A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

memorandum 318 光明

2016-06-20 23:12:58 | ことば
誰が何を作ろうと皆美しくなってしまうことがあるのである。それも各々の者が優れた藝術家になり得て、かかる結果を生むというのではない。凡てがありのままの状態で救われるというのである。この事実なくして何の希望があろうか。この世にはどんなに多く下凡の性から離れ得ぬ者がいるであろう。だが有難くも、それが誰であろうとそのままで素晴らしい仕事が果せるのである。果せる道があるのである。果せないのが嘘なのである。醜いものはただの迷いに過ぎない。この真理の見届けなくして、何の光明があろうか。
柳宗悦『新編美の法門 (岩波文庫)』岩波書店、1995年、114-115頁。



見届けてやろう。

memorandum 317 美醜の分別を越えること

2016-06-19 22:42:04 | ことば
 それだから希くは美醜の分別を越えることである。それらが二に分れる已然に自らを戻すことである。与えられたありのままの「本分」に帰ることである。美醜の作為から去ることである。「平常」に居ることである。美醜の別は病いであるから、本来の「無事」に立ち戻ることである。それには第一に小さな自我を棄てるがよい。これに執着が残ると、迷いが去らない。第二には分別に滞らないことである。この判断にのみ便ると、ついには二相の世界から脱れることが出来ない。
柳宗悦『新編美の法門 (岩波文庫)』岩波書店、1995年、99頁。

もういいかげん本分に帰れ。平常に、無事に立ち戻れ。

memorandum 316 無謬

2016-06-18 23:50:20 | ことば
 凡ての人間は現世にいる限りは誤謬だらけなのである。完全であることは出来ないし、また矛盾から逃れることも出来ない。しかしそれは本来の面目ではないはずである。元来は無謬なのである。ここで無謬というのは完全であるという意味ではなく、不完全なままに誤りのない世界に受取られることをいうのである。だから誤謬のままで無謬になるのである。誤謬を取り去って無謬になるというようなことは人間には出来ない。だが有難くも誰が何をいつどう作ろうと、本来は凡て美しくなるように出来ているのである。秀でた者は秀でたままに、劣る者は劣るままに、何を描きどう刻もうと、凡ては美しさに受取られるように仕組まれているのである。
柳宗悦『新編美の法門 (岩波文庫)』岩波書店、1995年、98頁。


すべては美しさのためにある。
誤謬だらけの人生に幸あれ。


memorandum 315 無礙

2016-06-17 23:31:15 | ことば
巧みに描かなければ美しくならないというような絵は、充分に美しくないはずである。たかだか拙くないというまでに過ぎまい。美しくしなければ美しくならないのは不自由な証拠である。たとえ拙くとも拙いままに美しくなるような作であってこそよい。不完全を厭う美しさよりも、不完全をも容れる美しさの方が深い。つまり美しいとか醜いとかいうことに頓着なく、自由に美しくなる道があるはずなのである。美しさとは無礙である時に極まる。
柳宗悦『新編美の法門 (岩波文庫)』岩波書店、1995年、96-97頁。


何事にも言える。「〜しなければ」と考えるほどに、不自由になるばかり。
無礙であること。自然体を心がけること。

memorandum 314 計り切れないもの

2016-06-16 23:09:21 | ことば
 だから美しいものを見るとは、物差でその度を計る事ではない。いかなる秤をも持ち出さず見る事である。秤に限られて量られるようなものは、もともと美ではあるまい。むしろ美しさは、計り切れないもの、割り切れないものといってよい。だから計る事なく受取る意外に手はない。真に美しきものは、問答を無用にする。直観には自由が要る。物差で計れるような限定された自由さに美しさは映らぬ。美しさ自身が自由そのものであるから、これを不自由さで見る事は出来ぬ。
柳宗悦『新編美の法門 (岩波文庫)』岩波書店、1995年、47頁。

美しいものを見るから、人は自由になれる。
世の中の多くは計り切れず、割り切れない「不自由」事ばかりだが、
美しさは、計り切れず、割り切れなくとも、人を自由にする。

memorandum 313 直観

2016-06-15 20:29:46 | ことば
頭で知るより、眼で見ることの方が、美しさを理解する確かな基礎になる。つまり知識より直観が、美の問題への解答の根底になる。これは宗教学の場合でも同じで信を体験せずして信を評論しても根が浅い。何故なら、直観からは知識を引き出せるが、知識からは直観は引き出せぬ。知識は分別の分析であるが、直観は綜合的働きで分析以前のものである。知識は分割であるが、直観は統合である。知るとは分ける事であるが、観るのは分けずにそのまま受取る事である。「知」は静止的で「観」は動的だといってもよい。それ故「知」は二元的であるが「観」は不二的である。
柳宗悦『新編美の法門 (岩波文庫)』岩波書店、1995年、44頁。

直感と直観は信じている。

memorandum 312 見る

2016-06-14 22:28:17 | ことば
「美しさ」は常に「美しい物」に即すべきだという意味は、「美しさ」を「知る」よりも先に「美しきもの」を「見る」べきだということにある。「知」よりも「見」を先に働かせるべきなのである。前述の如く、先ず造形の世界を例証に引きつつ語ろう。多くの方々は、知らねば充分に見えぬと思うが、これは大いなる誤りである。充分知ろうとするなら、先ずよく見ねばならぬ。否、先に「知」が働くと、それだけ見えなくなるという方がよい。何故なら「知」に拘束されて、眼が自在に働かぬからである。「知」は色眼鏡のようなもので、その色に邪魔されて、本当の色は見えぬ。
柳宗悦『新編美の法門 (岩波文庫)』岩波書店、1995年、44頁。

まず、見ることから始める。

memorandum 311 心のわだかまりをほぐせ。

2016-06-13 20:42:10 | ことば
 心の問題も美の問題も窮極は一つである。心のわだかまりをほぐせ。これが救いとなる。わだかまりの元は、自己である。聖者が「棄ててこそ」というのは、この滞りの元たる己が消えると心に平安があるとの教えである。これで一切の苦厄が度されるのである。製作の場合でも、こだわらぬ自由に入ると、美しさに迎えられる。来迎ならざるはない。別の言葉でいえば、自由人たることである。自由が一切の主人になることである。光が照ると世界の凡てが昼となって、夜がおのずから消えるのと同じく、おのずからこの自由の光が、一切を美しくしてしまうのである。だから醜さが消えてゆく。
柳宗悦『新編美の法門 (岩波文庫)』岩波書店、1995年、41頁。

やっぱりわだかまりの元は自分なのである。やれやれ。

memorandum 310 美しさが人間を幸福にするのは、

2016-06-12 23:18:37 | ことば
美しさが人間を幸福にするのは、これで人間の心がほぐされるからである。自在美のお蔭を受けて、その自在にあやかる事が出来るからである。論より証拠、美しいと感ずる刹那は忘我になれる。この忘我は執心(拘束心)の中心たる自己が溶け去る刹那である。これが幸福を与える。その意味で美しい作は、人間に心の平和を与える。美しさは諍いを鎮める。人を和やかにする。
柳宗悦『新編美の法門 (岩波文庫)』岩波書店、1995年、37頁。

いま、美しさはあるだろうか。人間の心はほぐれているだろうか。

memorandum 309 窓はひとつで充分だ

2016-06-11 23:33:16 | ことば
「作家たるもの、ひとつの窓から見えるおもちゃ箱をひっくり返したかのような世界の美しさを、ここと決めたひとつの窓からしっかり見つめなさい」
ジル・ジャコブの言葉「映画作家河瀬直美の好日便り」『産経新聞』夕刊、2016年6月10日

作家に限らず、誰にでも通用する言葉だと思う。ここと決めた窓からしっかり見つめよう。
そもそも私の部屋には窓はひとつしかなかった。