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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

短歌味体Ⅲ 2594-2596 接続シリーズ・続

2018年07月31日 | 短歌味体Ⅲ-4

[短歌味体 Ⅲ] 接続シリーズ・続

 


2594
太い柱、太いしめ縄
選択には
伸びゆくつながりの手の表情がある

 


2595
自然への引け目とツッパリが
溶け合って
次第に樹木は人の顔立ちになる

 


2596
祈の太文字が自然や人に
及ぶ時
その飛沫我らにまで及ぶ


短歌味体Ⅲ 2581-2584 接続シリーズ・続

2018年07月27日 | 短歌味体Ⅲ-4

[短歌味体 Ⅲ] 接続シリーズ・続

 


2581
ほんとの名前は知らない
昔から
ただ(いるまーにゃ)と言っている

 


2582
入留間荷屋でも要流真丹矢でも
かまわないさ
ただ心ののどを流れ下る(いるまーにゃ)

 


2583
うまく流れたかどうか
瞬時に
わかるさその地に住む人ならば

 


2584
(いるまーにゃ いるまああにゃ)
「おはよう」に似て
遙か彼方からかたち成してきた


覚書2018.7.15 (ツイートより)

2018年07月26日 | 坂口恭平を読む

 覚書2018.7.15 (ツイートより)

 


文学的な表現を作者によるある固まりとしてのイメージとイメージの選択や接続や転換の流れと見なせば、割と普通に意味がたどれる〈イメージ流〉の作品が一般的である。それでも、作者に選択されたイメージや相互の接続や転換が作者によって完全に統御されたり見通されているわけではないように感じる。

もう少しで読み終える、坂口恭平の新作『家の中で迷子』の出だしの言葉は、「家の中で迷子になっていた。」である。今まで彼のいくつかの作品をたどってきたことから見て、これは意味がたどれそうな普通の比喩ではなく、おそらく〈イメージ流〉の奔出された言葉だろうと思われる。

この作品自体が、従来的な物語の起伏に富むエンタメ小説とは無縁な、〈イメージ流〉の作品とでも呼ぶべきものだと思う。筋や物語性は荒唐無稽のように展開していく。つまり、こんな作品に慣れていない私たち読者は途惑うが、〈イメージ流〉の作品として、その感じ、肌合い、うねりなどを味わうべきか。

そして、『家の中で迷子』も普通の詩作品の言葉も、そのイメージの主要な出所は、当然のこととして作者が出会ってきたイメージや現実的に体験してきたことに基づいているように見える。


短歌味体Ⅲ 2577-2580 接続シリーズ

2018年07月26日 | 短歌味体Ⅲ-4

[短歌味体 Ⅲ] 接続シリーズ

 


2577
おおここは、わがイルマニア
在れ!と言うと
現れるイルマニアの翼

 


2578
イルマニアの翼に乗って
時間旅行
するすると滑り降りるような気分いい

 


2579
こんなところにイルマニア
時間の
化石たち乾いてごろごろ

 


2580
誰もが身に付いた
接続法
を持っている(イルマーニア!)


短歌味体Ⅲ 2574-2576 変身シリーズ・続

2018年07月25日 | 短歌味体Ⅲ-4

[短歌味体 Ⅲ] 変身シリーズ・続

 


2574
アクセルを踏み込んでゆく
まだらの〈あ〉が
青魚となり跳ね泳ぎ出す

 


2575
イメージの舟に乗り
青々と
照り映え進む〈あ〉の航跡の

 


2576
静けさのカーテン降りて
イルマニア
なつかしい音曲も流れる

 

※「イルマニア」は、書いていてふいと湧いてきた無意味語
みたいなものだけど、今検索したら「『イルマニア』と名乗る
入間市在住の一団」のミュージシャンがいた。