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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 760-763

2020年07月31日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



760
滴り来るずしりの言葉に
薄い膜が
掛かっている 隔靴掻痒



761
「悲しいな・・・」そうなんだ
(木々も葉も
グレーに沈んで川も澱んでるね)



762
「これはボクのヒコーキ びゅーん!」
ふうん
(にぎやかに楽隊が進んでいくね)



763
「昨日ぼくが出会ったのは・・・」
(ちっちゃい
頃のさびしい自分だったね)

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 756-759

2020年07月30日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



756
ぼくはぼくできみはきみさ
二人の
間の路に違う曲が流れている



757
ぼくは楠の木の葉
きみは椎の木の葉
ともに葉は大気に揺れている



758
葉脈の道を抜けて
ぼくはきみ
の葉裏の道を歩いている



759
日差しの降り注ぐ下
同じような
日の匂いがする葉脈の道

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 753-755

2020年07月29日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



753
互いに大声になってしまう
は自然として
渦中のきみは (どうしようか)



754
言葉の石でも人に投げれば
血が出る
誰もが罪人(つみびと)に変身する



755
石投げを強要されたきみは
一歩抜け出て
(水切りの跳ねゆく姿をイメージしているばかり)

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 749-752

2020年07月28日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



749
肉を炒めているとき
(ごめんね)
ふと沈黙の内につぶやくことがある



750
はるばるオーストラリアから来てる
(肉になってしまって)
それより先は追えない 静まりの死



751
(かわいそう)とか(むごい)とか
思い始めた人間は
今日も肉を食べる矛盾を生きる



752
大声で議論するにはビミョウで
2万年後の
スタートレックの世界を静かに待つしかないか

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 746-748

2020年07月27日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



746
ヘーゲルの言葉は固い
チャイナマーブルみたい
でも頬張れば人間精神の抽象の味がする


747
人倫と情愛の家族(註.)のヘーゲルも
子どもやネコを
劣る自然性と感じたのかどうか

註.ヘーゲル の『精神現象学』に触れた吉本さんの考察より
 (『共同幻想論』「対幻想論」P394-P395『吉本隆明全集10』晶文社)


748
海向こうとこちらと
グローバルな波の下
ヘーゲルの言葉の海は深い

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 742-745

2020年07月26日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



742
一年半ほど前に買った
ヘーゲルの『世界史の哲学講義 上』
をやっと読みはじめている



743
おそらくは精神の運動性と
言葉のみ
を頼りに人間と世界史の線分を抽出する



744
例えば山々と平地の中に間に人々の織り成す
無数の線分
共通の影が論理へ構成される



745
不慣れな固い言葉の建築群の道を
うつらうつら
ヘーゲルの人間理解を測りながら歩いている

覚書2020.7.24―本を読んで気になったこと二つ

2020年07月24日 | 覚書
 覚書2020.7.24―本を読んで気になったこと二つ



 多和田葉子の『献灯使』(2017.8.9 講談社文庫)を読んだ。作品そのものは、あんまりおもしろくなかった。作者は意識的にだろうが、何が起こったのかと読者が焦れったく不審に思うほど、大地震や汚染の描写が断片的であいまいにぼかしてある。その大災厄後の列島社会は、今までの生活様式が破壊され自由な行き来もできないようになり、廃墟の中の生活みたいな退行的な生活ぶりの描写に、そんなことはあり得ないだろうと思いながら読んだ。

 しかし、作品を読んでいて気になったことが二つある。一つは、

1.人間にはどのように時間は保存され、また発動するか。

 義郎は、玄関で靴を脱ごうとしてよろけて片手を白木の柱につき、木目を指頭に感じた。樹木の体内には年月が波紋になって残るが、自分の身体の中に時間は一体どんな風に保存されているのだろう。年輪になって波紋を広げていくこともなく、一直線上に並ぶこともなく、もしかしたら整理したことのない引き出しの中のように雑然とたまっているのではないか。そう思ったところで再びよろけて左足を床についた。
「どうもまだ片脚で立つ能力が不足しているな」
 と独り言を漏らすと、それを聞いて無名が目を細め、鼻を少し持ち上げて、
「曾(ひい)おじいちゃん、鶴になりたいの」
 と尋ねた。声を出した途端、風船のように揺れていた無名の首が背骨の延長線上にぴたっと定まり、眼もとには甘酸っぱい茶目っ気が宿った。
 (『献灯使』P11-P12 多和田葉子 講談社文庫 2017年8月)



 わたしが時々思い起こすこと。人間にはどのように時間は保存され、また発動するかということ。この場合の時間には、個の過去の時間と人類史の時間との二種類がある。そうして、それらは相互にどんな関係にあるのか。「樹木の体内には年月が波紋になって残るが、自分の身体の中に時間は一体どんな風に保存されているのだろう。」を読んでまた思い起こしてしまった。

 難しい問題であるが、わかっていることもある。日本社会が近代を上り詰めて、人々の中で旧来のものや感性や秩序との軋轢が深まってくると、古い時代が慰藉のように呼び寄せられる。それは先の戦争期に全社会的に開花したと言えるだろう。つまり、危機に陥ると太古の古い感性への退行が、個のレベルや社会的レベルで発動されることがあるということである。

 よくわからない点として、記憶として呼び寄せられるほかないように見える個の時間や人類史の太古からの時間が、わたしたちの内面に保存されているのは確かであるが、それは地層のように層を成して保存されているのか、それとも、現在のわたしたちの意識が呼び寄せるものに接続されて登場するのか。あるいはまた、記憶として呼び寄せられる他に、時間の旧と新とがわたしたちの心身にシームレスに接合されて存在しているのか、今のところよくわからないとしか言いようがない。

 これに関わることに今日ひとつであったので付け加えておく。


今日は、その後、J-waveのラジオにリモート出演をするので、一度、チェックをした。出演が午後3時で普段であればアトリエにいる時間なので、その前にパステルの絵を描こうと思って、早めにアトリエへ。やはり日課が一番大事である。イレギュラーなことが起きる時は、最初に日課を早めにやっておく。そうすることで、揺れ動きやすい精神が、ある程度おさまってくれる。ラジオ出演するくらい、別に気にすることじゃないだろうとも思うが、でも、その大小の問題ではなくて、揺れ動くということ自体に対して、まだ警戒心がないわけではないということなんだろう。別に気にしなければいい。はっきりいうと、日課なんてなくてもいい。小学生の僕はそう言う。なるほど、次はそういう状態を目指してもいいかもしれない。もう何にも気にせずにその瞬間瞬間にやりたいと思ったことをそのままやる方法に。まだまだ先は長いと思うが、それもまた面白そうだ。でも、今はまだ修行の身、精神状態は今までにないくらい相当安定しているが、用心はしておこうということで、僕はやっぱり日課である絵を描くことをはじめた。なんといっても、絵を描きたいからだ。
 (坂口恭平「土になる」第2部(14) 2020/07/24 )
 ※現在、ネットの「note」に毎日連載中。



 「やはり日課が一番大事である。イレギュラーなことが起きる時は、最初に日課を早めにやっておく。そうすることで、揺れ動きやすい精神が、ある程度おさまってくれる。」という判断と行動は、〈僕〉の現在的な判断と行動である。「ラジオ出演するくらい、別に気にすることじゃないだろうとも思う」は、その判断や行動に対する内省である。しかし、その次の「はっきりいうと、日課なんてなくてもいい。小学生の僕はそう言う。」は、「小学生の僕」がなければ、現在の判断や行動に対する内省と区別が付かない。この「小学生の僕」というのは、小学生頃の自分の判断や行動を指している。つまり、現在の〈僕〉の中には、「小学生の僕」が何らかの形で存在していることが示唆されている。


 二つ目は、作者・語り手・登場人物に関係することである。
 
2.〈語り手〉が、主な登場人物の〈義郎〉や〈無名〉と同化したような描写が心に懸かった。
 〈語り手〉は、上に引用した「1.」の部分のように、登場人物の外面を描写したり内面に入り込んでその内面を語る(説明する)ことは一般によくあるが、それとは少し違うようなのだ。

 遙か太古においては、作者・語り手(巫女やシャーマン)が、自分たちに恵みとともに猛威ももたらす〈大いなる自然〉=〈神〉の内心を推しはかったり、〈大いなる自然〉=〈神〉をなだめたりしたこと、そのことを語る宗教性が、〈物語〉の原型であった。もちろん、芸術としての〈物語〉は、そのような宗教性を原型としながらも、その宗教性からの飛躍と切断によって獲得された表現である。作者・語り手(巫女やシャーマン)は、物語の世界に登場する〈大いなる自然〉=〈神〉に近づいたり、その思ったり語ったりする言葉を聞いたり、推しはかったりすることはできる。したがってこの〈物語〉は起源としては、〈語り手〉(巫女やシャーマン)は、〈登場人物〉たちと同じ物語の世界に存在するといっても、互いに同一化するには余りに隔てられ過ぎた存在の関係になっている。ただし、イタコが当事者に乗り移るように、〈語り手〉(巫女やシャーマン)のイメージや意識の中での跳躍によっては同一化は可能である。すなわち、〈語り手〉(巫女やシャーマン)は後景に退いて、あるいは溶け合って、神本人になりきって語ることもあり得るように見える。これは、〈語り手〉(巫女やシャーマン)のイメージや意識の中での跳躍によって同一化をくり返してきた経験の中から獲得されたものであろう。アイヌの物語には、そのような神自身が一人称で語る物語がある。それは例えば、『アイヌ神謡集』の「シマフクロウ神が自らをうたった謡」などに見ることができる。(『アイヌ神謡集』知里幸惠編訳 青空文庫)


 義郎の朝には心配事の種がぎっしりつまっているが、無名にとって朝はめぐりくる度にみずみずしく楽しかった。無名は今、衣服と呼ばれる妖怪たちと格闘している。★★布地は意地悪ではないけれど、簡単にこちらの思うようにはならず、もんだり伸ばしたり折ったりして苦労しているうちに、脳味噌の中で橙色と青色と銀色の紙がきらきら光り始める。寝間着を脱ごうと思うのだけれど、脚が二本あってどちらから脱ごうかどうしようかと考えているうちに、蛸のことを思い出す。もしかしたら自分の脚も実は八本あって、それが四本ずつ束ねて縛られているから二本に見えるのかもしれない。だから右に動かそうとすると同時に左とか上とかにも動かしたくなる。蛸は身体に入り込んでしまっている。蛸、出て来い。思い切って脱いでしまった。まさか脚を脱いでしまったわけじゃないだろうな。いや、ちゃんと寝間着を脱いだようだ。さて脱ぐものを脱いだのはいいけれど、今度は通学用のズボンをはく必要がある。布が丘になっていて、その丘を突き抜けてトンネルが走っている。脚は列車だ。トンネルを走り抜けようとしている。またいつか明治維新博物館へ行って、蒸気機関車の模型で遊びたいな。トンネルは二本あるから、一本は上り列車が入っていく口で、もう一本は下り列車が出て来る口。であるはずなのに、右足を入れても左が出てこない。かまうもんか。肌色の蒸気機関車がトンネルに入っていく。しゅ、しゅ、ぽ、ぽお。★★
「無名、着替えはできたのか。」
 曾おじいちゃんの声を聴くと、蛸はあわてて靴下の中に隠れ、蒸気機関車は車庫に滑り込んで、無名だけがその場にとり残された。着替えというたった一つの仕事さえまだできていない。
「僕はダメ男だなあ」
 と無名がしみじみ言うと、義郎が吹き出して、
「いいから早く着なさい。ほら、」
 と言いながら、しゃがんで通学用のズボンを両手で持ち上げてみせた。
 (『献灯使』P112-P114 多和田葉子 講談社文庫 2017年8月)



 この〈語り手〉が登場人物の〈無名〉と同化したような描写が、★★印を付けた部分に見られる。ここには上げないが登場人物の〈義郎〉に対しても同様なことが行われている。これは作者の意識的な描写だろうと思う。引用の出だしから二行目の★★印を入れたところまでは、〈語り手〉による普通の語り(描写)になっている。〈語り手〉は、〈登場人物〉義郎や無名の内面に入り込んだり推しはかったりして語っている。ところが、それ以降は〈語り手〉は、〈無名〉と同化して〈語り手〉=〈無名〉と化している。ちょうど巫女さんが神に乗り移ったような状況になっている。したがって、これはこれであり得るかなと思うが、ほとんどなじみがなかったので異和感を持った。

 物語の世界で日頃見かけないこの〈語り手〉の振る舞いはどういう事態なんだろうか。人がどういう生まれ育ちをしたかが、その後の生涯を大きく規定するように、物語の起源はの有り様は、その後の物語を規定する。起源の有り様を振り切って物語が自由に表現されることはない。例えば、芥川龍之介は、「羅生門」でもそうだが、〈作者〉を物語世界の中に登場させたことがある。読者としては、虚構の物語世界に入り込んでなじみかけているのに、急な作者の登場でシームレスな物語世界との接続に水を掛けられたような気分になったことがある。このような恣意的な自由の行使が、神的な世界、今風に言えば仮想の世界という物語の起源性の有り様にそぐわなければ、そのような表現に永続性はない。

 以前、作者・語り手・登場人物について遙か太古の起源から考えたことがある。ここでもまた、太古からの宗教性の世界、そこからの飛躍・断絶した物語の世界ということをおさらいして、この問題を考えている。なぜならば、起源の有り様は現在を深く規定しているからである。

 芸術としての〈物語〉にまで飛躍したその源流の太古の宗教的な段階を想像してみる。
 〈巫女〉のような〈物語り〉の専門家が登場すると、〈語り手〉(巫女)は、何を考えているのかよくわからない、人間より優位に立つ至高の〈登場人物〉(大いなる自然、神)と対話、交渉し、その神意を聞き取ったり、人間の願い(意志)を神に伝えたりする存在であった。この場合、〈語り手〉(巫女)は、神的な世界、今風に言えば仮想の世界、その世界内の存在であり、至高の〈登場人物〉(大いなる自然、神)と向き合っている。

 〈語り手〉(巫女)の有り様にはもうひとつある。〈語り手〉(巫女)は、自分が神的な世界(仮想の世界)で体験したことを〈聴衆〉(読者)に物語る存在でもある。ここから、〈語り手〉(巫女)が〈聴衆〉(読者)に向って物語る有り様には二つ考えられる。ひとつは、〈語り手〉(巫女)が至高の〈登場人物〉の有り様を三人称として語ることである。もうひとつは、イタコが当事者に乗り移るように、〈語り手〉(巫女)が心的な跳躍によって至高の〈登場人物〉になりきって語ることである。

 これらは、宗教的な段階の表現の有り様であるが、この原型から〈語り物〉や書き言葉の〈物語〉へと転位していった場合、前者は三人称の物語へ、後者は〈わたし〉の一人称の物語へとつながっていったように見える。宗教性では、〈語り手〉(巫女)と至高の〈登場人物〉(大いなる自然、神)との対話、交渉の場面があり、次に、それを〈聴衆〉(読者)に物語るという二重の場面がある。そこから芸術にまで飛躍した〈物語〉では、〈作者〉(〈語り手〉)のモチーフに従って〈語り手〉が語ることによって登場人物たちが駆動され物語がうねり出す。それが、〈聴衆〉(読者)の前に登場することになる。

 近代以降の個が先鋭化して社会の舞台に登場し始めた段階では、何を考えているのかよくわからない神と同様に人間の他者(登場人物)も何を考えているのかよくわからないが、〈語り手〉は太古の神の時と同様に〈登場人物〉を外から観察したり、心の内をのぞいたりして語っていく。三人称の物語である。また、何を考えているのかよくわからない神の一人称語りに対応するのは、同様に自分自身というものがよくわからない〈わたし〉の一人称物語である。

 というわけで、ここで取り上げた2.の〈語り手〉が登場人物と同化したような描写は、イタコが当事者に乗り移るように、〈語り手〉が心的な跳躍によって至高の〈登場人物〉になりきって語るということで、起源的にもあり得ることである。ただし、この作品は、三人称の物語が基調になっているから、この場面では〈語り手〉が白熱して思わず〈登場人物〉になりきって語ってしまったと見なすほかないだろうと思う。

 最後に、遠い将来には、文字で書かれ読まれるという物語が 変貌して、作者・語り手・登場人物が融合し、ホログラフィーのようなイメージ流の物語になってしまっても、物語の世界を流れるイメージ流の振る舞い(語り手・登場人物)として、その物語の起源との同型性は保存されると思われる。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 734-738

2020年07月24日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



734
圏内に来た『暴れん坊将軍』って何?
ずっと昔
不明の言葉の道をたどったことがある



735
再放送を観始めて
しまった
荒唐無稽でも嫌いじゃない



736
作品と照れつつ見入る私の
内面と
無意識面を滑ってゆく



737
たぶん旅は権力の
秘密と
消滅とが匂い立つ通路を下る



738
集落の外れの丘に
憂い顔の
長老ひとり立っているのが見える

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 730-733

2020年07月23日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



730
リンカーンには小学生の頃
伝記で
出会ったのだったか もう何も覚えていない



731
後年出会ったあのリンカーンの
人民の言葉は
トランプ以前と以後に渡ってその不在を奏でているか



732
おそらく数々手を汚した偉大なリンカーンも
伝記の本から
いつか消えて無名の領域に帰っていく



733
政治の死は遙か太古の
政治の始まり
をおさらいする なんという回り道!