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「儒教について学ぶ」

2017-12-07 05:49:39 | 日本

~武士道精神の再建~


儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。


◎概要

東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、周礼を保存する使命を背負った、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、(支配者の)徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の(支配者の)武力による覇道を批判し、事実、その様に歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒教が漢代、国家の教学として認定された事によって成立した。儒教は、宋代以前の「五経」を聖典としていた時代である。宋代以降に朱子学によって国家的規模での宋明理学体系に纏め上げられていった。宋明理学の特徴は簡潔に述べるならば、「修己治人」あるいは、『大学』にある「修身、斉家、治国、平天下」であり、「経世済民」の教えである。
儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを儒学者、儒者、儒生と呼ぶ。


◎教典

儒教の経典は『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の六芸(六経)である。
春秋時代になり、『詩』・『書』・『春秋』の三経の上に、『礼』・『楽』の二経が加わり、五経になったといわれる。
『詩』・『書』・『礼』・『楽』の四教については「春秋を教うるに礼楽を以てし、冬夏は教うるに詩書を以てす」、『礼記·王制』における「王制に曰く、楽正、四術を崇び四教を立つ。先王の『詩』・『書』・『礼』・『楽』に順いて以て士をす」という記述がある。
孔子は老聃に次のようにいったとされる。孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは72人のみであった。
漢の武帝の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。霊帝の時、諸儒を集めて五経の文字を校訂、太学の門外に石経を立てた。このとき作られた熹平石経は183年(光和6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。


◎朱熹

宋代に朱熹が『礼記』のうち2篇を「大学」「中庸」として独立させ、「論語」、「孟子」に並ぶ「四書」の中に取りいれた。「学問は、必ず「大学」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶ」。

朱熹は、「『大学』の内容は順序・次第があり纏まっていて理解し易いのに対し、『論語』は充実しているが纏りが無く最初に読むのは難しい。『孟子』は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、『中庸』は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説く。


◎教義

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。

<仁>
人を思い遣る事。白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べている。
「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。

<義>
利欲に囚われず、すべきことをすること。

<礼>
仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。

<智>
学問に励む

<信>
言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。



◎日本の儒教

儒教は、尭、舜の行いに従い、文王武王の法令を信奉し、孔子を尊び、其の言を重んじ神道を以て敎を設けて夏・殷・周三代の礼制を踏襲している思想体系で、紀元前の中国に興る。
日本では儒教は学問(儒学)として受容され、国家統治の経世済民思想や帝王学的な受容をされたため、神道、仏教に比べて、宗教として意識されることは少ない。なお中国では儒教は「名教」「礼教」「孔教」「孔子教」という呼称があり、宗教として認知されることが多い。


◎歴史 日本への伝来

日本へ儒教が伝わったのは仏教よりも早く、継体天皇の時代の513年、百済より五経博士が渡日して以降のことである。さらにはこれ以前にも、王仁(わに)が『論語』を持って渡来したという伝承が『古事記』などにあり、概ね5世紀頃には伝来していたものと考えられている。儒教の思想は多神教を奉祀する神道と相入れやすかったと考えられ、儒教よりもさらに以前(4世紀頃とされる)に入ってきていた道教、儒教と同時期に入った陰陽五行思想を併せ、それまでの呪術的な側面に科学的な論拠を与えて後の陰陽道につながる素地が生まれていた。


◎飛鳥時代 - 平安時代

飛鳥時代では仏教の普及に熱心であった蘇我氏の台頭もあり、飛鳥京を中心に仏教遺構が数多く建造された。だが、乙巳の変以降の皇室、特に斉明天皇は儒教に深く帰依したと考えられ、亡夫である舒明天皇の御陵を八角墳としたり、多武峰に置いた両槻宮とその関連遺構(酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡、狂心の渠など)には儒教と陰陽道の影響が強く顕れている。
その後の平安時代初期においては天武天皇が発布した律令制にも儒教の影響が見られ、儒教の思想は官吏養成に応用され、また国家で研究を行う学問として式部省の被官の大学寮において明経道として教授された。しかしながら、日本では科挙制度が取り入れられなかったためか儒教本来の価値が定着せず、学問の主体は、実学的な文章道と、道経色が強い陰陽道に移った。やがて神仏習合が進んで救済に加えて鎮守の意味も獲得した仏教が隆盛となり、空海の『三教指帰』による道教批判などもあって、衰退していった。


◎鎌倉時代 - 安土桃山時代

南宋の朱熹によってはじめられた朱子学は、日本では宋学と称され、日本へは1199年(正治元年)に入宋した俊芿が儒教の典籍250巻を持ち帰ったのが始まりとされる。以来、渡宋した円爾弁円や中巌円月らの禅僧や元の侵攻を避け、南宋から渡ってきた知識人によって広められ、1299年(正安元年)、元より来日した一山一寧がもたらした注釈によって学理が完成されたといわれる。14世紀に入ってあらわれた天台宗の僧玄恵は朱子学に通じ、後醍醐天皇の側近として仕えたともいわれる。

南北朝時代から室町時代にかけては、京都五山や鎌倉五山など主として臨済宗の禅宗寺院において儒学が研究された。また、15世紀前半、上杉憲実によって再興された下野国の足利学校でも儒学の講義がおこなわれた。

15世紀後半の応仁・文明の乱により京都が荒廃したため、公家や僧侶などの文化人は地方へ下り、各地の大名や有力武士をたよるようになったため、儒学者も地方に拡散した。桂庵玄樹は周防の大内氏や肥後の菊池氏、薩摩の島津氏などに儒学を講じ、薩南学派の基礎をきずいた。土佐の南村梅軒は朱子学を講じ、南学(海南学派)を開いた。南学は、近世以降、京都を中心とする京学と並び、儒学の一学派をかたちづくった。


◎江戸時代

江戸時代になると、それまでの仏教の僧侶らが学ぶたしなみとしての儒教から独立させ、一つの学問として形成する動きがあらわれた(儒仏分離)。中国から、朱子学と陽明学が静座(静坐)(座禅)などの行法をなくした純粋な学問として伝来し、特に朱子学は幕府によって封建支配のための思想として採用された。藤原惺窩の弟子である林羅山が徳川家康に仕え、以来、林家が大学頭に任ぜられ、幕府の文教政策を統制した。

第5代将軍徳川綱吉は、幕府の文治政治への転換に際し儒学を重要視し、林鳳岡をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、1690年(元禄3年)、孔子廟を湯島に建立し(湯島聖堂)、そこで、林家の私塾として「学問所」が開講され朱子学が教授されるようになった。

朱子学は、幕政及びそれに倣う諸藩において、立身出世の途となり、林家の他の学派も成長した。特に木下順庵門下には、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、祇園南海ら多くの人材を輩出した。

その他、儒教と仏教が分離する一方、山崎闇斎によって神儒一致が唱えられ、垂加神道などの儒教神道が生まれた。日本の儒教の大きな特色として、朱子学や陽明学などの後世の解釈によらず、論語などの経典を直接実証的に研究する聖学(古学)、古義学、古文辞学などの古学が、それぞれ山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠によって始められた。

徳川吉宗は、概念的な朱子学を遠ざける傾向があり、一時、朱子学は低迷するものの、松平定信が老中となると、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、1790年(寛政2年)には、当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として林家の門人が学ぶことを禁ずるなど規制を図った(寛政異学の禁)。1797年(寛政9年)までには「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など制度上の整備を進めて幕府の直轄機関とした。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立である。

幕府や諸藩においては官学として朱子学が中心であったが、日本では、中国本土や朝鮮と異なり科挙が採用されていなかったため、中国本土や朝鮮では順次衰退していった陽明学が命脈を保つこととなった。代表的学派として、中江藤樹が一家を構え、その弟子である熊沢蕃山が岡山藩において執政するなど各地に影響を残した。いわゆる近江商法にその影響を見る者もいる。また、1724年(享保9年)には、大坂の豪商たちは共同して学問所「懐徳堂」を設立し、初代の学主として三宅石庵が迎えられ、朱子学に混交した陽明学が教えられた。後に、この系列から富永仲基、山片蟠桃、佐藤一斎らが輩出される。このように朱子学に加え陽明学が地歩を固める中、『伝習録』等を通じ、幕末における維新思想をはじめとした各種の運動(大塩平八郎、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山、山田方谷 等) に影響を与えた。陽明学研究は江戸期を通じ進み、中国本土での清末における陽明学再評価時には、ほとんど忘れられていた陽明学左派李卓吾の『焚書』や『蔵書』が逆輸出されるほどであった。

江戸時代を通して、武家層を中心として儒教は日本に定着し、水戸学などにも影響、やがて尊皇攘夷思想に結びついて明治維新への原動力の一つとなった。一方、一般民衆においては、石田梅岩の石門心学等わずかな例外を除き、学問としての儒教思想はほとんど普及しなかった。


◎明治以降

明治時代になると、1885年に当時の文部卿森有礼によって、儒教的な道徳教育を規制する命令が出された。だが、元田永孚ら宮中の保守的な漢学者の影響によって、1890年制定の教育勅語などに儒教の忠孝思想が取り入れられ、奨励された。


◎現代

渋沢栄一は『論語と算盤』を著し、『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げる「道徳経済合一説」という理念を打ち出し、近代経済と儒教思想の融合を図ったが、広く普及することはなかった。また、戦前戦後の日本の政財界に隠然とした影響を与えた安岡正篤は、正統的な儒教思想の後継であるかが検証が必要であるが、公的には儒教をその思想の基礎とする陽明学者と称した。

儒教を宗教として捉える研究者は少数派であるが、学術研究において儒教の本質を宗教としてとらえる道を開いたのは、山下龍二・加地伸行である。山下は天地鬼神や祖先への祭祀を儒教の中心に据え、加地は宗教を死を語るものと定義して祖先崇拝を儒教の本質としている。ただし、こうした儒教への解釈については池田秀三などから批判が寄せられている。
上記のように当初から学問として紹介された日本では宗教として意識されることは少なく、道徳的・文化的な影響も韓国ほど強くはない。一方、『論語』の一節や朱子学の教えが引用されることは多く、道徳や倫理の古典として受け入れられている。特に『論語』は日本語訳や解説書が多数刊行されているなど人気が高い。


◎儒教の立ち位置が異なる中韓と日本(王 敏)

一言で言えば、中国、韓国の二国と日本は、儒教に関する立ち位置が異なっている。相対的に見れば、中韓文化は共通して儒教を古典的倫理観の核心としているが、日本文化においては、儒教は最も重要な核心にはなっていない。儒教を人生観、生活観、幸福感、世界観に加えて、生活の知恵としても基準にしてきた中国と韓国に対し、日本では儒教というより「思いやり」などといった価値観が顕著に表れている。

儒教への関わりは、儒教が中国で生まれた思想であるゆえに、中国人による、中国人のための、中国人の生活思想という性格をもともと有している。そんな中、儒教は東アジアに広まったが、なかでも李氏朝鮮王朝は儒教を国教とし、16世紀に李退渓と李栗谷の大儒が出て儒教を大成させたとも言われる。このため朝鮮半島は「儒教の模範生」とされ、「小中華」を自負した。
韓国制作の時代劇ドラマなど韓流文化が現在、東アジアを席巻しているが、そうした状況は中国国内でも例外ではない。なぜか。儒教的考え方に貫かれたストーリー展開が中国人には身近に感じられるからだ。『チャングムの誓い』(中国での視聴率は27%という)にしろ、『イ・サン』にしろ、儒教的価値基準が反映された台詞があふれていることが要因だろう。


◎中国で21世紀になって再評価された儒教
中国では社会主義の下、儒教は一時期、批判や排斥の対象となった。しかし、それは中国人のアイデンティティーにかかわる思想であり、その排除は中国が中国でなくなることを意味するという考えが広まったことから、儒教は21世紀に入ってから再評価された。今や中国国内の義務教育の現場では、儒教や伝統文化を参考にする教育が盛んに進められているし、国として儒教を中国文化の普及の軸として、世界中に発信している。中国文化に対する世界各国の理解の促進などを図る孔子学院はその象徴で、2010年10月までに96の国と地域において、大学に付属するなどの形で332校が設置された。分校に相当する孔子課室は369校にのぼっている。ちなみに孔子学院は2004年に中国で設立され、同年11月に初めての海外学院が開校されたが、その場所は韓国ソウル市だった。


◎参考

中華人民共和国では「儒教は革命に対する反動である」として弾圧され、特に文化大革命期には、批林批孔運動として徹底弾圧された。多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった熊十力は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていたためとされる。なお毛沢東は三国志を愛読し、曹操をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。

だが、21世紀に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。
孔子を、その思想を別論として、国際的に著名な教育者と評価し、2004年、中国国外の大学などの教育機関と提携し、中国語や中国文化の教育及び宣伝、中国との友好関係醸成を目的に設立した公的機関を孔子学院と名付け世界展開を進めている。また、2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、論語を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急速に行われている。

ほかにも改革開放が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である国学が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている。









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