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「韓国歴代大統領の末路─光明なき歴史の闇」

2016-12-05 07:48:48 | 日本

雑誌「WiLL」が 「韓国歴代大統領の末路─光明なき歴史の闇」について掲載している。
以下、要約し記す。




◎半世紀越しの報復

今から20年前──。1996年10月23日、韓国北西部・仁川市内のマンションで、一人の老人が撲殺された。

「民族の指導者である金九先生を、自分の利益のために暗殺した安斗熙を、歴史の教訓とすべく殺害した」

事件発生から7時間後に逮捕された犯人、朴●(王へんに奇)緒が口にした動機である。金九は日本統治時代の独立運動家で、第二次世界大戦後は保守派指導者の一人として、韓国政府樹立にも関わった。
しかし、朝鮮戦争の直前、南北分断を回避しようと活動していた最中に、韓国陸軍の少尉によって射殺されてしまう。この事件から約半世紀後に撲殺された79歳の老人こそ、射殺犯の安斗熙である。

現在の韓国歴史学界では、この暗殺の首謀者は、韓国初代大統領の李承晩であると囁かれている。
李承晩は、最初に渡米した1904年から1910年までアメリカで学び、ハーバード大、プリンストン大で修士号と博士号を取得しているが、李が韓国初代大統領として行った政治は「民主主義」とはほど遠いものだった。

金九や呂運亨といった保守系指導者の暗殺に始まり、「国民防衛軍事件」、「済州島四・三事件」、「国民保導連盟事件」など、後世の歴史家から「虐殺」と呼ばれる事件を繰り返し、80歳をすぎても権力に執着して不正選挙に明け暮れた。
さらに、1958年には野党党首の●奉岩(チヨボンアム)をスパイ容疑で処刑し、腹心の李起鵬──李承晩は、起鵬の息子を養子にしていた──と共に、独裁政治を行ったのだった。

それでも、85歳を迎える1960年には、ついに国民の不満を抑え切れなくなった。李承晩は、11年と8カ月にわたって居座り続けた大統領の座を手放すと、妻と2人でハワイへ逃げ、二度と韓国には戻らなかった。
側近中の側近だった李起鵬、李康石(李承晩が養子にした起鵬の息子)の一家は、李承晩の失脚時に無理心中事件を起こし、4人全員が死亡した。だが、これが韓国政界における「報復の歴史」の始まりではないのだ。
「李承晩の思考には、大韓帝国【李氏朝鮮】時代の専制政治スタイルが化石となって残っていた」
こう述べたのは、韓国人ジャーナリストの池東旭である。

そもそも李承晩は、王族の遠い血を引く支配階級の出身。朝鮮の鎖国が続いていれば、朝鮮王に仕える「王宮」の官吏となるはずだった。
王宮とは、地縁を中心に結束した文臣らの党派「朋党」が、専制君主の恩寵を奪い合って、血みどろの「党争」を繰り広げた世界のことだ。
王宮では、儒教倫理に基づいて「徳」による支配を重んじる「徳治主義」が(建前上は)尊ばれたが、その実際は、「法秩序」の軽視だった。
法や制度より「情」を重視する「国民情緒法」による政治は、戦後に発したものではなく、李氏朝鮮時代からの「伝統」なのである。
朝鮮では、ある王を担ぐ「朋党」が失脚して、別の王を担ぐ「朋党」が実権を握ると、前政権が完全に否定される政治の断絶が、ひたすら繰り返されてきた。それは現代まで連綿と続いている。


◎朝鮮王朝の再現

李承晩の失脚で成立した尹●(さんずいに普)善大統領と張勉首相体制でも、すぐさま各派に分裂して対立が始まった。池東旭は、尹政権内部の対立を「朝鮮王朝時代の党争の再現」と呼んだが、一連の経緯を、池と同じ視点で眺めていたのが、陸軍少将の朴正熙だ。
朴正熙は「李承晩~尹●(さんずいに普)善・張勉政権」を「朝鮮王朝の党派政治の伝統を引き継ぐ封建的な守旧勢力」だと批判し、1961年に軍事クーデターを起こした。

国民に目を向けることなく、「党争」に明け暮れる文臣らによる「文治主義」を否定し、軍人が先導する形で、近代国家を目指したのだ。
経済面で、ほとんど無為無策だった李承晩と違い、朴正熙は、朝鮮半島南部の基幹産業を農業から商工業、さらに重化学工業へシフトさせた。これにより、韓国は産業面における儒教社会の負債だった農本主義を超克したのである。

尹●(さんずいに普)善大統領は朴正熙に協力しつつ、1年半の短い任期を終えた。下野後も野党の主導的立場にとどまり、返り咲きを目指して計三度も大統領選に出馬したが(いずれも敗退)、政治活動には関わり続け、1990年に92歳で息を引き取った。悲劇ばかりが目立つ、歴代11人の韓国大統領のなかでは余生に恵まれたほうといえるだろう。

一方、尹●(さんずいに普)善の後を継いだ朴正熙は、李承晩時代に険悪になった対日関係を改善し、強権的な独裁政治であったとはいえ、結果的に見れば、韓国に奇跡の経済成長をもたらした立役者になった。

朴本人は質素を好んで金銭欲もなく、後の大統領たちが繰り返すことになる「親族による不正」も行われなかったが、「民主主義」への信頼は少なく、内心では終身大統領を目論んでいたともいわれる。

しかし、朴正熙が長期政権を築く間に繰り返した「民主化運動への弾圧」は、次第に政権基盤を不安定化させ、後釜をうかがうライバルへの執拗な口撃は、孤立を招いた。1974年に夫人の陸英修をテロで失うと、朴は、枕の下に拳銃を忍ばせて眠るようになったという。
心理的にも追い込まれていった朴正熙は、警護室室長、中央情報部部長といった最側近の人事を巡って根ぶかい確執を招き、1979年、もっとも安全なはずの私的な酒席で、金載圭中央情報部部長の銃弾に倒れた。


◎全斗煥が試みた権力委譲

朴正熙の死後、歴代最短の9カ月に終わった崔圭夏政権を挟み、クーデターで権力の座を得たのが、全斗煥だ。全は、朴正熙がとくに目をかけて育てた腹心の一人である。

全斗煥と側近たちは「一心会」と呼ばれる陸軍士官学校卒業生の私的な組織を束ね、朴正煕大統領の親衛グループとして非公式の人脈を築いていた。
この一心会での立場を左右したのは、朴正煕の故郷・嶺南地方(韓国南西部)出身者かどうか。
血縁関係を巡る癒着とは縁遠かった朴正熙だが、地縁に依る利益誘導は積極的に行っていた。
全斗煥は「光州事件」、「三清教育隊」、「緑化事業」などの血なまぐさい弾圧を行う一方、朴政権末期に悪化した対日関係の改善にも努めた。
経済政策については、朴の方針を踏襲しただけで、独自性は少なかったが、1985年のプラザ合意にともなう円高ドル安、原油価格の下落といった幸運に恵まれ、韓国は新興工業経済地域(NIES)の優等生となり、ついに1988年、ソウル五輪の誘致に成功したのだった。
つまり、全政権は韓国経済を躍進させたわけだが、同時に、中産階級の拡大と国際社会における地位の向上は、国内の民主化欲求をいっそう強める結果になった。

朴正熙と全斗煥の末路が示すのは、韓国の政治的振り子が「強権政治=経済成長」と「民主政治=国民情緒法」という、どちらにも問題のある二つの極論の間で揺れ続けているという悲しい実態だろう。

民主化運動を徹底的に弾圧した朴正熙の末路を知る全斗煥は、同じ轍を踏まず、1987年に「大統領直接選挙制への移行」、「言論の自由化」などを盛り込んだ「六・二九民主化宣言」を行った。ただし、その譲歩は、次期大統領の最有力候補が、自身の盟友である盧泰愚だったという打算にも支えられていた。

1988年、全斗煥は公約通り7年の任期を終えて、盧泰愚に大統領の座を譲った。本人は退任後も影響力を行使するつもりだったが、同年4月の総選挙で多数の議席を得た野党は、全斗煥政権時代の不正に対する容赦ない追及を開始し、盟友だったはずの盧泰愚までもが、自らの政治生命を守るため追及方針に賛同したため、全の実弟・義弟らは次々に拘束されてしまった。
だが、全斗煥を切った盧泰愚の末路もまた、全と似たようなものだった。盧本人と親族による不正蓄財が発覚したのである。


◎繰り返される結末

1993年。初の文民大統領となった金泳三は、「一心会」を解体して軍閥の影響を徹底的に排除した。

そして1995年に盧泰愚、翌96年に全斗煥を、贈収賄や内乱などの疑いで逮捕・起訴──。

盧泰愚に懲役刑、全斗煥には死刑(控訴審で無期懲役)が宣告された。

懲役はいずれも特赦となったが、1997年に盧泰愚が2千6百28億ウォン(約213億円)、全斗煥が2千2百5億ウォン(約187億円)もの追徴金を言い渡されている。

親族の財産までかき集めた盧泰愚は、2013年にようやく完納したが、全斗煥は2016年の今でも、不動産などの処分が難航し、完納には至っていない。
1987年の民主化宣言により、盧泰愚以降の韓国大統領は、5年ごとに直接選挙で選ばれるようになった。だが、任期の途中で権力が崩壊し、「レームダック(死に体)現象」を克服できないまま政界を去るという結末だけは変わらなかった。

初の文民政権として「軍閥解体」を断行した金泳三政権は、初年度に83%もの支持率を稼いだが、息子の金賢哲をめぐる不正な政治介入および不正融資問題、そしてアジア通貨危機を発端とする経済危機が致命傷となり、任期最後の年の支持率は7%にまで落ち込んだ。

続く金大中大統領も、初年度は経済危機の克服と対北融和路線で人気を集め、62%の支持率を記録したが、次男の金弘業、三男の金弘傑らの不正問題が発覚し、支持率は急落。退任後は、北朝鮮への不正送金問題が浮上して、これまた晩節を汚した。

その次の盧武鉉は、日本の統治時代を経験していない初めての大統領であり、草の根の市民運動を支持母体に当選するという前例のないデビューを飾ったが、行く先は、やはり過去の面々と同じだった。

政治改革の具体像を描けないまま、実兄・盧建平の不正問題に見舞われ、退任翌年の2009年5月、不正献金疑惑の事情聴取を受けた後に、飛び降り自殺するという最期を遂げた。

朴槿惠大統領の前任、大阪で生まれた在日韓国人出身の李明博も然り。5年目に、実兄・李相得や側近らの不正資金問題が浮上し、非難の嵐の中で政界を去った。

そして、第18代大統領に就いたのが、朴正熙の長女、朴槿惠だった。父が「日韓基本条約」を締結したように、娘は「慰安婦最終合意」を結んだが、やはり“恒例”のスキャンダルが起きた。


◎レームダック現象と伝統

もはや韓国政治の代名詞となった「レームダック現象」は、韓国人識者の間で、どう捉えられているのか。
大統領リーダーシップ研究院の崔進院長によれば、次の三段階を経て進行するという。(*2)
最初は、与党内において反大統領勢力が台頭する。あたかも、かつての「党争」のように親大統領派と反大統領派との対立が徐々に深まると、次の段階として、親族・側近の不正がリークされる。最大の原因は当人のモラルだが、リークのきっかけは政府内部のパワーゲームだ。
 そして最後が、次期大統領候補による差別化──。例えば、朴槿惠は、李明博大統領の在任中に、政権与党「ハンナラ党」の名称を「セヌリ党」に改名した。

次期大統領候補が、任期満了を待たずに前任者との違いをアピールし始めてしまうため、急速にレームダック化が進んでしまうという。
他方、韓国データセンターの李南永所長の見解は、自国民の気質分析の様相を呈しており、興味深い。

李所長によれば、韓国大統領のレームダック化は「制度の問題というより、むしろ文化の問題」であり、地域主義や親族・側近の不正といった「文化的要因」は「韓国人の生活習慣のなかに深く内在しているため、簡単には修正できない」ものであるという。

さらに「韓国大統領の政治は、法律や制度より、個人を中心に展開される。したがって、大統領に近い人物が、総理や国会議長などよりも実質的な権力を持つことになる」として、親族や側近を監視するシステムの必要性を説いている。

まさに、現在進行中の「親友問題」を想起させる指摘だ。事態の背景に垣間見える「文化的要因」と「党争」の歴史──はたして、韓国に「健全な政界」が構築される日は、やって来るのだろうか。