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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1526-1529

2021年02月28日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1526
たぶん人は我知らず
あっつ熱の
言葉というものを手にしてしまった



1527
(語りたくない) (書きたくない)
ということが
言葉の始まりにはあったろうか



1528
習いたての小さい子は
よちよちと
くり返す言葉道をたどってくる



1529
それは戻り道のない
言葉の街への入口
(前に進むしか道はないんだよ)

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1522-1525

2021年02月27日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1522
五十音のひとつとすれちがう
と 自動ドアのよう
するすると接続していく



1523
「や」という言葉にぶつかった
柳田国男ではなくて
今日は話題の山田さん や やや すっから菅と続いていく



1524
人間は言葉人言葉病にかかって
しまった
もうその土俵で言葉相撲を取るしかない



1525
時には遊び相撲をのんびりと
また時には
きまじめに言葉相撲を取る

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1518-1521

2021年02月26日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1518
〈ある〉と信じられているもの・ことが
線や点と掘り出され
文字に信が付与されていく



1519
起源を薄くなぞりながら
一画二画と
言葉の森を土足(つちあし)で歩いてきた



1520
今はもう瞬時に文字ができる
言葉の街を
手が疾走していく



1521
書いたりすることがそんなに
増えたはずはないのに
書字狂の現代をどこに行く

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1514-1517

2021年02月25日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1514
「゛」をつけると自信が出る
んだよなあ
「あ゛したはきっと晴れる」



1515
「ま」を取ると落ち着く
んだよなあ
「今日 も 無事 に 一日 が お わ る」



1516
タヌキが知らぬ間に
現れている
「あしはきっと晴れる」



1517
言葉もその人なりに遊ぶんだね
ほらほら
タイ・ボクが倒れそうだ

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1510-1513

2021年02月24日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1510
言葉の外皮がぶつかり合う
すばやい
内から加減乗除が起動し



1511
利害損得ばかりでなくとつぶやきつつ
言葉の内からは
自然に加減乗除の手が伸びている



1512
加減乗除しながらも
止むに止まれぬ
にんじょうが内から湧くこともあり



1513
時代の空気に屈折して
しまったなあ
言葉よ 無心の歌がない

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1506-1509

2021年02月23日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1506
言葉の表層ばかりが
嵐に
小舟が揺れ揺られではなく



1507
言葉は深みまで
ひとすじの
ぴいーんと張り詰めていて



1508
あいさつは言葉の上層で
アイマイミーと
やりとりして別れていく



1509
深みでは(相変わらずだね)と
誰もが
「永久革命者の悲哀」の顔をする

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1502-1505

2021年02月22日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1502
雄鳥も着飾り魅惑のダンスする
人は羽ばたき
どこへ飛んで行こうとするのか



1503
飛んでバードアイ 見える見える
見えるぞ
バーチャルでも真に迫っている



1504
今 その 漂う自由感
それが
それが欲しいんだねきっと それって?



1505
それ、って言われても
隔靴掻痒
言葉の深い芯の方に沈んでいて

覚書2021.2.21―なぜ作者について知ろうとするのか

2021年02月21日 | 覚書
 覚書2021.2.21―なぜ作者について知ろうとするのか



 宮沢賢治の「心象スケッチ」について検索していて出会った植田敏郎の『宮沢賢治とドイツ文学』(講談社学術文庫 1994.5.10)を読み終えた。これは、宮沢賢治の文学や思想に与えた影響を実証的に論じている。日本では元良勇次郎(この人は、昔、吉本さんが若き岡井隆と論争していた時に名前が挙がったことのある人であり、わたしはその精神物理学の本に当たったみた記憶がある)の影響、ヨーロッパではホルツというドイツ文学者の影響を主要に取り上げている。そうして、二人の影響下に宮沢賢治の「心象スケッチ」はなされているという。また、宮沢賢治の擬音語の使用もホルツの影響があるのではないかと指摘されている。

 吉本さんの晩年だったと思うが、宮沢賢治はとてもすばやい速さで詩を書いていた、その修練をしたと思いますということを語っていた。書かれた作品自体からはわかりようがないと思われるから、吉本さんはどうやってそのことがわかったのかなとその時は疑問に思ったことがある。宮沢賢治の伝記的な事実に関わる本では、今までに『教師 宮沢賢治のしごと』(畑山 博 )、『兄のトランク』( 宮沢 清六 )、『宮沢賢治―素顔のわが友』(佐藤隆房)、『銀河鉄道の父』(門井慶喜)などを読んでいるが、そういう記述に出会ったことはなかった。ただし、それらの中に、宮沢賢治はよくひもをつけたペンを首からかけて手帳を持ち歩いていたということはあったように思う。

 しかし、本書の6 「スケッチ」によれば、宮沢賢治の早書きは研究者の間ではよく知られたことだったようだ。その背景には、宮沢賢治が戸外に出ると時、ひものついたシャープペンを首からさげて手帳などにすばやく書き付けていた様子が目撃されていて、その証言があったのだろう。それは、詩的な「スケッチ」とともに地質調査などの「スケッチ」でもあったのだろう。

 ホルツは、「徹底自然主義の作品としていちばんよく引用されるのは『パパ・ハムレット』であるが、場面を一秒ごとに描写するという「秒刻体」」(本書 P152)で表現している。宮沢賢治の蔵書や記述などからこのホルツをよく読み込んでいて影響も受けていたという。そこから以下のようにまとめられている。


 宮沢賢治はこれまで述べたように、自分の周囲に成起(せいき)することを、あらゆる生活の断片まで、秒刻体で描写することを志したのであるが、それを賢治は、日が輝き、あるいは月が照り、星が光り、花が咲き、草が萌え、風が吹くというふうに、エネルギーが交錯するところ、つまり山野を歩きまわりながら行った。その際賢治は紐のついたシャープペンシルを首から垂らして、ノートに電光石火の早わざでつぎからつぎへと書きとめた。野宿したときには焚火のあかりで、汽車の中では当時の暗い電灯の下で、憑かれたように刻々と描写した。主として外的世界の現象をいわば自然科学者が研究対象を観察して描写するように書き留めた。それが戸外でなくシャープペンシルも手帳もなくても、ほかの筆記用具で秒刻体で書き留めたであろうが、ただ人の目にとまらなかったのであろう。しかし戸外に出て賢治が生き返ったように筆記活動をしたのは、論者のいうように一つには稗貫郡一帯の地質調査でのフィールドワークの習性がそれをいっそううながしたのかもしれない。


 またくり返すことになるが、これまでの賢治の研究ではスケッチというのは、賢治が屋外に出て、山野を歩きまわりながら、外のもろもろのもの、つまり外象を、自然科学者が観察物の状態を細密に描写するように、何の修飾もなく、ノートに例のシャープペンシルで機関銃のような速さで書きつけたものを「スケッチ」と呼んでいた。しかしこれは秒刻みで、忠実に、細かく描写した密画のようなもので、スケッチではない。賢治もこれをスケッチとは呼ばなかったのではなかろうか。
 これに反して、心の中の現象、つまり、「心象」の方は内省によって直覚的に捉えて、これをスケッチした。しかしそのスケッチは、自分にはよく分かっても人には分からない場合があるので、元良心理学の方法、つまり比論、比喩によって描写する、ということになった。この場合は別に秒刻体を必要とはしなかった。これが賢治のいう「心象スケッチ」であると私は思う。もっとも、ここからここまでは外象の秒刻体描写、ここから先は「心象スケッチ」などとはっきり区別して詩を書くことなどはできないので、両方が混在しているのは当然のことであった。
 (『宮沢賢治とドイツ文学』P169-P170 植田敏郎)


 宮沢賢治の思想や「心象スケッチ」という形式の詩に、元良勇次郎とホルツというドイツ文学者が影響を与えたという本書の指摘は確からしく思われる。しかし、宮沢賢治という個の固有性が表現の世界に放ったものからすればそれらの影響は表層的だったような気がする。一方、法華経の場合の影響は宮沢賢治という個の固有性を宗教性として深く揺さぶっていたという意味では深層的なレベルまで影響を与えているように見える。

 このように人はこの世界を生きていく中で、誰もがこの世界に存在する他者や思想から様々な影響を受ける。また逆に、自分が知らない内にも他者に影響を与えてしまうことがある。そうして、それらの影響下でたとえ模倣がから入っていったとしても、それらは次第に自分の固有性と共振・共鳴して自分なりの色や匂いを放つようになる。したがって、作者によって表現された作品が全てだという見方もあるかもしれないが、固有の作者によって表現された作品を読み味わう上で、本書のように宮沢賢治をたどることは大きな助けとなるはずである。それがないと作品の読みを間違ったり読みが浅くなったりしがちだと思われる。

 作品は、時代性としての共通性を持ってはいるが、固有の作者がある固有のモチーフを込めて表現したものであるから、作品の固有性に出会うためにも作者についてよく知ることはその助けになるに違いない。そうして、他から受けた影響についても、それが作者にとって表層的か、中層的か、深層的かなどが吟味されなくてはならない。

 ところで、最後に付け加えておくと、早書きといえば、井原西鶴は若い頃俳句を1日に2万余句も詠んだということを読んだことがある。当時、そういう遊びのような部分もあったのだろう。ほんとうは、それぞれの作品に下って吟味してみるべきだが、一般的に言ってみると次のことが言えそうである。表現として見れば「秒刻体」のような宮沢賢治の早書きもこの井原西鶴の早詠みも、いくら修練を積んだとしても表現における落ち着いた集中という点から見て、表現的な時間が表出する心や精神にいい負荷を与えないような気がする。ただ、圧縮される表現的な時間のなかでよく考える余裕もない分、作者の無意識的な部分が込められるということはあるかもしれない。


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1498-1501

2021年02月21日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1498
日々自然に使いこなす
皿のよう
盛り付けられて言葉が行き交う



1499
悲しいことがうずく時
太古の叫びが
言葉の内側に無音で響いている



1500
楽しいことがある時は
言葉の内の
自然と転げていく微笑み坂



1501
ああ今日も日が差している
言葉の内側が
少しばかりあったかい

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1495-1497

2021年02月20日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1495
たぶん身も心も浸かっている
言葉モード下で
言葉の内側に入っていく



1496
ひとつひとつの言葉には
確かに
内側というものがありそうな感じがする



1497
一つの文字をじっと見ていると
ゆらゆらと
始まりの内側に誘い込まれていく