龍の声

龍の声は、天の声

「吉田松陰精神に学べ④」

2017-10-22 08:02:53 | 日本

◎松下村塾

安政二年十二月、松陰は野山獄を出て、杉家に幽囚の身となった。松陰の幽囚の部屋は、四畳半の狭い一室であったが、この中に閉じこもってひたすら読書と思索の謹慎生活を送った。これが松下村塾のはしりである。


この松下村塾は、元々、松陰の叔父玉木文之進が天保十三年(一八四ニ年)に始めた塾で、松本村にあったので中国風に松下と名づけられた。松陰も幼少の頃、兄の杉梅太郎と一緒に玉木文之進より厳しい教育を受けた。二代目が、杉家の隣りに住んでいた親戚の久保五郎左衛門であった。そして松陰が三代目であるが、松下村塾といえば今では吉田松陰が教えた塾の代名詞のようになっている。それだけ、松陰は、多くの人材を育て、且つ教育指導が抜群であった。

松陰の教育方針は、『松下は陋(ろう)村といえども誓って神国の幹とならん』という信念をもって尊皇の大義を説き、熱誠にて青年の教育に全精魂を傾け人材を養成した。

しかもその教育姿勢は、指導者として高い座にて指導するのではなく自ら率先垂範し、人に応じて一対一の体当たり教育であった。その情熱と迫力は、人の心を動かさずにいられない至誠の一語につきた。しかも塾生には、

『学者になってはいかんぞ、人は実行が第一だ。国のためにお役に立てる立派な人間になることが何よりの学問である』

と、松陰は机上の知的なものだけでなく常に生きた学問をめざした。たとえば、晴天の下で田畑を耕作しながら問答形式で教えたり、師弟二人で米ツキをしながら今流のマンツーマンで教えたり、洵に理想的な教育である。

ここで松下村塾規則を紹介する。


一、両親の命必ず背くべからず。
ニ、両親へ必ず出入を告ぐべし。
三、先祖を拝し、御城にむかひ拝し、京にむかひ天朝を拝する事。
   仮令病に臥するとも怠るべからず。
四、兄はもとより年長又は位高き人には必ず順ひ敬ひ、無礼なる事なく、
   弟はいふもさらなり、品卑き年すくなき人を愛すべし。
五、塾中においてよろず応対と進退とを切に礼儀を正すべし。


この五則をみても、松陰は水戸学によって開花した天朝日本精神を教育の基とし、人は人たる道を歩むことを主眼としていた。即ち神ながらの精神であった。

松下村塾が日本で最小の学舎でありながら、わずか二年半の短き歳月の中で、かくほどまでに後世に燦然と輝き遺しえたのは、素晴らしい後継者、良き人材、日本の宝を養成したことであった。

松陰の至誠あふれる教育者としての精神は、塾生の魂を動かし感動を与えた。高杉晋作をはじめ久坂玄端、木戸孝允(桂小五郎)、前原一誠、吉田栄太郎、品川弥二郎、野村靖(和作)、山田顕義、山縣有朋、松浦松洞、増野徳民等々幕末から明治維新の大業にたずさわった超一流の人物を輩出した。

残念ながら松陰は、若くして武蔵野の露と消えたが松陰の尊皇絶忠の精神は、これらの門下生に流れ伝えられ、わが日本国においては、永遠不滅のごとく、今日まで受け継がれている。

なぜ松陰の教育指導がこれほどまでに多くの人を魅了し、且つ日本中に影響をあたえたのか。今日の混迷する日本においては、教育の貧困が大きくとりざたされているだけに洵に興味あることであり重要なことである。

それは、松陰の教育指導は、各自の適正を洞察し、個性を豊に伸ばす〃天才教育〃であり、生きがいを与える教え方であった。そして松陰は常に真剣であり、自分も一人の求道者のように多くのものを学んだ。


◎真の学問とは

松陰は、先に記したように二十一歳から二十五歳まで全国を遊歴し、当時の一流の学者から〃生の学問〃を学びとった。儒学、兵学、神道学、地理学、国学、蘭学等自分に必要なものをドンドン吸収し、それを確実に血肉とした。とくに、水戸学と山鹿素行の『中朝事実』に魅きつけられたようである。又、下田の獄にあっても、野山獄にあっても絶好の学問の場と考え、猛烈に学んだ。

松陰の二十代からの十年は、人の十倍、即ち百年に値いするほど時間をいかしたのである。松陰は朝起きてから夜寝るまで勉強を怠ることなく、松下村塾の時代は満足に布団を敷いて寝ることはなかったという。眠ければ机にうつ伏してしばらく休み、又起きて読書をし、講義をする超人ぶりであった。しかも松陰の教育は家庭を非常に大切にし、忠孝を基いとしていた。

真の学問は、理論だけの言挙げしたものではなく、敢くまでも実践学と一致したものでなくてはならないとの考えからである。それゆえに松陰は父母をことさら大切にし、妹たちをも非常に愛した。
『凡そ人のかしこきもおろかなるも、よきもあしきも、大てい父母のをしへに依ることなり。就中、男子は多くは父の教を受け、女子は多くは母のをしへを受くること、又其大がいなり・・・・』

と、松陰は家庭教育を教育の根幹においている。のちに松陰は間部詮勝老中事件の発覚により、再び野山獄の人となった時、父母に、叔父、兄に深くお詫びの書を送っている。その手紙を見ると、

『度重なるご迷惑をかけることになり、これ以上の不幸はありませぬ。しかし、今日の時勢を想うに真の国家の存亡に関わる重大な時、じっとしておるわけに参りませぬ』

と、深く肉親を思い詫びている。ここが松陰の比類なき素晴らしい〃人となり〃である。単なる革命家と本質的に異なる。烈しいまでも国を想う愛国精神に驚嘆を感ずるとともに、今日の吾等の行動を顧みる時、松陰の塾生たちにも別れの詩として次の一篇を示した。

『宝祚天壌と隆に、千秋其の貫を同じうす。如何ぞ今の世運、大道糜爛に属す。今我れ岸獄に投じ、諸友半ば難に及ぶ。世事言うべからず。此の挙施(かえ)って観るべし。東林秀明に振い、太学衰漢を持す。松下陋村と雖も、誓って神国の幹とならん』

と、塾生たちには、常に神国の幹とならんことを教化した。

ここで注目すべきことは、松陰の書き記したものは、『山河襟帯の詩』を別として、『士規七則』『講孟余話』『七生説』『二十一回猛士の説』『志』『自詒(じい)』『至誠』『詠名詩』『奉別家大兄の詩』『肖像自賛の詩』『留魂録』等は、その大半が、獄中のものか、幽囚中で記されたものである。しかも、どれもこれも、国を憂い大義を尽し、死を恐れることもない至誠のほとばしる内容である。

松下村塾は、当初八畳の一間から始まり、塾生の数が増えるにしたがって、新たに十畳半と土間一坪が増築された。それも、専門家の手をわずらわすことなく、松陰自らが陣頭に立ち、塾生たちと共同で作業しこしらえたものである。塾生の中には、大工や左官、或は、屋根葺きの心得のある者がいて、夫々材料を持ち込んで造った。いわば、松下村塾の建物は、本当の手造りである。


筆者も、松下村塾の建物を眼の当りにして、余りの小さきに驚いたほどである。本当に学問を志し、教育を為すものにとって学舎は、形や外観ではなく、指導者の姿勢と情熱と使命感が何よりも大切であることを松下村塾は、吾々に無言のうちに語っているような気がするのである。

丁度、親鸞聖人が浄土真宗を拡められた時、『たとえ、ポロ屋でも、この教えを聞いてくれる人がいれば、それでよい』と、大きな伽藍道場を建てることを戒められていたことと類似している。人材育成のための学校は、外形ではなく問題は、その中味である。松下村塾の建物を見て感ずることは、この程度の大きさならば、現代の吾々にとって、自分の住んでいる家と変りなく、〃やる気〃さえあれば、安心して自宅を解放できると思うのである。


◎人は人たる道

松陰の教育方針は、今日の日本において、一番必要なことであり、且つわが国にとって永遠不滅の精神である。否、日本のみならず、万邦に比類ない教育方針である。それは、教育にとって最も大切なことは、国体の精華を明らかにし、国のために尽す精神の培い、〃人は人たる道〃を修めるよう教え育てることが、なにより肝要だからである。

松陰の『松下村塾規則』や『士規七則』から見ても、それらの思いと精神が溢れている。又、この精神は、後の『教育勅語』に相通ずるものである。その『教育勅語』は、作成に当って、山縣有朋(松下村塾出身者)の内閣時代、文部大臣芳川顕正が就任を折、明治天皇より勅語を起草するように御沙汰があり、法制局長井上毅と協力して草案作成に努力した。又、この井上毅は、大日本帝国憲法の草案においても身命を尽した人であり、大変な水戸学の心酔者でもあった。

従って『教育勅語』の背景には、水戸学(とくに『弘道館記』)が非常に影響を及ぼしていると思われる。それは『教育勅語』渙発の明治二十三年十月三十日の前日まで、明治天皇が水戸にあって近衛機動演習統監のため御幸されていたことでも頷ける。

これらのことを考えると、松陰は、先に述べたように水戸学を尊崇していただけに、当然、松陰の『松下村塾規則』と、後の『教育勅語』の精神とは一致したものであり、日本人がいかなる時代を迎えようと、万古不易として、踏み行うべき〃道〃である。

この最も大切な〃道〃が、敗戦を境として失われてきていることが、今日の〃病める日本〃に陥落し、目を覆うような事件が続出している素因となっている。人は踏むべき〃道〃を踏み外した時、悪逆無道の世になるのである。

昔から言われるように、〃人心危うく、道心是れ微かなり〃の諺が示すように、人は人たる道を踏み行うことが、本当の平和への道であり、素晴らしい明日への社会建設にあるのである。

かつて、イギリスの有名な陶芸家バーナード・リーチ氏が万博の時に来日され、日本感想記を述べた中で、 『日本にないものはない。なんでもある。唯一つ日本がない』 と、今日の〃病める日本〃を指摘していた。この意味は、現代の日本人の精神構造を指摘しているようであり、洵に恥かしい限りである。

今日の日本は、物質中心主義に走り、政界や経済界ばかりか、もっと神聖であるべきはずの教育界までも唯物論の蔓延によって、教師と生徒が敵対関係のようになり、その結果、校内暴力、非行化は目に余る現況である。これを一掃するには、現在の唯物論的押しつけ教育を根本的に見直し、幼少の頃から、もっと〃人の型〃即ち、人は人たるべき道を教え、個性豊な天分を引出す教育に早く転換することである。

それには、徳育を主とし知識は従にし、心に潤いのある情緒豊な教育が必要である。具体的には、日本の正しい神聖性のある歴史を教え、生きた学問として神社参拝を励行し、わらべ唄を歌わせることが大切である。その意味からいっても、吉田松陰の精神に触れ学ぶことは、単に懐古主義でなく、真の日本人育成に洵に重要なことである。

松陰においては、わずか二年半の松下村塾時代が、もっとも楽しく幸福な頃であった。


◎ただひたすら尊皇崇拝

松陰は、間部老中事件の発覚により、再び四年ぶりに野山獄に幽閉された。その時に詠んだ詩が

『斯の身獄に降るも未だ心は降らず、寤寐(ごび)猶迷う皇帝の邦、聴き得たり三元鶏一唱、勤皇今日郭れか無雙ぞ』 

と、身は幽閉されてもなお益々尊皇崇拝を心に誓っている。このような松陰のあまりの憂国の烈しさに、同志や門下生ですら身の安全を思って、一人去り二人去りと、だんだん遠のいていくほどであった。とくに桂小五郎や吉田栄太郎などそうであった。松陰にとっては、友が去っていくことが獄にいる以上に辛いことであった。しまいには、音信すら全く途絶えてしまった。

安政六年五月、松陰は故郷の野山獄から江戸へ送還されることになった。五度奮起して五度敗れた松陰は、もう二度と萩へ帰ってくることはないだろうと察知していた。

松陰はこの時、父母と三人の妹たちに別れの手紙を書いた。その中で、五月十四日に妹たちに宛に書いた手紙は、今日の乱れた世において、道徳教育の面からみても、洵に素晴らしい内容である。松陰がいかに親を思い、妹等のことを案じているか、松陰の〃人となり〃が、よく文脈に現れている。

『拙者儀この度江戸表へ引かれ候由。如何なる事か趣は分り申さず候へども、いずれ五年十年に帰国出来る事も存ぜず候へども、先日委細申し置き候故別に申すに及ばず候。拙者この度たとひ一命捨て候とも、国家の御為めに相成る事に候はば本望と申すものに候。両親様へ大不孝の段は先日申した様に、その許達申し合わされ拙者代りにお尽し下さるべく候。併し両親様へ孝と申しても、その許達各々自分の家之ある事に候へば、家を捨てて実家へお力を尽される様な事は却って道にあらず候。各々その家その家を整え夫を敬い子を教へ候て、親様の肝をやかぬ様にするが第一なり。婦人は夫を敬う事父母同様にするが道なり。・・・』

と、人の道たる倫理道が記されている。松陰は、国家の救済を本意としながらも、なお家庭のことまで心配りを怠らなかった。ここが松陰素晴らしさである。