龍の声

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「山崎闇斎」

2017-12-10 07:04:59 | 日本

~武士道精神の再建~



山崎 闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日(1619年1月24日) - 天和2年9月16日(1682年10月16日))は、江戸時代前期の儒学者・朱子学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。

諱は嘉、字は敬義、通称は嘉右衛門。闇斎は号。「嘉」の字を二文字「垂」と「加」に分解し「垂加霊社(すいか・しでます)」という霊社号を生前に定めた。
朱子学の一派である崎門学(きもんがく)の創始者として、また、神道の教説である垂加神道の創始者としても知られる。


◎概要

闇斎の提唱した朱子学を、崎門(きもん)学または闇斎学といい、君臣・師弟の関係を厳しく教え、大義名分を特に重視するなどしたが、その思想の大きな特徴は、湯武放伐を否定した点にある。

闇斎の思想は朱子学の一派にとどまらず、神道においても、吉川神道をさらに発展させた「垂加神道」を創始し、そこでも君臣の関係を重視した。
以上のような闇斎の思想は、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた。

門人には、佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎・植田艮背・遊佐木斎・谷秦山・正親町公通・出雲路信直・土御門泰福らがおり、闇齋学の系統を「崎門学派」という。


◎生涯

元和4年(1619年)、京都にて生まれる。父・山崎浄因は当時浪人であり、鍼医を営んでいた。
幼くして比叡山に入り、ついで妙心寺に移って僧となる。19歳のころ土佐国の吸江寺に移り、湘南宗化の弟子となる。土佐南学派の谷時中に朱子学を学び、また野中兼山や小倉三省らとも交流して、朱子学への傾倒を深め、寛永19年(1642年)に25歳で畜髪・還俗して儒学者となった。

明暦元年(1655年)に、京都市上京区の、伊藤仁斎の開いた古義堂と堀川を隔てて相対する位置に、闇斎塾(現在「山崎闇斎邸跡」)を開いた。

寛文5年(1665年)、江戸に出て、会津藩主・保科正之の賓師に迎えられた。また吉川神道の創始者である吉川惟足に学んで、神道研究にも本格的に取り組むようになり、従来の神道と儒教を統合して(神儒融合)、垂加神道を開いた。こうした神道研究の成果により、藩政への助言を行う一方で、領内の寺院・神社の整理をおこない、神仏習合を排除した。

「劉邦は秦の民であったし李淵は隋の臣であったのだからこれが天下を取ったのは反逆である。それは殷でも周でも他の王朝でも同じことで、創業の英主といわれていても皆道義に反しており、中国歴代の創業の君主で道義にかなっているのは後漢の光武帝ただ一人である」と述べて易姓革命を否定した。またあるとき弟子たちに向かって「今、支那から孔子や孟子を大将として日本に攻めてきたらお前たちはどうするか」と問い、返答に窮した弟子たちに「そういう時は当然孔子や孟子と戦って、あるいは斬り、あるいは生け捕りにするのだ。それが孔子や孟子の教えだ」と説いた。

天和2年(1682年)、死去。


◎墓所・霊廟

山崎闇斎は、人間の心(心神)は、即ち天神と同源であり同一であるとの思想から、自らの心神を自宅の祠に祀った(生祀)。社名は、闇斎の霊社号と同じ、垂加霊社。のちに下御霊神社の境内に遷座して、猿田彦神社に合祀され、現存している。
墓所は、京都市左京区黒谷町の金戒光明寺にある。