回覧板

ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1310-1313

2020年12月31日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1310
閉じた窓の熱ある二人の
小さな世界も
巨大飛行船の振動に微動している



1311
人や世界の曲率を
振り切って
対立・抗争・疾走することはできる



1312
振り切っても振り切っても
この世界の
固有の曲率は突き進んでいく



1313
したがってあなたやわたしのドラマには
見えない所で
この世界がざっくりと交差している

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1306-1309

2020年12月30日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1306
今日新しい言葉を拾った
「キス・アンド・クライ(Kiss and Cry)」
女の幸不幸かと思った



1307
何度もやり取りして
覚えたての言葉
に湯気が立つ アーちゃんよ



1308
仕入れた記憶は遠くアイマイなのに
あらあら
みんなが言葉人間になってるよ



1309
ひとつひとつのキス・アンド・クライの不安
を超えて
人間界も大いなる自然界もただ無言で光り点っている

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1302-1305

2020年12月29日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1302
全体から見て人のせい
にもできない
自分のせいにもできない うっ



1303
溶け合って分離できない
沼地に住む
われらは切るに切られぬ絆人



1304
小さなもやもやの
上の方
世界がそびえ立っている



1305
宇宙の方にも
飛んでいく
このもやもやもやの泡


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1298-1301

2020年12月28日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1298
人は人間の囲いのなかで
生きていく
ようになってしまったしまった



1299
閉まってしまったからには
良い呼吸
できる空気と風とが社会には必要だ



1300
囲いのなか不幸なネコも人も
凍える夢に
遠い危うい野生の自由を夢見ているか



1301
遥か遠く歩み始めた
分かれ道
(もう戻れないわ)(戻れないね) 

メモ2020.12.27 ― ヘーゲル『世界史の哲学講義』より

2020年12月27日 | メモ
 メモ2020.12.27 ― ヘーゲル『世界史の哲学講義』より


  動物性や自然性に対するヘーゲルの捉え方について
 
 『世界史の哲学講義』で、ヘーゲルが動物性と人間性をどう考えているかを抜き書きしてみる。このことは、ヘーゲルの歴史哲学の根幹の場所に関わっているように感じられる。また、ボッブスやルソーなどの「人間の自然状態」に対する考察にはここでは触れないけれど、そのような当時のヨーロッパの動物・自然・人間に対する観念や思想の時代性のようなもの、それらの歴史的な段階のようなものが、ヘーゲル含めてそこに生きた人々の自然性や無意識的なものとして背景にありそうに思われる。

 ヘーゲルのこの文章を読みたどっていると、ヘーゲルにも当時の〈現在〉にまで上り詰めてきた人間の歴史の頂から、人類の歴史を自らの方法で捉え尽くすことができる、捉え尽くしているという思いがあったように見える。しかし、現在と比べて太古の時代を想像してみればわかるように、わたしたちの現在同様に太古には太古の世界認識やものごとの了解があったし、この世界についてまだよくわかってなかったことがあったとしても、それなりの世界把握が成されているという思いがあったはずである。

 わたしたちの現在からは、自然も人類の歴史も、すなわちこの世界の総体を現在から捉え尽くすことはできない、という認識は自然なものだろうと思える。ということは、わたしたちは現在の人類の段階としてそこから見えるものや見えないものを把握できるだけではないか。人間は、そういうことを積み重ねていくほかないのではないか。このように世界は見える。ともかく、この世界の有り様や人間の認識は、人類の歴史の深さを持ち、その歴史の深さとともにこの世界は違った姿を見せるのではないだろうか。

 ヘーゲルが時代の段階の無意識的なものに押し出されるようにして書き留めた動物性と人間性についていくつか取り出してみる。


 〔精神の発展としての歴史〕
 さて、精神という概念の、より具体的な〔歴史の〕連続に入っていくことにしよう。これが、われわれの対象として関心のあるところである。
 この連続の最初は、歴史の始まりに関係している。歴史の始まりは一般に自然状態として、つまり無垢の状態として描かれるのが常である。精神についてのわれわれの概念からすると、精神の最初の直接的で自然な状態は、不自由の状態、すなわち精神そのものがまだ現実的になっていない欲望の状態である。[一つの]そのような状態についてよく作為されるのは、空虚な理想であり、「自然」のもとにしばしば事柄の概念や本質が理解される時の、「自然」という言葉についての誤解である。その際に自然状態ということで理解されているのは、人間の概念に従って人間に帰属すべき自由の自然権であり、また精神の概念に従って人間に帰属する自由ということである。しかし、人間が生まれつきもっているものを見るなら、「自然状態から出発した」(スピノザ)と言えるだけである。これは不自由と感性の状態である。しかし、それによって精神が自然な状態にあることを取り違えるなら、それは間違い[である]。というのも、精神は自然状態のうちにとどまるはずもなく、そこではそれが感性的な欲求や欲望の自然状態だからである。自らの感性的な現存の形式を止揚することによって存在し、そしてそのことによって自らを自由なものとして据えることこそが、精神の概念なのである。
 (『世界史の哲学講義 上』P58-P59「序論 世界史の概念」B人間的自由の理念)



 ここからつなぎ合わせるようにしてヘーゲルの言葉を取り出すと、
 「精神についてのわれわれの概念からすると、精神の最初の直接的で自然な状態は、不自由の状態、すなわち精神そのものがまだ現実的になっていない欲望の状態である。」「精神は自然状態のうちにとどまるはずもなく、そこではそれが感性的な欲求や欲望の自然状態だからである。自らの感性的な現存の形式を止揚することによって存在し、そしてそのことによって自らを自由なものとして据えることこそが、精神の概念なのである。」
となる。ヘーゲルは、否定性の運動性を内蔵した精神という概念を中心に据えている。これをわたしたちの現在に置き換えてみる。ヘーゲルの人間の歴史の推移に関する言葉、すなわち「不自由と感性の状態」から抜け出て自立的な精神の概念を獲得していくことに人間的な価値のようなものを置いている言葉は、――ヘーゲル自身は「価値」とかではなく人間の歴史の運動の必然と見ているのかもしれないが――人間の生涯との対応で言えば青年期から壮年期に対応している。もちろん、ヘーゲルの歴史哲学は乳胎児期や少年期に対応する自然にまみれた生活をしていたアフリカ的な段階や少年期から青年期に対応するアジア的な段階にも触れている。しかし、それらは精神の概念からは抜け出すべき否定性と見なされている。どうしても、ギリシャに始まる精神の有り様に価値やアクセントが置かれているように見える。

 つまり、ヘーゲルの歴史哲学は人間の生涯との対応で言えば青年期から壮年期に価値とアクセントを置いている。乳胎児期や少年期や老年期は否定性として見られているようなのだ。具体像として言えば、人間社会で働き盛りの青年期から壮年期に価値とアクセントが置かれていて、乳胎児や少年や老年や心身の障害を抱えた人々などは、正の人間的価値とアクセントを置かれていないということを意味する。


 人間的なものは、動物の愚鈍さから発達することはできなかったけれども、人間の愚鈍さからは発達することができた。しかし、自然的な状態から始めるとすると、これは動物的な人間性であって、動物性でもないし、動物の愚鈍さでもない。動物的な人間性とは、動物性とは何かまったく異なるものである。精神は動物から発達するのでも、動物から始まるのでもなく、精神から始まるのである。精神からとはいっても、しかし、その精神はようやく自体的であるにすぎず、自然的な精神である。その精神は、すでに動物的なものではなく、人間の性質が刻印されたような精神である。それで、理性的になるという子供の可能性は、発達した動物ともまったく何か異なるものであるし、ずっとより高次のものである。動物には自分自身を意識するようになる可能性がない。[確かに]子供に理性性があるとみなすことはできない。しかし、子供の最初の泣き声は、すでにして動物の鳴き声とは異なっていて、そこにはもうすでに人間的な特徴がある。子供の単純な運動のうちに、すでに何か人間的なものがあるのである。
 (『世界史の哲学講義 上』P61「序論 世界史の概念」B人間的自由の理念)



 現在までの知見を踏まえて、生命の発生から動物に至る過程は問わずに動物段階から振り返ってみると、動物から人間に至る過程には、次の過程が考えられる。

1.動物段階・・・(対応するヘーゲルの言葉)「動物性」
2.動物から人間として分離されていく段階・・・「動物的な人間性」、「萌芽としての精神」
3.動物と人間として区別される段階・・・「精神」

 ヘーゲルがここで問うているのは、2.以降の段階においてである。1.の段階はヘーゲルのここでの問いには含まれていない。

 ヘーゲルが述べていることは、2.から3.の段階のものと見なせば、正しいと言えるかもしれない。ヘーゲルの時代と現在とでは乳胎児期や老年期に関する知見の相違があることは差し置いても、ヘーゲルの言葉は1.や1.以前と3.以降、特にわたしたちの現在のように、個の存在や意識が先鋭化し割りと内閉的になってきている人間的状況は含まれていない。つまり、ヘーゲルの言葉が上に挙げた人間以前から人間的段階に渡るすべてに当てはまると考えてみると、ヘーゲルの述べていることは現実からの乖離に遭うと思われる。このことは、いつの時代でも避けられぬ時代性というものの壁であるのかもしれない。

 ともかく、わかりやすい対応でもう一度締めくくると、ヘーゲルの言葉は、この人間社会の表舞台で一番活動的な時期である、人間の生涯の内の青年期から壮年期に言葉の視線を向けている。そうして、その部分を人間の生涯に渡る言葉として、すなわち歴史のなかのすべての人間の有り様の抽象として述べているということになる。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1292-1294

2020年12月26日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1292
例えばそこに行かなかった
行けなかった
行こうと思いはしたが行かなかった



1293
〈行かなかった〉は事実である
あるあるある
複雑系のかなしいアルルカン



1294
事実が冷たく横たわっている
と見えるかもしれない
ほんとは事実は心と同じにもやもやしている

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1288-1291

2020年12月25日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1288
ふと 深い井戸へ舞い落ちていく
恨みの皿の
こなごなに割れる音がする



1289
今はもう(いちまぁい、にまぁい、さんまぁい・・・)の
つぶやきしずめ
抽象の階段を上ってゆく



1290
ああ こんなにも
空が青い
言葉が目に滲(し)みる



1291
言葉の滴が滲みてくる
心は
しいんとした大空に響き渡るものを聞いている

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1282-1284

2020年12月23日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1282
小石をそうっと置いてみた
と 流れ出す
微かに新しい世界の匂いがする



1283
傍目から大石を抱え
移し積む
イメージの道には立ち入らない



1284
小石の中にあらゆるいしが
詰まっている
いしを超えたいしがある