この辺りで一旦このブログの書く日を1/3程度に減らして、その分を読書に振り向けようと決めた。

現在、考えている読書とは:
 中国・朝鮮関連:明通鑑、『焚書・蔵書』(李卓吾)、続資治通鑑、三国史記
 ギリシャ・ローマ関係:アリストテレス、プリニウス、ストラボン、モムゼン
 日本関係:甲子夜話、慊堂日録、吾妻鏡、和漢三才図会
 仏教関係:国訳大蔵経(昭和新纂)
 科学技術・工芸芸術関連:ニーダム『中国の科学と文明』


これらを読み終えて、書くことが溜まった段階で再度活発に書くことにしようと考えている。

最後に一言:
最近、『漢文教育の重要性』というブログ記事に対して、漢文教育は不要というコメントがあった。要点は、漢文教育よりも"法律"や "お金"に関する知識を教えることの方が重要であるとのご意見である。国民全体の知識の底上げに対しては私も反対しない。ただ、このブログを読むであろう読者(想定読者)というのは、将来の指導者たちである。つまり現在の日本の政治・経済の混迷はリーダー層の質の低下によって引き起こされているというのが私の理解である。現在の教育で欠落している、リーダー育成に役立つ内容を書く、というのがこのブログの基本姿勢である。ところが現在の若者たちはともすれば、レベルの低い雑誌や本、テレビ、ゲームなどに熱中し、内容のない話をとりとめもなく話していることに恥じらいを感じない。私はリーダーたるものは、毅然と自らのノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)を自覚することが必要だと考える。現在のような国際環境では、リーダーに必要とされている要素は、英語力と自国・他国の文化理解である。そして我々日本人にとっては中国の文化理解のためのみならず、人としての生き方を知るのに漢文の知識は必要だと考える。この意味で私の漢文重視の主張に変わりはない。
コメント (1)
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