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最近のツイートや覚書など2024年1月 ②

2024年02月26日 | 覚書
 最近のツイートや覚書など2024年1月 ②


2024/01/17
いつからか、新聞のテレビ番組欄が、アニメや時代劇などいろんな専門チャンネルなども出てきて、多彩になってきた。また見たことないけどABEMA(アベマ)やヘンな桜チャンネルや百田尚樹チャンネルやら個人が気軽に「放送局」を持てるようになっているようだ。先ほど、DOMMUNE(ドミューン)にも出会った。

現在に生きるわたしたちは、自分のことも社会のこともその未来を現在から見通すことは難しい。社会のことは、構造的なものだから見通す(予測する)ことはいっそう難しい。気づいた時には、もうずいぶん変貌を遂げてしまった社会になっているということが多いようだ。



井上陽水の歌、「青空ひとりきり」(発売:1975年11月25日)の歌詞を探していて、「夢寝見」という歌に出会った。読みは、 (ゆめねみ)。今はやりのゆるふわネーミングに近いが、これは当然、中国から漢字を借りて換骨奪胎してきた、わが国の書き言葉としての新日本語への経験に連なるものである。

意味は、夢に見るイメージ、ほどの意味か。そういえば、昔、野田秀樹を中心に旗揚げした「夢の遊眠社」という劇団があった。このネーミングもまた、古来からのわが国の言葉の歴史に連なっている。

ところで、「 青空ひとりきり」の歌の言葉を、現在の風俗の尖端に置いてみる。歌詞の各連の最終行(「青空、あの日の青空、ひとりきり」など)が、世界の渦中に立っている。50年程の時差があり、現在はもっと孤独や空虚感は透明になり、深度を増しているような気がする。

また、現在は歌も言葉も、二昔前よりもパワーが衰え、必然的に(避けようもなく)「草食系」になってしまっているような気がする。歌番組をチラ見したが、歌にダンスや動的な照明や映像が伴っている。これは歌や言葉の衰弱とも見える。もちろん、背後にそれを促すこの社会の構造的な変貌がある。

それは別の見方もできる。現在の諸問題が、個別具体的な問題解決とは別に、BIなど人類史的な規模で考えないといけない面があるように、歌に踊りや照明映像などが付加して歌を励起状態へ導くことは、現在的な歌や言葉の衰弱でありつつも、人類的な歌の起源の新たな反復に当たっているのでは、とも見える。

例えば、空詩や木詩や土詩や画像詩など、わたしも画像を付けた詩(言葉)をやったことがあるし、やっている。そんなつもりではなくても、これも、現在的な言葉の衰弱と関係ありそうに思う。現在では、映像が付いてないとなんだか心細いとか不安であるとかがありそうな気がする。



2024/01/18
政治覚書2024.1.18
アメリカのトランプは、今までの政権ではなかなか解決されない不遇を抱えた層に支えられて登場し、今までのパッとしない政治以上のひどい扇動政治をした。一方、わが国では、司法・マスコミなどに手を突っ込んで口先だけの独裁的な安倍政治で、従来の政治の暗黙の了解をなぎ倒していった。

また、維新は、該当地域での政策・評価は知らないが、広報宣伝としてのテレビや芸能組織と癒着し、イソジンやら雨合羽やらいくつかの現象から判断する限り、今までのパッとしない政治への不満な層から押し出されてきた、今まで以上の口先だけのヤンキー政治、または、お祭り政治。



2024/01/19
最近の車の色が多彩になってきたのは、技術力によるものだろう。わたしが気になっているのは、丸みのある柔らかなデザインではなく、「トゲトゲ」とかカクカクしたなんか威圧的なデザインになってきたなということだ。調べてみたら、技術力がもたらした面が中心で時代性には触れられていない。

その車のデザインは、個人が、SNSで自由に感想を述べたり、「エッジの効いた」自己主張をしたりできるようになったという新たな事態に対応するものだろうか。いやいや、実状は、独り立ちした手ぶらの個人による表現というよりも、アジア的な負の遺伝子を持つ、

個人が国や防衛省や政党などなどと同化した、いわば「トゲトゲ」した〈党派性〉の発言の花盛りである。昨今の車のデザインは、そんな現在の社会の空気と対応していると思う。アメリカのトランプ現象も、これと相似だと思う。



2024/01/20
NHK BS『あきない世傳 金と銀』を見ている。ここで、天満屋(てんまや)というのが出てきたような気がする。(「暴れん坊将軍」の方じゃなかったよなという気持ちからこんな微妙な言い方になっている。) 同じ髙田郁原作の『銀二貫』というドラマでは、大阪天満(てんま)という言葉が出ていた。

wiki「天満宮」では、全国すべて「てんまんぐう」と読んでいる。大阪も、大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)。地名などにもなっている天満は、「てんま」、天満祭も「てんままつり」となっている。しかし、天神祭は、「てんじんまつり」である。

調べてみると由来として、「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、『 日本書紀 』の「虚空見(そらみつ)」から、あるいは「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来という、とある。

また別のでは、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)は、没後の菅原道真を神格化した呼称、あるいは神格化された道真を祀る神社。天神信仰、天満宮の主神。祟り神で神仏習合した神。主に学問の神、雷神、仏法神として祀られている、とある。

「天満大自在天神」も「天満」も、外来漢語のある固さ、よそよそしさを持っている。それを自分たちの身近な生活圏に引き入れ受け入れることばの振る舞いから「てんま」という音が生み出されたのではないだろうか。これは、大阪あたりの地域性の自然な語音だろうか、それとも一般性を持つものだろうか。

追加として、「天満町」の読みを調べたら、(地名辞典ONLINE)
1.「てんまちょう」は、
京都、島根、広島、香川、長崎・佐世保、
2.「てんまんちょう」(てんまんまち)は、
大分、宮﨑、岐阜、長崎・諫早
※正確を期すためには、ほんとは現地の人に聞いた方がいいのだろう。



2024/01/22
GIGAZINE(ギガジン)@gigazine
生成AIを利用して書かれた第170回芥川賞受賞の九段理江「東京都同情塔」が海外でも話題に

目下そのことが可能とは思えないが、生成AIが100%出力構成した「作品」なら、作者はカメラのシャッターだけを押すことで「作品」を生み出したことになる。従来の言葉によって表現された作品という概念からは、とても作品とは呼べない「作品」いうことになる。

作者によると、「小説の約5%が生成AIが出力した文章のままであること」らしい。物語を生み出すには、調べることもあるから、検索や書物の代わりに今までの人類知からの編集・構成をする生成AIの力を借りたということに過ぎない。ただし、今後生成AIの利用度の%は、もっと上がって行くに違いない。

それととも、作品とは何か、言葉とは何かが、改めてわたしたちに問われるに違いない。自然の花の生命感がわたしたちにある感動を与えることがあるように、人工の花(人の手が加わった造花や絵画に描かれた花など)が感動を与えることもある。生成AIの文章が、従来の作品より感動するということもあるかもしれない。

自然の作り上げた偶然な造形にも、人は「夫婦岩」と名付けて神聖さを感じたり、人の顔やゴジラの姿を感じたりすることがある。生成AIは、人間の手が生み出した人工の手である。「感動」という自然性も、感動とは何かと問い直さなくてはならないのかもしれない。



2024/01/25
「中国女性の髪型(註.1920-2020の変化)だけで、歴史とイデオロギー、精神と文化、社会問題とメッセージまで表現した4分動画を2分にカット」というのが、先ほど動画とともにTLに現れた。

私たちは、現在のあらゆるものを「呼吸」(それらが体内を巡り、代謝し、反応する)して、現在に生きている。現在には、子どもから大人や老人が混在しているように、主流のイデオロギー(集団的な考え方、思想)から昔風の古いイデオロギーまで存在している。また、古来からの姿形を変えてきた風習もある。

社会のイデオロギーは、一般にはそのままの形では髪型や服や物語などに反映しない。例えば、イデオロギーとしての効率やその波及意志の優先の考えは、人の批評性(受け入れ)によってスピード感やエッジの効いた感性的な表現になったりする。つまり、時代のイデオロギーも、生きる人々(作者)の批評性

(受け入れ、批判など)を潜り抜けて、ものの選択や、髪型などの感性的な表現となる。こういう問題は、もう前時代の素朴反映論やリニアーな関係把握とは違って、現在では生きる主体を含めてもっと構造的なものとして捉える段階になっていると思う。



2024/01/29
RT
「プレハブ小屋で恩師から美しい響きを学びました」阿川佐和子、天才ピアニスト・藤田真央から受ける音楽講座
阿川佐和子のこの人に会いたい【ゲスト・藤田真央】 週刊文春 2023年12月14日号

★本文(3)の末尾
藤田 「思い悩んだ末、彼(ショスタコーヴィチ)は国家(ソ連)を賛美する内容の交響曲第五番を作るのですが、実は体制に批判的な意味合いの音がこっそり入っているんです。」
阿川 「検閲でひっかからなかったんですか?」
藤田 「音楽に詳しくなければ気付かないような入れ方なんです。」


音に関しては素人のわたしだが、「体制に批判的な意味合いの音」というのがどんなものなのかが気にかかった。当時の体制、秩序がのっぺらぼうの明るさや力強さが主流とすれば、それに批判的な音とは、柔らかさや繊細さや生命感に満ちた緩急さということだろうか。



田中泰延 RTして
電通に入ると、まず資料室にデンとある『日本財界系図』という巨大な本を閲覧することになります。
そこには日本の大企業・大資本の株主、経営者の家系図、相関図が網羅されています。驚くなかれ、
●日本の大企業といわれる法人の9割くらいは
●5つか6つの家族の持ち物
●それらの家族同士も婚姻している
●それらの家族の子女はさらに政権与党の有力者の子女と婚姻している
という事実が普通に名前と線で示してあります。
電通マンとは彼らに奉仕する職業であること、仕事を遂行するにあたって、「どこの家族の系列にある資本か」を間違えないこと、を叩き込まれます。
卑近な例ですが、三菱UFJの担当として宴会を仕切ったときにアサヒビールを搬入したりキヤノンのカメラで撮影したりして出入り禁止になったり降格されられたりした人もいました。  
電通が日本を操っていたとか、お笑い草の陰謀論です。
日本は5、6軒の家族の損得勘定でみんな仕事を得たり給料をもらったりして生きているのです。
そしてそれはどこの国でも産業革命以後、資本家階級と労働者階級が発生したこの200年ほどはまあ、当たり前のことです。
だからこそそういう「家族さん」を飛び越えて資本の地図を塗り替えたイノベーティブな創業者、ジョブズだのゲイツだのベゾスだの孫だの柳井だのの出現は社会の変革のために大切なのです。
まあ、そこからまた新しい家系が始まるわけでもあるんですけど。


以前、ある政治家の家系図が、TLに流れてきて、まあいろんな「有名人(名家)」つながりだねえ、いろいろ助け合ってきたんだろうなと感じたことがある。ずいぶんフラットな社会になってきたが、この趨勢(すうせい)はとどまることはないだろう。それとともに、そうした系図は骨董品に近づくだろう。

昔、フロイスの『日本史』で知ったが、戦国時代の九州の大名(主なものでは、豊後の大友氏、薩摩の島津氏、肥前の竜造寺氏)は互いに姻戚関係を結んでいた。それでも、互いに争っていた。姻戚関係で集団の絆を結ぶ、これは歴史的に根深いのではないだろうか。



詩集の出鼻に買ったのに、ゆっくりと読む余裕がなかった山本育夫さんの詩集。その詩「キズミ」(詩集『ことばの薄日』)を読んでいたら、「目にキズミと呼ばれた/小さいルーペをはさんで」という詩句があった。調べたらキズミ・ルーペを売っている時計修理やメンテナンスの専門店の

「五十君商店 (いぎみしょうてん)」があった。五十君は、名字でもあるらしいが、初めて出会った。ちなみに、五は、いー(いつ)、五十は、いそと読む。だから、五十君(いそぎみ / いいみ / いぎみ)とも読むらしい。



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