覚書2023.1.28 ― 人の自然さの獲得のドラマ
信じるということがある。あるいは、信じるとまでいわなくても、それに連なる新たに物事や他者に慣れ親しむということがある。その内側では、初めは少しはとまどいや疑念が湧くことがあっても次第に対象を受け入れ、それが自然なものとなっていく。この過程には、異和や親和をともないつつある受容に到るドラマがある。そうして、無意識的な自然さ、すなわち「ふつうのこと」として感受されていく。
この慣れ親しむということは、自己とのあるつながりの存在を受け入れる、あるいは信じると言いかえてもよい。この信じることの起源は、吉本さんの『母型論』によれば胎内生活での母子関係(根源的な関係)にある。それを言葉の問題から眺めれば、「内コミュニケーション」ということ、言葉以前の言葉のようなものの漂う時空での母と子の互いの表出や受けとめや察知の世界である。そうして、ここで身に付けた信や察知などの力や道筋は言葉を獲得した後々まで身についている、ひとりひとりの信や了解の基底になっていると思われる。そういうひとりひとりが、あんまりいいことと感じられない場合には、例えば正社員時代から派遣社員の増大した社会に変貌していく渦中を今までの自然さを改定させられながら、ある澱のようなものを抱えながら生き延び自然さを獲得してきているのだろう。こういう今までの自然さから改定された新たな自然さへの変位は、誰もが個人的にあるいは社会的に経験してきていることである。そうして、その自然さは異和も親和も内包している。
大きな波風の立たない良い育ち方をした者は信じやすいということがありそうだ。しかし、どんな育ち方をしても寄せて来る現実との関わり合いでは紆余曲折があり、人について一概には言うことができない。また、宗教に限らず、現在の社会内の諸規範に関しても、信じるという信仰の内側から見たら宝石の言葉に見えることが、信仰の外側から見たらイワシの頭にしか見えないということもある。両者は、向かい合えば対立的な様相を呈することになる。信を巡るこういう局面は、依然として現在的なものである。
ここで、両者の真を判定するものはあるか。あるとすればそれは、大多数の普通の人々の経験 ― それは良し悪しを含めて長い歴史のなかで引き継がれ醸成された力である ― からくる普通の言葉の内包する感受や喜びや苦難に対して開かれているかどうかということである。現在のグローバリズムの考え方などからくる社会内の諸規範や知識や宗教などの別世界で身に付けた経験を携えて上から人々を啓蒙したり引き上げようとするのではなく、普通の人々の言葉に着地しようとしているか、あるいは普通の人々のあり方を丸ごと掬(すく)い取ろうとしているかどうかにあると思える。
そして、そのようなあり方の会社などの組織や宗教組織はめったにない気がする。家族葬に象徴されるように親族や家族の関係も希薄になっている現在の社会で、血縁を超えた人々がお互いに気楽に話ができる穏やかな関係の場を目指す(提供する)のが中心の宗教組織なら申し分ない気がする。そこでは、組織拡大と大ざっぱすぎるイメージの社会革命を目指すための「献金」は不要である。しかし、現実には、献金を重視し、外に対して、社会に対して、威力を発揮しようとするカッコ付けの宗教がほとんどであり、その言説は、人々の現世での受難や内発性にまともに向かうことはなく、現在のコマーシャル全盛時代のコマーシャル言葉と同質のものと見える。
ところで、わたしたちは、頭の隅ではこれは作りものだという意識があっても、物語やドラマの世界にのめり込んでいく。このことは、作者や役者が、ひとつの作りものの世界に入り込み、そこでの描写や振る舞いを迫真のものとしていくことと対応しているだろう。醒めた端(はた)から見たら作りものの世界ではある。
例えば、海外ドラマには長く続いているものがある。『ER 緊急救命室』はシーズン15まであったから、15年も観続けたことになる。『ブラックリスト』は目下シーズン9まで放送されているから、9年間観続けてきたことになる。こんなに長く作りものの世界に付き合っていると、登場人物たちの性格にも通じてくるし、そんな人々にもその世界にも慣れ親しんでくる。つまり、物語世界や登場人物たちが自然なものになってくる。
これを一般化すると、わたしたちは、読者や観客として、〈幻想〉の舞台に上り、その世界の存在を信じて自然なものと感じ行動するようになるということ。このことは宗教(信仰)でも物語やドラマでもあるいは生活世界の仕事でも共通する人間的な特質のように思われる。それはまた、現在的なものであるだけではなく、起源や根深い歴史性を持ったものであるように見える。その自然さの獲得までにはひとりひとり様々なドラマがあり、異和も親和も微かにくすぶり続けてその自然さに内在し続けている― その異和や親和はいわば批評的な芽として存在している ―。そうしてまた、その自然さも絶えず更新されていくのである。