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覚書2022.7.31 ― 近目と遠目の統合ということ

2022年07月31日 | 覚書
 覚書2022.7.31 ― 近目と遠目の統合ということ

 ※この覚書は、寝せていた「覚書2021.11.3 ― 近目と遠目という立ち位置」に少し手を入れたものである。
 
 
 近目には、口では国民(生活者住民)のための政治と言いながら、互いに対立する党派や集団が存在する現在があり、その現状を無視することはできない。たぶんどこへこぼれ落ちるかわからないトリクルダウン政治が相変わらず続いている。与野党の選挙支援活動などに関わる人々を全否定はしないが、私はそこじゃないと思う。
 また、何度でも言うけど、「左翼」や「右翼」や「保守」や「リベラル」なんてものはない。あるとすれば十分に実体化できずにもはや死んでいる。しかし残念ながら、死に絶えてはいない。そういう死んだ旧概念にすがるから、明確なほんとうの対立事項が隠蔽される。問題はひとつ、主人公は国民(生活者大衆)かそうでない一部の者かということ。このことは、政治(思想)に限らず思想や学問なども同様で、全社会的なものである。


 遠目には、太古の集落の行政の始まりと同様に、対立する党派は消滅し「いやいやでも」誰かが行政を担当しなくてはならないというイメージになる。もちろん、その内面は実際とは異なっていたかもしれない。動物生のように、実際はじぶんたち普通の集落の民とは違って優れた霊的な力を持つ巫女として敬われ(押し出され)、それが優れたものとして価値化されることもあったかもしれない。巫女さんもそれに支えられて価値化されたプライドを持って宗教的な行事を担当した場合もあったかもしれない。12年に一度行われた沖縄の久高島のイザイホーの祭りなどを見ると、受け継いできた集落のしきたりとして、あるいは宗教・行政として、たんたんとこなしつつ、内面的にはそんなノロのような意識に満たされていたのだろう。この太古の集落の行政の始まりのイメージの有り様は、それが現在にもいくらか残存しているとして現在の政治や行政の様子とを考えに入れれば、上に述べた二つの要素が合わさったものかもしれないが、ほんとうはもう少し厳密に詰めてみなくてはならないと思っている。


 この太古の集落の行政の始まりについては、断定的には言えないが、そんな動物生から引き継いだ人間の能力の序列意識が大きな位置を占めていたようにも思う。現在もそのような過去とは無縁ではないが、本日(2021.11.3)ツイッターでひろった秘書などとして政治に関わっている者の言葉に次のようなものがあった。連綿と受け継がれた変なプライドであろうか。



1.立候補してくれただけあなた方よりはるかに民主主義に貢献した方々です。


2.リスクとコストが全く違うのに、立候補した人とただ投票する人の民主主義への貢献度が同じなんてことがあるかいな。


3.投票することは無料でできますが、立候補するには何百万、何千万とコストをかけ、仕事をやめ、まさに人生を懸けなければなりません。それでも「投票する人」と「立候補する人」は同価値だと思いますか?



 もう政治世界中心の逆転した価値観、感じ考えに染まりきっているところから、このような発言がでてくるのだろう。現在の、なんらかの団体の利害を求めてとか優等生風の使命感を持った政治「好き好き」の議員ではなく、学校の生徒委員のように「いやいやでも」誰かが担当し知恵を出し合う、そういう行政のイメージが理想の未来的な(太古的な)ものとして考えられる。


 したがって、二つの目を現在の私において統合すれば、いわゆる「無党派」としていずれの党派にも直接的には加担しないという立ち位置になる。加担するとすれば、私たち生活者住民の無言の意志、日々の生活のきぼうのようなものに対してであろうか。
 
 
 註.
この「近目」「遠目」は、吉本さんの「現在的な課題」と「永続的な課題」ということを意識している。これに関しては、わたしの『吉本さんのおくりもの』(旧名 データベース 吉本隆明を読む)で、
項目471 〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉 ①
項目663 〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉 ②
として取り上げたことがある。
 
 
変わるものと永遠のもの、
このふたつを綿密にとらえないと、
実相というものは
なかなか浮かんでこないです。


いまの問題と持続的な問題がまとまる
頂点というか、集合点があるんです。
そこだけ捕まえていれば、
どういうことに適応させても、
たいていそんなに大きな間違いはしないよ、と
ぼくは思います。
 (項目663〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉 ②)
 
 
上の糸井重里との対話で吉本さんが語っている「いまの問題と持続的な問題がまとまる頂点というか、集合点があるんです。」ということのもう少し詳しい説明は、わたしの読んだ範囲や記憶では他では述べられていないような気がする。


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3606-3609

2022年07月31日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3606
(青空に雲が出ている)
O形の雲
が数時間後には寝そべるI形になっていた



3607
それだけのこと(それだけのことなんだけど)
今日この雲の変貌
が少しばかり心を流れ下った



3608
あんまりそうは意識しないけど
今この時
世界中が 人が 拍動している



3609
いつものような昼下がりがあり
プロポーズがあり
事件があり穏やかなジョギングがあり・・・





詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3602-3605

2022年07月30日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3602
対立する二項が沸騰する
誰もが逃れられない
(ほんとうにそうか 疑義がある)



3603
戦争中でさえ社会の底
竈の火は
揺れながらも燃えていた



3604
「若見え化粧品」を買うぞという人
絶対に買わないわという人
正負の関心もなく通りすぎて行く人 が今でもある



3605
相対立する煮詰まった意味圏から
(あ 洗濯物とりいれなくっちゃ)
と圏外に走り出る 無意味圏がある 

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3598-3601

2022年07月29日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3598
言い合いの渦中から
逃れる術はない
おもい鉄剣の幻が見える



3599
譲り合えない細い道
二人いっしょに
進めないものか 大道は靄(もや)の向こう



3600
けんか別れに終わる時
内心は
子どものそれとあんまり変わらないか



3601
世界はとっても狭くなったから
夫婦げんかの
翌朝のように世界は幕を上げる


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3594-3597

2022年07月28日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3594
流れの表面では
(誰もが我先に
山に登ろうとしている)という見方もある



3595
けれど誰もが小さな〈ことば〉のひとり
「オレ様はこれだ!」
でいいんだけど 流れは深いぞ



3596
ひとりの〈ことば〉がみんなを仮構する
と とんとんとん
ちょっと近寄りがたい《ことば》になる



3597
賢治が〈ほんたうのこと〉と言った
確かに 突き抜けて 微かな
にんげんの普遍のみちがありそうな


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3590-3593

2022年07月27日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3590
〈了解〉するという点では同一でも
局所のa表層のb
に固執する言葉があり



3591
局所のc表層のdに固執もあり
言葉と言葉が
対立・離反するもあり



3592
いずれの言葉も時代の主流と
ぴったり
りんりん接合・稼働しようとする



3593
言葉はこの世界をまるごと
飲み込みたい
のに狭い部屋でいつもサースティー 

 [ツイッター詩126] (7月詩)

2022年07月26日 | ツイッター詩
 [ツイッター詩126] (7月詩)


少し下っていく
視線を向けているのだろうが
風景から退(の)いた心が
ぼんやりと
何を見るともなく
見ている
何か

たぶん誰にもありそうな
時間のすき間
もっと下って行くと
すき間の時間
が流れている
のを肌に感じている
ような

何百万年も続いて
今があるように
今には何百万年が収まっている
どこか
心もまた たぶん
何百万年が層をなしていて
知らぬ間に層を上り下りしているみたい
感じる

わからない
秘密みたいでも
ぼくらはみんな
知らぬ間に
秘密の内を
上り下りしているよ
いるよ

下った先には
深青の時間の水が
さざ波立っている


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3586-3589

2022年07月26日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3586
どちらに行こうか思い悩み
停滞する心にも
向こうから押しかけ顔で朝が来る



3587
問題はモンダイはもんだいは
自分で選択・制御
できそうでできないなあ



3588
ひとりの主体のちからと
押し寄せる
世界の力との不釣り合いな相撲みたい



3589
観客たちはよそ事だからと
気の毒そうな視線を
放ち収め通り過ぎて行く


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3582-3585

2022年07月25日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3582
ふと目をやるとアリさんたちが
天に遠く
道の脇を這(は)うように動き回っている



3583
(天に遠く?這うように?)
わからない
わからないけどぼくらも同じく動き回る



3584
人間界の中にもシェアする
人間でないものたち
がたくさんたくさん動き回っている



3585
あ セミたちが鳴いている
雲が浮かぶ
青空に響き渡っているよ


覚書2022.7.24 ― 戦争世代の経験が途切れるところから

2022年07月24日 | 覚書
覚書2022.7.24 ― 戦争世代の経験が途切れるところから
 
 
 今から70余年前の敗戦の精神的な深手と彷徨から立ち上がって、なぜ普通の穏やかな日常生活の全てが〈戦争〉に取り込まれて奪われていったのか、あるいは自ら進んで戦争を応援したのか、ということを深く鋭く内省した者はいた。吉本隆明さんもその一人だった。
 
 そのような戦争の内省から、この社会や人間の関わり合う総体の構造をつかむこと(社会総体のイメージの獲得)、これが吉本さんが戦争から学んだこと、足りなかったことだった。しかし、70余年前の精神の遺産は、戦争世代がほとんどいなくなっている今どこでどのように生きているのだろうか。
 
 アジア的な専制下の国家幻想に取り込まれた、個と国家を直通させる思考、相も変わらずの短絡思考や現状追認の心性のネトウヨの跋扈やプーチン-ロシアのウクライナ侵略戦争に対する生活感覚を喪失したゲーム感覚の関心などをSNS世界で見ていると、戦争世代の負の遺産からの教訓はどのようにわたしたちに受け継がれているのかということに疑念を持たざるを得ない。しかし、振り返ってみると、表層的にはこうして時代は途切れたり新たに更新したりしていくように見えるのかもしれない。そうして一方、時代の深層では自己表出としての受け継がれた人間の歴史が積み重ねられているのかもしれない。
 
 そこで、わたしが思うのは、自分が、今ここに生きることの根を持つこと。現在の大気に染め上げられつなぎとめられている、消費資本主義社会の浮遊するようなものの感じ方や考え方(思想)を解除あるいは切断して、少なくとも数十万年にも及ぶ人の歩みの根に触れつながることである。それは言いかえれば、吉本さんが主張してきた、歴史の初発から連綿として重力の中心となっているこの生活世界、その生活実感、そこから、現在の自分や人々の歩みを照らし出すことである。
 
 それは、現在の経済社会の無意識的な要請による合理性や成果や競争などの窮屈な価値観、あるいは価値序列とは違った、等身大の人の理想のあり方や生き方が、現在がもたらしているとがった病群をなだめるように、ちっぽけなイメージに見えるかもしれないがおのずと照らし出されて来るような気がする。


 わたしたちは、主要に自分が成育してきた数十年、そこには吉本さんが述べたように受け渡された人類史を含み潜在してはいるが、その自己成育史と〈現在〉を主要な無意識の中心としている。もちろん、そこには受け取った潜在的な人類史が織り込まれてはいるが、ひとつの大きな時代的な流れ(例えば、消費資本主義)に沿って目まぐるしく更新されるイメージや思考(指示表出)の現在がわたしたちのものの考え方や意識の中心に来るようになっている。そこで、現在の窮屈さを深く解き放つには、また錯綜する現在の問題を深く考えるためには、今まで人間が歩み築きあげてきた、潜在的な人類史に自覚的に自分を開くことが大切になってきているとわたしは感じている。