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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

短歌味体Ⅲ 3236-3238 「、」「。」シリーズ・続

2019年04月30日 | 短歌味体Ⅲ-5
[短歌味体 Ⅲ] 「、」「。」シリーズ・続


3236
善も悪も大文字だから
仕舞いには
小文字たち蹴散らし上っていく。



3237
善悪の麓では、ほら、
どれ着ていこうか、
行ったり来たりしてやっと決まる。



3238
着慣れてるカジュアルな
ふだん着も、
どれも違うなあ、迷う日がある。

短歌味体Ⅲ 3234-3235 「、」「。」シリーズ・続

2019年04月29日 | 短歌味体Ⅲ-5
[短歌味体 Ⅲ] 「、」「。」シリーズ・続



3234
Just an Artist 。JUST POET 。
いろいろある。
聞かれなくても、ぼくは、ただのひとさ。
 
註.前者は、Sputniko!さんの「Just an Artist ただのアーティスト」より。後者は、宮尾節子さんの「JUST POET」より。



3235
言葉は、近寄り誘う、
手、手、手、手、
振り切ってみよちゃんにダイブする時がある。

子どもでもわかる世界論 Q&A Q27

2019年04月28日 | 子どもでもわかる世界論 Q&A
子どもでもわかる世界論 Q&A Q27

Q27 遙か昔のことを想像したり考えたりする場合に、注意することがありますか。

A27

 それはひと言で言えば、現在からできるだけ手ぶらで遙か昔に出かけていくことです。それは、実行することはとても難しいことですが、わたしたちの視線にくっついて来る無意識的に身につけて自然な感じになっているものの感じ方や考え方をできるだけ脱ぎ捨てることです。そうすれば、次のような現在とは違う状況に出会うことができます。


梅原 『詩経』というのは全部歌ったのですね、楽譜があった訳ですね。
白川 そうそう。
梅原 楽譜はあったんですけど、言葉だけ残ったということになりますね。


白川 孔子の時代にはね、『詩経』という形のものはないんです。楽師伝承の時代であった。
梅原 ああ、そうですか。歌を伴って伝わっていた。
白川 そういう風にして楽師が伝承しておる。前にも申しましたが、孔子も弟子に教える時にね、「詩に曰く」(引用者註.「詩に次のように書いてある」の意味)として教えることは絶対ないんです。孔子の弟子たちになるとね、「詩に曰く」というて『詩』を引用しとる。だからこれはもう文献時代に入る。
 (『呪の思想―神と人との間』梅原猛・白川静 P221ーP222)



 この後の部分で、孔子は『詩経』の詩を歌っていたということが、示されています。『詩経』は、古代中国の詩を集めたものですが、孔子以後のその弟子たちの頃やわたしたちの現在では、漢字ばっかりで書かれている詩になってしまっています。だから、わたしたちが日本語訳された『詩経』の詩を読むときには、それが孔子の頃にはまだ歌われていたということはなかなか想像できるものではありません。

 このようなことは、わが国の和歌(明治以降「短歌」と呼ばれます)についてもあります。現在では、短歌は、声に出さずに黙って作ったり、黙読したりということが主流になっています。しかし、平安時代にはよく「歌合(うたあわせ)」が催されています。『ウィキペディア(Wikipedia)』の「歌合」によると、「講師(こうじ)」として、「歌合の場で歌を読み上げる役。読み上げることを披講(ひこう)という。披講は左方を先に行う。平安時代は左右それぞれにいたが、のちに一人となった。現代では特に置かないことが多い。」という説明があります。当時は、少なくとも「歌合」では和歌は声に出して読まれていたようです。これはおそらく、古代になって文字が普及しても、それ以前の話し言葉だけの時代の名残として歌(和歌)を声に出して歌う(読む)ということから来ているように思われます。

 また、江戸時代(幕末)ですが、1811年、日本(松前藩)の役人に捕えられたロシア海軍のディアナ号艦長ゴロウニンの『日本俘虜実記』( 講談社学術文庫)に次のような描写があります。


* 日本人は殊の外読書を好む。平の兵卒さえも、見張りのときもほとんど休みなしに本を読んでいる。しかし彼らの読み方はいつも、歌うように声を伸ばして音読し、我が国で葬式のとき、聖書の中の詩編を唱えるのに似ているので、大変に耳障りで不愉快であった。慣れないうちは夜も眠れないことがあった。日本人が好んで読む物は、およそは日本の歴史物か、近隣の諸国との紛争や戦争を扱ったものである。これはみな日本で印刷したものである。日本ではまだ印刷に鉛活字を使うことを知らず、堅い木の板に著作を彫るのである。
 (『日本俘虜実記 下』P17)


* 日本人は文字を書くのに二種類の書法を使う。一つはシナの書法で、それはあらゆる言葉が個々別々の文字で表される。日本人の話ではこの文字は、およそ千年以前にシナから摂取したものである。したがって物の名称はシナと日本では、発音は全然違っても同じ文字を使って書く。この書法は、程度の高い著述や公文書や、その他一般に上流階級の書簡の中に使われる。も一つの書法は日本のアルファベットによるもので、日本には四十八文字あって、平民はこの文字を使って書く。日本ではどんな身分の低い者でも、この文字を使ってものが書けない者はいない。だから我が水兵四人のうち誰も文字が書ける者がいないと知ると大変に驚いたのであった。
 (『日本俘虜実記 上』P121)



 この兵卒の音読する読書ということは、藩校などの音読教育から来ているものと思われます。しかし、それはさらにどこから来たかと想像すれば、断定はできませんがおそらく古代以前の書き言葉のなかった時代の声に出すということにつながっているような気がします。また、古代以降漢字仮名交じり文が普及してもそれは知識層が中心であり、普通の民衆は、歌でも物語でも声に出すということを長らく続けていたように思います。また、ゴロウニンの証言によると、少なくとも幕末頃には民衆はひらがなの文字を使って文章を書いていたようです。わたしは次のような文章を見たことがありますが、幕末から明治にかけては、知識層は漢字カタカナ交じり文も書いていたようです。なお、上の「四十八文字」とあるのは、「いろは歌」にあるひらがなで、現在では「五十音」が使われています。

 この問題を、「現在の遙か遠くのことを想像したり考えたりする場合に、注意すること」と見ることもできます。現在において、遠く離れた風俗や習慣も違う外国の人のものの感じ方や考え方を理解しようとする場合や、あるいはこの同じ列島社会に住んでいても違った家族の中で育ってきた他者を理解しようとする場合にも同様のことが言えますね。良いことでも、あるいは事件や戦争などの悪いことでも、すぐに判断を下すのではなく、その前に相手を慎重に調べてみることが大切です。


短歌味体Ⅲ 3231-3233 「、」「。」シリーズ・続

2019年04月28日 | 短歌味体Ⅲ-5
[短歌味体 Ⅲ] 「、」「。」シリーズ・続



3231
郷ひろみの A CHI CHI A CHI、
歌を越え、
あっちち峠にさしかかっている。



3232
あっちいな、あっちいぜ。
たどり着く。
あっちち峠の小石を蹴ってみた。



3233
気分はまりあまらりか、
段ボール!
草スキーですずんと下る。

短歌味体Ⅲ 3225-3227 「、」「。」シリーズ・続

2019年04月26日 | 短歌味体Ⅲ-5
[短歌味体 Ⅲ] 「、」「。」シリーズ・続



3225
こんがらがった糸の中。
糸、いと、いと、
糸糸糸、いとおー。 切るか。



3226
おんなじ糸なのに、ここ糸、
そこ糸、
あそこ糸、じっとり絡み合い。 切るぞ!



3227
糸民の実感線を
歩く歩く。
まぼろしの電車はまだ来ないぞ。 まだ。

作品を読む ⑨ (加藤治郎)

2019年04月25日 | 作品を読む
 作品を読む ⑨ (加藤治郎)


 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。


 表現の世界に入り込まない普通の生活者でも、ふと自分の子ども時代やその家族を振り返ることはあるだろう。そのような過去には、客観的な視線では数え切れないほどたくさんの場面があるはずだとなるが、記憶の海からよく引き揚げられるものとそうでないものとがあり、引き揚げられてくるものはそんなに多くないように感じられる。よく想起されものは、記憶の海からなぜかよく引き揚げられるものであるが、それにはその人の「太洋期」(吉本隆明『母型論』)辺りに始まる心性の固有性の有り様が大きく関わっているように思われる。他人にも自身にも、意識的・無意識的なものが関わるその場面の微妙を伴う総量はよくわからない。また、そのような人間的な心的な機構については現在でも依然としてよくわかってはいない。

 表現者の場合には、普通の人々がふと自分の過去を想起したり、振り返ってみたりする自然性とは少し違っている。作者は、自らの想起する自然性を含めて、表現の場に或るモチーフを携えて意識的に内省的にイメージを構成することになる。もちろん、そこにも作者の無意識的な部分も存在する。

 おそらく少年期や青年期やその頃の家族を対象としたと思われる作品を任意に取り出してみる。


85.父の音妹の音思い居り蜜柑の霧につつまれて寝る 加藤治郎『ハレアカラ』

86.弟は鏡の裏の錆をいうそれはわたしのとおい砂浜  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

87.ママの肩にタオルがのせてあることの悲しくて去る昼の美容院 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

88.くらがりに下着をたたむいもうとをみまもるわれはかなしかりけり 加藤治郎『しんきろう』

89.ひるさがり天道虫を手首から腕に這わせて妹は眠る 加藤治郎『ハレアカラ』

90.てのひらの花びらを吹くいもうとよおろかな恋におちてわたしは  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

91.きりんさんしゃんぷうかして はいはあい電球いろのいもうとの足 加藤治郎『マイ・ロマンサー』

92.みのむしのふかるる昼はねむたくてぼくらダンボールの聖堂にいる 加藤治郎『しんきろう』

93.父とわれ食券それぞれ握ってたビーフカレーのとろけるビーフ 加藤治郎『しんきろう』

94.人生に夜明けがあれば小学校野球部入部テストの暴投 加藤治郎『ハレアカラ』


95.人形のお腹を裂けば(おにいちゃんったら)地下鉄の路線図みたい 加藤治郎『環状線のモンスター』

96.王冠のビールの匂い嗅いでいたあの夏の午後少年だった 加藤治郎『しんきろう』

97.おひるねのうさぎの顔を先生がまたいでゆくぜ ぼくらの薄目 加藤治郎『マイ・ロマンサー』

98.シーソーの上がったままのいもうとを見つめてぼくはゆうばえのなか 加藤治郎『しんきろう』



 人が詩(短歌)を作る場合、表現世界に向かう〈作者〉に変身して、具体的には物語で言えば〈語り手〉や〈登場人物〉のように〈私〉あるいは〈彼(彼女)〉が表現の舞台上を走行する。〈作者〉は、それを書き留める者でもあるが、その舞台を背後で監督のように眺める者でもある。物語の場合、作者のモチーフを担うのは、作品世界全体ではあるが、主要には〈語り手〉に導かれた〈登場人物〉の中の主人公である。詩の場合は、作者のモチーフを担うのは、物語の〈語り手〉と〈登場人物〉が二重化した〈私〉の振る舞いにおいてと言えそうである。〈作者〉と作者が表現の舞台に派遣する〈私〉とは同じと見なしてもよさそうだが、実際は〈私〉は、私小説的な〈私〉をも含む想像によって仮構された〈私〉である。また、例えば、作者はそのひとつひとつの作品群の歴史をも担いそれらに責任を持つ者であるが、〈私〉はある表現の舞台における一回性の存在である。こういう意味でも〈作者〉と作者が表現の舞台に派遣する〈私〉とは区別すべきだと思われる。

 この少年期・青年期やその頃の家族を対象とした作品には、大まかに三種類に分けられるように見える。ひとつは、子ども時代に遡行した〈私〉がその過去の時空に入り込んで見聞きしたことや行動したこと自体の表現(85、87、88、89、90、91、95、98)。ふたつ目は、前者のようでありつつ、そこに〈私〉の現在の視線や考えが介入している表現(92「みのむしのふかるる昼は」、94「人生に夜明けがあれば」、97「(またいで)ゆくぜ」)。最後は、現在の〈私〉が過去を回想的に表現したもの(86、93,96)。

 93は、ひとつ目に入れてもよさそうだとか、はっきりと分け難いのもあるが、これは、作者の表現の手法を示すもので、別に大きな意味はない。しかし、これらはわたしたちが自身の過去を対象化する場合のやり方でもある。

 いずれにしても、表現の世界を志向したとき、現在の〈作者〉の意識的、無意識的なモチーフが、過去の時空へ行って帰ってきて、これらの言葉を引き寄せ、連結し、かたち成さしめたという点では同一である。

 ここに描かれている場面は、日常の中のささいな場面である。なぜそれが読者の感動を呼び起こすのだろうか。無数に言葉が消費されている現代では、風景と同じように言葉を眺めていたら、感興もなくそのまま通り過ぎてしまいそうである。自分自身の言葉の場合を含めて、言葉も眺められる外皮は、月並みな乾いたものに見えるかもしれない。現在は、心と同じく言葉も疲弊している。正しくは、疲弊した外界の精神的な大気に浸かった心は、つい疲弊した言葉の風景を引き寄せると言うべきか。それでも人は、みどりやひかりを求めようとする。

 そうした時、作品の言葉との出会いは、なにものかを起動させる。誰もが同じような少年期や家族を経験して現在がある。その「同じような」ということが、作品の言葉によって読者の過去を喚起させ、作品のイメージ世界にダイブさせる。そうして、ある場合には苦を伴いつつも、生きてきた、生きているということに柔らかなライトが当たる。それが言葉に言い表しがたい無量の思いをわたしたちに湧き上がらせるのだろうと思う。作品との出会いは、同時に自分との出会いにもなっている。

[短歌味体 Ⅲ] 戯れ詩・番外

2019年04月25日 | 短歌味体Ⅲ-5
[短歌味体 Ⅲ] 戯れ詩・番外



「小さな声を、聴く力。」(うーん、
耳垢たまりたまって
小さな声、よく聞こえてないみたいだな。)



コピーライターと本体との
間に溝、
溝溝溝、溝に濁り水の流れ。



大きな声には頼らない
ぼくら
小さな声、そのものとして立つ。
 
全体の註.「小さな声を、聴く力。公明党」というスローガンを拾って。

[短歌味体 Ⅲ] 戯れ詩・番外

2019年04月25日 | 短歌味体Ⅲ-5
[短歌味体 Ⅲ] 戯れ詩・番外


「小さな声を、聴く力。」(うーん、
耳垢たまりたまって
小さな声、よく聞こえてないみたいだな。)


コピーライターと本体との
間に溝、
溝溝溝、溝に濁り水の流れ。


大きな声には頼らない
ぼくら
小さな声、そのものとして立つ。

全体の註.「小さな声を、聴く力。公明党」というスローガンを拾って。