わが国の古代史研究空間では五斗米道と鬼道だけが何かと取り沙汰されるが、実はこれらには複雑に入り組んだ関係が存在する。そこで、天師道・五斗米道・鬼道・太平道・道教の関係を整理しておこう。
◎天師道
斉の宣王の時代に門下の大学をつくる。ほどなく諸氏百家の時代を迎えるが、老子の思想に斉の地に古くからあった黄道といわれる学問を取り込んだ学問が、黄老学(黄老道・道学)として開花する。この道学を学んだ張陵が『道書』24篇を著わす。142年、鶴鳴山で太上老君の命を受けて『道書』を基礎とした天師道を創立する。
◎巫鬼道
のちに蜀領となる漢巴の地域には、古くから巫鬼道の信仰があった。張陵はこの漢巴に自らが極めた道学を持ち込む。一気に信徒を増やす中で、旧来の巫鬼道と対立して排除していく。(一説によると、巫鬼道は鬼神に人間を生け贄にして祈祷していたという。張陵があえて漢巴を布教の地に選んだのには、巫鬼道を駆逐する意図があったのかも知れない)。張陵は戒律を制定し太清玄元の神を崇め、邪道に誘う鬼を祭ることを禁じた。張陵の天師道は盛んに伝わり、当地の巫鬼道の巫覡もくら替えして天師道の祭酒・道民になり、天師道は四川に次第に根をはっていった。
張陵は157年に世を去りその子の張衡が跡を継いだ。その張衡が179年に死ぬと、これを引き継いだ張脩によって巫鬼道が再び盛んになる。
◎五斗米道
もともと巴郡の巫人(巫鬼道の巫覡だった)張脩は、張衡の死を境に天師道と巫鬼道を一つにして天師道の信徒を統括した。信徒や患者に米を拠出させたことから、米巫・米賊とも呼ばれた。そもそもは、これが五斗米道であり『三国志』のいう鬼道である。
話が前後するが、 益州牧の劉焉は188年に「宗教集団の勢力を味方につけて中原の覇者に」という野望を秘めて蜀に入り、張脩に投降帰順させて五斗米師を接収して、張脩を別部司馬に封じた。この後、朝廷に貢ぎ物を収めなくなっている。
一方で張陵の天師道をも取り込もうとしていたらしく、美人の誉れ高かった張衡の妻(魯の母親)に自領で布教させ、その息子の張魯を督義司馬に任命して、別部司馬の張脩と漢中太守の蘇固を攻撃させた。張魯は張脩と蘇固を奇襲したあと、張脩をも襲って殺し全軍を掌握した。
祖父のつくった教団を、父親の死後に横取りした形の張脩に対する報復と教団奪還の思惑あってのことだろう。張魯は思惑どおり教団を奪い返している。
◎初期道教
劉焉の死後に子の劉璋が立ったが張魯がこれに従わなかったので、劉璋のところで布教活動をしていた母と弟を殺された。そこで張魯はそのまま漢中にとどまって支配した。威光の衰えた朝廷は張魯を懐柔。張魯は漢寧太守となり漢中に天師道王国を建てた。
張魯の政治は独特で、を置かず、すべて祭酒(大学教授の呼称)に治めさせた。人々は平穏安楽で、張魯の漢巴支配は30年間続いた。
張魯の教団は、張脩の鬼道色を少しは残しながらも天師道と称していた。実際には張陵の天師道と張脩の巫鬼道の結合体のようなもので、(米を収める規定が張魯の教団にあったか否かは不明だが)、社会一般には五斗米道と呼ばれ体制側からは鬼道と呼ばれた。この天師道が道教の原形をなすもので、原始道教とか初期道教と呼ばれる。
◎『太平経』
後漢の順帝(126~144年)の時、宮崇が『太平清領書』という170巻の書物を献上したが、採用されなかった。桓帝(146~167年)の代になって、 襄楷という人物が皇帝にこの『太平清領書』をもちだしてすすめたが採用されなかった。 内容からみると、この書は多くの人がたえず増補を加えてできあがったもので、宮崇彼自身もこの本の編纂に加わっていた可能性がある。
この書物が説くのは「治国の道」で、最高統治者が乱世を鎮め、世の中を安泰にすることを援助しようというものである。それは、後漢末の危険がいっぱいの社会に真っ向から立ちむかい、 一つの宗教的処方箋を示し、崩壊寸前の王朝の封建政治を救おうとしているもので、多くの具体的政治改革の考えが述べられている。これが流伝して太平道を統率した張角にも読まれた。 この書こそが『太平経』と呼ばれているものである。(「道教と仙学」漢末の早期道教)
◎太平道
建寧年間(168~171年)に張角が太平道の布教を始める。もともと黄老道の信徒だった張角は、黄老道に伝承されていた『太平経』を読み、建寧年間に布教を始め、自ら大賢良師と称して太平道を創立した。
184年2月黄巾党を挙兵する。同年7月、漢中の張脩は五斗米道の集団率いて張角の黄巾の乱に呼応する。黄巾党の軍勢は最盛期には30万人を越え、20年以上も続いたとされる。
(中国の道教 金正燿著を参照して抜粋)
のちに蜀領となる広大な土地を領有した劉璋、対して漢と巴を拠点とした張魯、数十万の軍勢を率いた張角の3者もまた、曹操、劉備らと中原の覇を競った一大勢力の領袖だった。さらには、これらが宗教組織を基盤としたものであり、宗教組織が巨大化して国家を形成する過程をかいま見せているところにも注目したい。
先に参考にした資料が非常に良いことを述べている。
「漢末の早期道教は黄老道から変化したものだが、それに伴って黄老道が完全に失伝したのではなく、黄老道の方士たちは早期道教の道士に転化したということである。中国は広大なので、各地区の文化は不均衡であり、宗教も一斉に変化するようなことはありえない。漢末に黄老道だけが伝わっていたのではなく、黄老の術を学ばない方仙道の方士もやはり積極的に活動していたし、各地の巫覡もなりをひそめていたわけではない。江南の呉越の文化地区は、早期道教の活動の中心からは離れていたので、黄老道が伝播して盛んに行なわれていた」。
(「道教と仙学」漢末の早期道教)
以上を頼りに整理すると以下のようにな流れになる。
①張陵は黄老道を集大成した道書を著して天師道を創立した。
②張角は黄老道の影響を受けた『太平経』を読み太平道を創立した。
③両者は黄老道根幹とする部分で共通する。
④張陵の天師道に張脩の巫鬼道が一時期混じって五斗米道と呼ばれた。
⑤この五斗米道を張陵の孫の張魯が奪還して天師道を立て直した。
⑥世間では鬼道と呼ばれたが、天師道はのちに道教へと昇華した。
◎道教の真実
たとえば、正月ともなれば誰しも家族づれで神社仏閣に詣で、何がしかのお札や縁起ものを受ける。そこに見る精神性と様式と教義の原点をたどれば、間違いなく道教に到達する。このほかにも、身近な漢方医学・漢方薬学・易・占い、気功、風水はいうまでもなく、医学や科学面も膨大にわたる。21世紀の現在も、道教は膨大かつ先進的な部分を包含した体系として私たちと深くかかわっているのである。ものごとにはポジティブとネガティブな側面がある。道教は古い道学を基礎としており、例を見ないほど多岐にわたることからも、陰陽道のような非科学的要素も確かに包含する。史実検証に臨んで心したいのは、それらを現代の価値観で評価しないことと、そうした一面で全体を語らないことである。
現実論として、現代人の私たちでさえ風邪を患っただけでお手あげになる。これが古代となれば、病気は生命にかかわる切実な問題である。病気治癒を神に頼るしか術がなかった時代において、医療の巫呪祈祷は民衆の唯一の拠り所だったのである。
張魯の場合は、臣下が王号を唱えるようすすめるほどだったし、曹操が厚遇するほどの人物だった。その曹操は、すぐれた武将であり、知略に長けた戦略家であり、有能な政治家であり、そして文才に長けた詩人でもあった。専門家社会ではむしろ、逸材が多く登場した後漢末の動乱期において、最もすぐれた人物の一人と評価されている。
また張角の場合は、彼亡きあとの太平道(黄巾党)の残党の一部が暴徒と化して略奪を働いたことから、極端に悪者扱いされている。そうした主因は、脚色を交えて書かれた『三国志演義』が、物語としての展開上、善悪の役柄を演出したことが、そのまま現代人の間に先入観としてできあがったようである。
敗れれば賊徒と呼ばれるのは世の常。死をも覚悟の覇権争いである。
歴史のすき間で輝いて、そして消え去った者たちを、いたずらに軽視しないようにしたい。