龍の声

龍の声は、天の声

「塙保己一の逸話、」

2014-11-25 08:33:23 | 日本

◎逸話

塙保己一(はなわ ほきいち)は、学問の神であるとされた菅原道真と身分の低い家に生まれて天下統一を成し遂げた豊臣秀吉を尊敬していたという。

すでに学者として有名だった平田篤胤、安藤野雁も、保己一の門に入った。日本外史を著した頼山陽も保己一に教えを請うた。その他、保己一の弟子は、中山信名(なかやまのぶな)、石原正明(いしはらまさあき)、屋代弘賢、松岡辰方(まつおかときかた)、長野美波留(ながのみはる)などがとくに有名な学者である。

昭和の名人と呼ばれた落語家、桂文楽がなくなる十数年前、胸をわずらったことがある。不吉なものを感じた文楽は、四代目柳家小さんの妹が「拝み家」をしていたことを思いだし、彼女のところにいって占ってもらった。すると「えらい坊さんが出ました。その坊さんは塙保己一と名乗り、文楽はまだ大丈夫だと語った」とお告げが出た。そこで文楽は、保己一の墓にいってすっかり汚れている墓をきれいにした。寺の住職に過去帳をみせてもらうと、同行していた五代目柳家小さんがその系図の最後の人を指差し、「この人は軍隊のときの自分の上官です。随分なぐられました」と語った(宇野信夫『私の出合った落語家たち』(河出文庫)より)。

『群書類従』の版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させていた。これが現在の原稿用紙の一般様式の元となっている。

和学講談所で『源氏物語』の講義をしているときに、風が吹いて、ろうそくの火が消えたことがあった。保己一はそれとは知らず講義を続けたが、弟子たちがあわてたところ、保己一が「目あきというのは不自由なものじゃ」と冗談を言ったという。

辰之助(保己一)が江戸に出るときに同行した絹商人と、同行中に「お互いに出世しよう」と励ましあい、後に、その絹商人は、根岸肥前守(ねぎしひぜんのかみ)と名乗るようになったという出世話が語り継がれている。

和学講談所は、保己一の死後も子孫に引き継がれ、明治元年6月までの75年間続いた。
『群書類従』666冊が完成したのは、保己一が74歳のときである。34歳のときに決心してから41年後となる。

保己一は『続群書類従』1885冊を編纂したが、生前は版が出来上がらず、世に出ることはなかった。しかし保己一の死から100年余りが過ぎた1922年、続群書類従完成会が設立され、『続群書類従』出版事業が始まった。続群書類従完成会は、江戸時代の出版物の復刻を手掛けていた「国書刊行会」(1905年創業。現在の「株式会社国書刊行会」(1971年10月創業)とは無関係)を前身として創業。『群書類従』・『続群書類従』・『続々群書類従』、更に『史料纂集』の刊行を行っていたが、2006年9月閉会(倒産)。閉会時の資本金は1500万円、従業員6名であった。同会の出版事業は2007年6月より八木書店に引き継がれ、続群書類従完成会発行の書籍も八木書店から発売されている。

嘉永4年(1851年)、保己一が編纂した『令義解』に女医の前例が書かれていることを根拠に女医の道が開かれ、荻野吟子が日本初の国公認の女医第一号となった。それまでは医者は男性しかなることができなかった。

1921年、昭和天皇が皇太子であったころ、ケンブリッジ大学を訪問した記念に『群書類従』を寄贈することを約束され、実弟である秩父宮が届けた。その他、『群書類従』は、ドイツの博物館、ベルギーの図書館、アメリカの大学等にも贈られた。

『群書類従』の版木は井上通泰、渋沢栄一、芳賀矢一、塙忠雄が創設した温故学会によって保存されている。1954年東京都重宝に指定された後、1957年に国の重要文化財に指定された。

ヘレン・ケラーは幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と母親より教育されていた。昭和12年(1937年)4月26日、ケラーは渋谷の温故学会を訪れ、人生の目標であった保己一の座像や保己一の机に触れている。ケラーは「先生(保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語っている。

2000年、温故学会会館(東京都渋谷区)が登録有形文化財に登録された。














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