詩『言葉の街から』 世界はふるえるかシリーズ
113
〈世界〉の新しい通路
を通って
光りを浴びた言葉となる
114
モノローグばかりでなく
だれか
どこかに響かせている 言葉は
115
新しいひかりの舟に乗り
波立たせ
合う 会うよ ひかりのツイート
詩『言葉の街から』 世界はふるえるかシリーズ
113
〈世界〉の新しい通路
を通って
光りを浴びた言葉となる
114
モノローグばかりでなく
だれか
どこかに響かせている 言葉は
115
新しいひかりの舟に乗り
波立たせ
合う 会うよ ひかりのツイート
詩『言葉の街から』 世界はふるえるかシリーズ
110
ああ、〈世界〉に月が出ている
世界の縁を
叩いてみるさ 「チャンチキおけさ」
111
沈思黙考、〈世界〉は深い。
が、重力に
引かれひかれて、今ここに踊り出す。
112
ぼくらの知らないところで
ぼくらと世界
歩調合わせて歩んでいるよ
詩『言葉の街から』 世界はふるえるかシリーズ
107
赤ちゃんのはやる気持ちの
ばたばたと
あそこ、あそこへと舟を漕ぎ出す
108
遙か彼方生き物たちとの
つらい別れの
記憶か、足を引くものがある
109
おそらくは〈世界〉の姿
生き物の
影に合わせて現れている?
詩『言葉の街から』 世界はふるえるかシリーズ
104
生きた時間の空洞に
十分に
呼吸されて世界はある
105
〈世界〉を論じる時に
いっしょに
内に溶けた世界がふるえる
106
世界イメージの溶けた
破片の
舟に乗りぼくらは〈世界〉へ漕ぎ出すのさ
詩『言葉の街から』 世界はふるえるかシリーズ
101
世界の衣装がはらり
翻(ひるがえ)り
世界はメロスのようにはにかむか
102
感知できないほどの微動
する大地
から地震について考察する
103
世界と人は〈世界・人〉の
存在面、
思考面に乗り進んでいる
詩『言葉の街から』 世界はふるえるかシリーズ
97
作って並べて 買って
使って
使って使って使って また買って
98
目に見えないものも ふんわり売られ
買われて
神経網世界にネコを撫でている
99
タヌキの木の葉のお金たち
イメージ力に支えられ
光りながら疾走中
100
まぼろしのイメージの木々
枝葉にも
みどりの血流れ脈動する
問題の所在のためのメモ・続々
―分布や流れとしての〈現在〉
現在という地平には、時代の尖端部もあれば古い時代の名残もある。同様に、人の感性や考えも人の世代というものを介してそれらがその地平にまだらのように新旧が分布していると見なすことができる。したがって、人や人の世代を介して〈現在〉は新しい顔も古めかしい顔も様々な表情とともに社会の中に現象する。別の言い方をすれば、〈現在〉というものの広がりには、さまざまな新旧の時間性が分布している。
政治・経済、マスコミ、ファッション、芸能、スポーツなどなどが時代の尖端の方で社会に引力を行使する。政治は上からの規制力として権力の力線を伴って延びてくるし、マスコミは政治と同じく国民に仕えることを本質となし得てないから、この国の歴史的な古い権力感性―― 一昔前よりはずいぶんフラット化してきてはいる ――を自然性のように発揮して、ある作為や誘導などの力線をもって社会に浮上してくる。
それらの象徴的でわかりやすい形式は、日々洪水のように押し寄せてくるコマーシャルである。どこかトゲを隠し持つ政治・経済やマスコミと違って、よりソフトで自然のようにわたしたちに感じられる形式でやって来る。しかし、その本質から、商品を買わせるという「ある作為や誘導などの力線」がなくなることはあり得ない。それはコマーシャルの死だからである。
そういう時代の尖端の方からやって来るものに引きずられるようにわたしたちの日常的な生活世界はあるように見る者もいるかもしれないが、――特にそれぞれの業界人や業界関係者たちはそう見なしているかもしれない――それは違うように思われる。それらを超えたところで、わたしたち人間の人間的本質が織りなす歴史の主流とも言うべきものが、無意識のようにして〈現在〉というものを、その尖端から後背地に渡って深みで駆動しているように思う。
その歴史の主流に関わる大多数の人々の感性や意識模様の現在的な状況は、戦後70数年を経て産業社会の高度化と対応しながらもずいぶん様変わりしている。
今では先の戦争時代を体験した世代、すなわち1945年(昭和20年)以前に生まれた世代は、歯が抜けていくようにだんだん亡くなっている。あることを実際にその渦中で直接体験したのと間接的に知識として学んだ体験とでは大きな違いがある。前者は肌感覚レベルの理解・実感があるが、後者は知識や概念としての理解に過ぎない。そうして、このような違いが存在することはいかんともし難いことである。このような直接経験と間接経験との違いが、どのような事態を引き起こすことがあり得るかを示すできごとがある。
まず津波は地震があってから数分から数十分しないと来襲してこないものだということが分かっていれば、あわてふためかないでの人たちは充分に退避できるのである。それには古老の経験にもとづく知恵が大きくものをいった。たとえば明治二十九年、昭和八年の再度全滅した姉吉(宮古市)と鵜住居村両石(釜石市)で比較してみると、昭和八年の死者は両石では二、三名にすぎないのに、姉吉では救われた人がわずか二、三名であったのでもよくわかる。この生命災害の差は、両石には明治二十九年の津波を経験した古老がなお数人いて、その退避指導にあたったこと、姉吉は明治二十九年に全部死亡し、津波の体験者が皆無で、二十九年の津波当時の無知識ぶりをふたたび発揮しているのである。また被害を受けた低地の集落を高地に移住すれば、当然新しい災害を避けられるはずであったが、それを現実に実行するにははなはだしい困難をともない、したがって再度大きな被害をうけた場合が少なくなかった。
(『日本残酷物語 4 ―保障なき社会』P209 平凡社ライブラリー)
姉吉と両石の二度目の昭和八年の津波被害の大差が、前回の明治二十九年の津波経験者の存在の有無だったと述べている。明治二十九年に全部死亡した姉吉に住む人々(引用者註.その後他所から移り住んだか)も津波が来たらどうしなければならないとかは知識では耳にしていたかもしれない。しかし、経験があるかないかは、これほどの違いをもたらすのである。このことは、戦争をどう感じ考えるかという場合のその現実的な判断、すなわちきちんと捉えるか、空想的に捉えるかの判断においても同様なはずである。そういう中で、わたし自身を振り返ってみれば、経験あり経験なしの世代が、家族の中や学校や職場やその他の小社会で話などを通して相互交通する中で、直接経験・間接経験の間の溝が、個別的にほんの少しは埋められてきたのかもしれない。
後から振り返って内省すれば、このようにわたしたちの先人の〈現在〉は、幾多の悲劇をくり返しながら歴史の流れの波をなんとか潜り抜けようとしてきたのだろう。本書は、明治、大正、昭和の敗戦までの政治、経済、文化の表舞台とはほとんど関わりなく、しかしそれらの諸政策に翻弄されつつ生きる、一般の民衆やさらにその下層民の〈現在〉をたどっている。わたしたちの現在を照らす上で一読の価値がある本だと思う。現在と違って、まだ貧しさ自体が中心主題の時代であった。もちろん、貧しさ自体からいくぶん解放されたといっても、わたしたちの〈現在〉も先人の〈現在〉とその本質はなんら変わらない。
しかし、現在から見て100年後、1000年、数万年後となると、事情はさらに違ってくる。現代では昔と違って膨大な情報が記録として残せる時代になったとしても、この〈現在〉も、時間の海に埋もれてしまって過去となってしまうはずである。このような時間や歴史の海の中の〈現在〉の本質に変わりはないはずである。わたしたちは、現在のところ100年に近い生涯の中で、自身の直接経験の過去とさらに深い人類の過去ともいうべきものを無意識的に呼吸しながら現在を日々生きている。
何が問題なんだろうか。おそらくわたしたちは、〈現在〉というものの構造を意識しそれをよりクリアーに明らかにすることを現在の世界の方から促されているのだと思う。 (終わり)
詩『言葉の街から』 世界はふるえるかシリーズ
94
背びれが少し見えたから
〈魚だ!〉
とは限らないもやに霞む世界
95
色んな魚の思想や
魚たちの
物語があふれている現在
96
少なくとも何かが動き
進行している
ことは確からしい いつもの朝の大気
詩『言葉の街から』 世界はふるえるかシリーズ
91
使い切りの空き瓶を
振っても
ふっても 出て来るものはある
92
黄金でも失望でもない
何かが
滲みでているいつもの朝に
93
計測も計量も
できない
何か ほら 水中を泳いでいるぞ