龍の声

龍の声は、天の声

十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス④~

2011-03-18 10:49:42 | 日本
十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス④~

第四、得牛(とくぎゅう)

境界というものはそれぞれ違うものである。
雀の境界は雀でなければ分からん。
鶏の境界は鶏でなければ分からん。
魚の境界は魚でないと分からん。
この寒いのに水の中で暮らしておるが、まあ気の毒なことじゃ。
可愛そうにせめてお湯の中へでも入れてやったらなどというたら、魚は死んでしまう。
魚の境界が人間に分かるはずはない。
この本来の面目という牛は、妄想煩悩の境界ではとてもではないが計ることはできん。
ええの悪いの、可愛いの憎いのと、そんな頭で、この仏性の牛を探ろうと思っても分かるもんではない。
煩悩即菩提だのと悟ったような口真似をして、女に会うたら女を抱き、酒に合えたら酒を飲むなんぞ、とんでもない不了見だ。
そんなところに悟りがあるものか。
酒が出ても飲むという意識も起こらない。
美人が前に来ても抱こうという意識も起こらなくなって、初めて牛が手に入る。
理知分別のありったけを尽くし、もう何も考えることがなくなって何も言うことがなくなった。
大馬鹿者になってしまった。
何を考えていいのやら、考えることもなくなってしまう。
そういう境地で初めて牛をつかまえることができるのである。
できてもできんでも真っ正直に無字三昧になっていく、たとえ一秒でも一分でもよい。
たった五分でもよい。
俺は三昧になったところへ行くのに妄想を払い三時間骨を折る。
三時間苦労して三昧になったのはたったの五分だ。
それでよい。
たったの五分であるが、それは永遠につらなる五分間である。
その五分間は永遠の仏だ。
どこで得入せんとも限らんのであるからいつでも精神を充実していること、三昧を持続しているということが大切である.



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