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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

最近のツイートや覚書など2022年9月 ②

2022年10月31日 | 覚書
 最近のツイートや覚書など2022年9月 ②


2022/09/16
今「2022年版 Youtuber年収・収入ランキング(162111人)」を見てきた。一般に、チャンネル登録数が100万人を越えると収入が1億円になりそうだ。うーん、消費資本主義と広告産業中心社会のもたらすふしぎな光景。

ユーチューバーって、個人経営の芸人みたいな者か。自分の割と好きなことを気楽そうにやりつつ、稼ぐためには熾烈に芸を生み出さなくてはならないハードさがありそう。だから、好きなことを気楽に無心にやっているわけではない。



三木成夫-吉本隆明によれば、顔には、考えや思想ではなく主要に内臓感覚からくる情動が結びついている。その情動の型が刻まれているのだろう。しかし、その顔を見る者は、その者の考えやイデオロギーなどがイメージに抽出され、その顔に付加され、好き嫌い中性として見るようだ。

顔といえば、北大路欣也(もちろん、演者、俳優としてであるが)はいいなあと思っている。最近のでは、『隠密奉行朝比奈』、『三屋清左衛門残日録』。物語世界ではあるけど、当然演者の個性も顔に付加されているのだろう。『三屋清左衛門残日録』は今年もあるようだ。



あたらしい短歌bot@tankabot_1980
煙草いりますか、先輩、まだカロリーメイト食って生きてるんすか   千種創一


煙草いりますか、/先輩、まだ/カロリーメイト食って/生きてるんすか (『砂丘律』2015年)
字余り等あるが、音数律はまだ意識されているようだ。「普通の会話」が歌になるようになった。タバコと書かずに煙草と書いたのは何かあるのかな。



2022/09/17
死の短歌bot@shi_no_tanka
将来の死体三十七体をしずかに納める教室である/佐藤羽美


文学(歌)は、倫理を超える。つまり、差し障りの多い人と人とが関わり合うこの人間社会では、私たちは表出や表現を抑制することがあるけど、文学はストレートに言おうとする。作品を倫理的に裁断しても仕方がない。ただ、誰にもあり得るが、こんな冷たい空想の視線は現実から浮遊している。

上の歌は、作中の〈私〉も教室内の37人の生徒たちに含まれているのだろう。これと似た視線のものがある。

もしわたくしが怪獣ならばどの子から食おうかチビッコ相撲を観つつ/佐藤羽美



2022/09/18
「九州の皆様、台風に本気で備えてください。」とかのアドバスや心配はありがたいけど、ある程度の対策を取ったらもう後は台風さん任せで、なんとか弱気になってねとか、逸れてくれていいよとか、こちらは願うほかありません。残念ながら、台風を弱めるとかの制御力を人間はまだ手にしていません。



成田悠輔って、最近テレビで見かけた。以前、ツイッターで出会って名前は知っていた。著書はまだ読んでいない。先日ツイッターの宣伝で紹介されていた「半熟仮想」というのは冗談言っているのかと思ったら彼の会社名だった。彼も「テレビ学者」の仲間入りをしているのかな。

「テレビ学者」もいいけど、テレビという媒体は問題をとことん掘り下げることは難しい気がする。例えば、今まで少し期待してEテレの「100分de名著」をいくつも観たことがあるけど、まあそんなものかと思ったことがほとんどだった。「テレビ学者」たちは、テレビの温沼から抜け出せるのだろうか。



このTLでも時々アメリカインディアンの言葉に出会う。昔々は、この世界の成り立ちやこの世界での人の振る舞い方・生き方についての知恵の言葉は、10にも満たないようなわずかでシンプルなものではなかったかと思う。それが、現在ではあらゆる分野が細分化してチマチマした細分化言葉になってしまっている。

もう直接に昔々の芯があり、深みのある、わずかなシンプルな言葉自体には戻れそうにないが、それを汲み現在の言葉の芯に生かすことは大切だと思う。それは、例えば医療でも教育でも、あらゆる分野で言えそうだ。



2022/09/19
現代短歌bot@gendai_tanka
受話器まだてのひらに重かりしころその漆黒は声に曇りき  大辻隆弘


作者は、あの黒電話の重たい受話器の世代のようだ。しかし、この作品の時間では受話器は軽く変わっている。なぜかわからないが、ふと目をやったら受話器が声に曇っているのに気づいた過去の場面が想起されている。これは作者がある時代性を生きてきたことの象徴表現と言えるかもしれない。



2022/09/20
国葬は、反対でいいんだけど、もっとはっきり言えば、今どき「銅像」を建てたり、前方後円墳を造るみたいに「国葬」したり、時代を読み間違っているんだよな。そして、コロナや正規非正規・貧困問題などの時代の最優先課題を避けてばかりのわき見政治。クソッタレ。国葬なんてどうでもいいや。



2022/09/23
統一教会の勅使河原秀行の言ったという「左翼弁護士」って、ネトウヨ的な罵り方というツイートが流れてきた。安倍晋三やネトウヨが自分に反対する者や自分がつまづいた小石にまで「左翼」と言ってののしることの始まりは、統一教会だろうか。その神-サタンの強固な二項対立から来た?

いつでもどこでも何についても、内部からの視線、言葉というのは大切だ。何が問題で、何に困っているのか。その文章の文体をたどっていけば、その人の心の有り様の前に立てるように思う。無料でアップされている洪蘭淑の『わが父文鮮明の正体 』を読み終えた。



あたらしい短歌bot@tankabot_1980
果てしない夜をきれいに閉じてゆく銀のファスナーとして終電   toron*


カッコ良くできたなという作者の思いがあるかどうかは別にして、この作者の視線は、斜め上空だろう。果てしなく広がる夜を「銀のファスナー」である明かりの付いた終電が閉じていくよという歌か。地上の人の高さの視線では思いつかない歌の位相。しかし、大都市では街の明かりが多そうに思うけど・・・。

河野裕子の歌に滋賀県の琵琶湖を歌った歌があるのを思いだした。

たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

これも、作者の視線は斜め上空だろう。

電車つながりで、電車の中の人の高さの視線から表現したtoron* の作品がある。

花びらがひとつ車内に落ちていて誰を乗せたの始発のメトロ



2022/09/25
現代短歌bot@gendai_tanka
泣くという音楽がある みどりごをギターのように今日も抱えて   俵万智


うーん、幼子はよだれを垂れもするし泣きもする、神のような位置にある母親はそんな無力なわが子にやさしく対応する(?)、そんなありふれた生活感が、少し昇華されすぎているような感じがする。わかりやすく言えば、飾られすぎた歌になっている。



現代短歌bot@gendai_tanka
おめんとか
具体的には日焼け止め
へやをでることはなにかつけること  今橋愛


わたしも覚えがあるから言うのだが、この歌は、概念的な思想(考え)を述べるのが主で、歌を理屈っぽくしている。わたしなら、例えば、
日焼け止めをしっかり塗って
素顔から
お面を付けた気分へ ドアを押す



2022/09/26
長らく、老年層が多い、あまり活動性がない日本会議系-変質自民党政権と見ていたが、安倍晋三政権を中心とする統一教会との強力なつながりは想像できなかった。「国際政治学者」は想像できていたのだろうか。実質は、大同団結の統一教会-日本会議系-変質自民党政権だった。

ネトウヨは、わかっているのだろうか。日本は韓国に奉仕せよという統一教会(の考え方)を受け入れるということは、自らがわが国の過去の戦争への謝罪を「自虐史観」と批判してきたが、自分たちネトウヨこそ「自虐史観」(奉仕=謝罪)を受け入れているということを。



生きながら水族館の薄闇でおでこをさすりあうのはいいね 谷川電話

「おでこをさすりあう」相手は、恋人ではなく水族館の生き物だろうか、よくわからないが、これを通常的な表現と見なせば、「生きながら」は全体にある重力を加えているように感じられる。言いかえると、少しだけ濃い意味の視線を加えているように見える。



人は、木や岩や画布などのただの物に形作られた人や世界にその生動を感じるように、言葉の幻には純粋さや邪悪さも含めて、人の心の感じ考え感動することの表れを感じる。このことにわたしはいつも驚くが、それは人間の誰もが持つ視線や感じ取る・表出する人間的な器ゆえである。

例えば、古今集の仮名序は、言の葉は人の魂を揺さぶる「言霊」を秘めているという認識である。もっとさかのぼれば、フォレスト・カーターの描いた『リトル・トリー』の世界のように、木々も語り人も木の言葉を聞くというような世界になると思う。そんな背景で描かれた物は生命力に満ちていたのだろう。



2022/09/27
死の短歌bot@shi_no_tanka
燃えながら人は死ぬのだ握ろうとしていた指のもろくこぼれる/福島泰樹


この「こぼれる」は、こわれる、破れるの意味の「毀れる」だろう。藤原新也の『メメント・モリ』(1983年)で、インドのガンジス川辺で死者を焼いている写真を見た記憶があるが、そうでなければこれは想像の場面を歌ったものとなる。詮無いことにも想像は駆けていく。



2022/09/28
ただバカバカしい思いだけで、ほんとにまったく関心がなかったけど、こくそう後のひと思い。やっぱり、ひとは平等に生まれ、途中煩悩の苦しい慌ただしいクソッタレだけどどこかいい感じもある人間界生活があり、やがて平等に死んでいくようなんだよなあ。



2022/09/29
RT
マコモの収穫


マコモから、万葉集の巻頭の雄略天皇の歌、「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ・・・」を思い出しました。調べてみると、籠(こ)は、「竹や植物の蔓(つる)、針金などで編んだ器物の総称。かご。」とあり、こも(薦、菰)は、「 マコモを粗く編んだむしろ。現在は多く、わらを用いる。」

とあります。前者は当てられた漢字は違いますが、「こ」や「こも」は真菰(まこも)と関係あるかもしれないなと思いました。



最近は、クソッタレプーチンのごり押しの侵略やそのための国内への強権発動で、ロシアの民衆が抗議行動に出たり国外へ逃げ惑ったりしている。プーチンも一応民衆に選ばれたことになっているから民衆の支持は無視できないが、世界では依然として主人公の民衆力は潜在的を強いられている。

たぶん吉本さんが言っていたと思うが、世界権力は人類史の始まりにおいても現在でもその中心は平凡な普通の人々にしかない。それ以外の国観間のしのぎ合いなんて本質的にはなんの意味もない。ところで、わが国では私を含めてほとんどの者が、現在のロシア→ウクライナの状況は、

わが国に関しては現実性のないよそ事や空想としか思えないだろう。しかし、原発の大事故に限らず、わたしたちが劣化した政治屋どもの不始末によって、似たような災厄に見舞われるのではないかということが、より現実性の感覚を増加させているように感じている。



この議員さんは、「戦後自虐史観からの脱却。」とおっしゃってますが、統一教会はその自虐史観を逆手にとって日本人信者に献金とそのことによる不幸を強いてきています。ということは、統一教会と強いタッグを組んできた(安倍)自民党は、その「戦後自虐史観」の実践者そのものです。どうゆうことやねん!?

ネトウヨ、ネトウヨ評論家たちは、今新たな局所系の「敗戦」の状況に直面しているという自覚があるのだろうか。つまり、大多数の普通の人々には関わりのない「敗戦」。何が「美しい国」だ。「普通の日本人」だ。ダーティーばかりじゃないか。   #ネトウヨの敗戦



2022/09/30
現代短歌bot@gendai_tanka
あかねさすGoogle Earthに一切の夜なき世界を巡りて飽かず  光森裕樹

現在のGoogle Earthでは、現在の刻々と変化していく地球上の動的把捉・表現にはなっていないから、「夜」の表現はない。Google Earthに出会った頃私もまた「世界を巡りて飽かず」だった。「あかねさす」という枕詞は、光りが差して輝くという意味の他にここまで来たという人類の時間を意識させているか。



二昔前の高度経済成長期以前の社会には、まだ柳田国男の描いた『遠野物語』の世界に近く、あの山越えると異世界という感じが残っていたと思う。人は自分に身近なことが中心で、仕事は苛酷でも割とゆったりした時間が流れ、社会に非道もあったろうが、物静かな感受や考え。

慌ただしい現在とは対照的で、しかももはや戻れない世界。人間の自由度は、二昔前よりは現在の方が増してきていると思う。しかし、生き難さも増している。ただ内省としてなら、慌ただしい流れるような現在の時間感覚の中に、自分なりの安息の場所や安息法を生み出せるのかもしれない。

 

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3977-3980

2022年10月31日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3977
無意味そうな言葉にも
重い軽いは別にして
選ばれた動機はある



3978
意識的な動機か
無意識的な動機かは
言葉の流れる層が決めている



3979
ついうっかりその部屋に
入ってしまった 言葉にも
無意識的な動機が背中を押したのかもしれない



3980
ぼんやりした春霞の言葉ひとつにも
そんなふうに
言葉のドラマが進行して来た


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3973-3976

2022年10月30日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3973
「川は流れてどこどこ行くの
人も流れてどこどこ行くの」
という歌があった



3974
そこからが分岐点だ
言葉の入口から
誰もがいろんな部屋に分かれて行く



3975
どこへということよりも
歌がどんな走法か
奏法かということが全てを語る



3976
言葉の操法が決まる
するとひとつの
顔と表情のある世界が浮上する


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3969-3972

2022年10月29日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3969
少しひんやり秋風が吹く
芯が疼いて
色付いた葉が落ちていく



3970
あ と思う間もなく
いつもの場所から
はらりと落ちていくのである



3971
秋という言葉の舟に乗り
秋の韻を奏でながら
落ちていく(どこへ?)



3972
同じ場所同じ韻であっても
季節によって
言葉は変面のように色変わりする


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3965-3968

2022年10月28日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3965
(どうしようかなあ
出かけるの・・・)
止めようかなと引き返すことはできる



3966
言葉も選択や転換や喩を取り止める
ことはできる
けれど緘黙(かんもく)し続けることはできない



3967
ある時代の言葉の流れに浸かり
ひとりひとり
固有の泳法で泳ぎ続けるほかない



3968
きみもぼくもかれも
今ここのにんげんだから
あんまり無理せず泳ぎ続けるんだよね


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3961-3964

2022年10月27日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3961
遙か言葉の始まりは
外見には浮いた脂の漂うよう
溶け合った熱いもやもやが放出される



3962
これあれそれと指し示す
とはまだ言えないな
うつぼつと流れるマグマ流の言葉



3963
時間に時間が果てしなく積み重なり
成り成りて
ひとつの形 イメージ流が動き出している



3964
赤ちゃんがやっと歩き始める
ように言葉が立つ
イメージ流も少し自在に流れ出す


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3957-3960

2022年10月26日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3957
今日も大きな銛(もり)を積んだ
意味船に乗り込み
言葉の大海に出ていくのが見える



3958
言葉の岸辺では
子どもたちが
無心に言葉の砂遊びをしている



3959
意味船には脱意味グループも
紛れ込んでいて
脱!の呪文をつぶやき続けている



3960
そんなに大意味が大事か
今ではクジラ獲らなくても平気だけど
大言葉も仕留められなくてはならないか


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3952-3956

2022年10月25日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3952
向こうに意味坂が見える
楽しげに踊り歌っている
(計算された意味練習があり)



3953
楽しげに踊り歌っている
そりゃあそれでいいんだが
(意味マネジメントやお金の匂いもする)



3954
まだまだ遠い今の世だから
お金の匂い
がしてもどうってことないんだけど



3955
意味計算された歌と踊りにまみれ
お金にまみれ
無償の詩とは違ってもいいんだけれど



3956
意味計算が実行される
意味坂の歌や踊りに
疲れた聴衆へのひとしずく・・・があれば


最近のツイートや覚書など2022年9月 ①

2022年10月24日 | 覚書
 最近のツイートや覚書など2022年9月 ①


2022/09/01
現代短歌bot@gendai_tanka
恋人はいてもいなくてもいいけれどあなたはここにいたほうがいい  伊勢谷小枝子


うーん、その他人事のような屈折の意識(の表現)、わかるようで、わからないようで、よくわからない。他者への屈折した通路(の表現)。しかし、考えてみれば、言葉の表現とそれに接続する心の有り様は屈折接続ということはよくあることか。



2022/09/02
『吉本隆明全集29』(2022年8月25日刊)に挿(はさ)まれている「月報30」の娘ハルノ宵子の「悪いとこしか似ていない」を読んだ。父の発言に驚く娘たちがいる。近接関係の家族でも互いに見えないとこやすれ違いもある。まして、思想においてをや。

吉本さんの言動が3つ4つ挙げてある。長女ハルノ宵子が京都の学生時代にアルバイトをしたいと言ったら、吉本さんは「イヤ・・・キミ飲食店で働くということは、次に酒を出す店で働くということになる。そして次にはホステスなどの水商売になる。そこから体を売る商売までに、段階は無いのだ。」と

言われたという。このことは吉本さんの対談で読んだ覚えがあるが、残念ながらすぐにその対談と取り出すことはできない。当時私も「あまりの飛躍」と思った覚えがある。しかし、話はもう少し微妙だったように思う。

例えば、原発の近くに自分は住めるかと同様の、ホステスとか体を売る商売をどう考えるかという思想の具体性の自問も含んでいたように思う。わたしは吉本さんに関しても、よくわからないことは、ふうんとやり過ごして寝かせておく。そして、いつかはっきりしたイメージを結ぶことがある。

(2022/09/12)
うちの奥さんが探してくれた。『対幻想 n個の性をめぐって』(吉本隆明 聞き手 芹沢俊介 春秋社 1985年1月)の「5 性になれるということ、なれないということ」で、ハルノ宵子のエピソードが触れられている。娘にとっては親父って極端で変なの位の受けとめだが、吉本さんは思想者と父親の二重性から娘に語られているようだ。すなわち、「男性と女性の性的無意識の問題」の歴史的な現在のありようとして受けとめた場所からの発言のようだ。そういう受けとめ、認識が日常の生活思想にも当然現れてきたのである。こういう人と人との行き違いは避けようがない。



2022/09/04
宗教は人類の感性や知の古い部分をその大切な背骨にしている。だから、例えば現在の男女の新しい意識の有り様から来る選択的夫婦別姓は認めたがらないとか、また現在の気ままに生きる若者たちの感性やその恣意的な自由は学校の校則みたいな枠ではめたがる。

また宗教はこの社会の有り様を否定して退行させるベクトルの政治性を持つ傾向がある。人間のひとりひとりの魂の救済をこそ柔軟に本気で目指す宗教集団はまれであるように見える。遙か親鸞の集団やイエスの方舟などと違ってスケベの野心を持って古臭い宗教的な政治革命を目指す教団ばかりだ。

その点、アニメ的な荒唐無稽な世界観の割に無惨な結果を引き起こしたオーム真理教も世界の権力へのシロアリ政策を取っている統一教会も同一である。信者には悪いが、クソッタレが、と思う。



2022/09/05
RT
「もはや日常さえも撮影ベースで動く人が増えました。『映える』かどうかが大きな基準となった今、日常を切り取る行為は、後々振り返るためというより、『いいね』を獲得するため」

「それはきっと、不安の裏返し。自分の人生が幸せだと実感したい。みんなに幸せだと言われたい。そんなことは周囲が決めることではないのに。彼女たちは、インスタ映えする棺桶を選ぶのでしょうか」
(ふかわりょう「いいねなんて、いらない。」、「風向計」2017年8月19日付の東京新聞)


流行は、「流行」という大きな生き物がいるみたいな感じもする。もちろん仕掛け人がいたとしても、ひとりひとりが幻の結合手を出し合い「流行」という原子雲みたいなものを生み出(疎外)してしまう。その原子雲は一人歩きをする。そして、流行の渦中や深みではこのような内省も泡立ってくるのだろう。



論点移動(論点のすり替え)は、どういう表現か。自分が直面している課題の危機からの防御・逃走の表現。問題を筋道立てて検討・批判することはなく、課題を引き起こした対象に無批判に没入している。だから、することといえばウヨウヨこじつけを探すばかり。目下、この論点移動の花盛り。



RT
美術ファン@世界の名画@bijutsufan
クロード・モネ『散歩』1875年 ポーラ美術館


「旅」はあっても「散歩」は新しい。「散歩」が始まったのは、明治時代の国木田独歩あたりからということを吉本さんの文章で読んだことがある。これも西洋由来だろうか。西洋でも「散歩」は近代に始まったのだろうか。ちなみに、昭和期の詩人伊東静雄の若き日の日記には散歩の記述があった。

(訂正)
伊東静雄の若き日の「日記」ではなく、「書簡」でした。以下の2冊を持っていますが、2.はまだ積読でした。

1.『伊東静雄青春書簡―詩人への序奏』(1997/12/1)
大塚梓,田中俊廣
2.『伊東静雄日記―詩へのかどで』 ( 2010/3/1)
柊 和典 (編集), 上野 武彦 (編集), 吉田 仙太郎 (編集)



現代短歌bot@gendai_tanka
窓辺にはくちづけのとき外したる眼鏡がありて透ける夏空  吉川宏志


結婚前の若い頃の歌だろうとは思ったが、「くちづけ」という少し古臭い言葉に引っかかったから、念のためいつ頃の作品かと検索してみたら、作品評があった。語の選択にも時代性による幅がありそう。今の若者は「くちづけ」は選ばないだろう。作者の吉川宏志1969年1月生まれ。

「恋人と一夜を共にした翌日、太陽の光が刺す窓辺に、昨夜自分が外したメガネを見つけた。レンズの向こうには晴れわたる夏の空があった。性を描いているのに、さわやかな歌です。」
「セーラー服歌人・鳥居が語る、短歌の“孤独”な魅力」(2016年04月26日)

「映画の1シーンのような鮮烈な作品。
心情ではなく、はずした眼鏡に映る風景を描写することで、恋の行方を暗示しています。」(有朋さやか)


さらに確認のために「くちづけ」を検索したら、いきものがかりの「くちづけ」の歌詞があった。藤あや子「くちづけ」もあった。まだ、古臭くはなく「くちづけ」は生きているようである。キスとくちづけとが時代の心や言葉の幅としてありそう。西欧的な匂いの「キス」と和語的、近生活的な「くちづけ」か。



2022/09/07
コロナが長く続いているせいもあるが、わが国の行政は、状況に左右される対策しか取れてないように思う。だから、感染者数が増大するとはぐらかしみたいに「重症者を中心にみる」などと何回もアナウンスしている。医療現場のがんばりは別として、行政はもうなるようになる政策のようだ。



2022/09/08
死の短歌bot@shi_no_tanka
入浴剤ひとつのことで笑いあう しあわせだから今死にましょう/稲谷りえこ


上の句と下の句が解離している、あるいは死への欲動によって、しあわせそうな場面を反転している。作者のことは知らないが、女性にあり得るような、リストカットやよく死を口にするような心性の発露の表現か。ここでは、生き生きした生活の場面が空無と感じられている。



「中上健次先生をそうカテゴライズしていいかどうかわからないけれど、中上先生も生前、にこにこしたまま急に人を殴ったりグラスを投げたりするので、境目を見てなくちゃいけなかった。でもまあ境目を見ていようが見ていまいが、その瞬間は絶対に来るので、実はあまり意味はない。ただ、来るとわかっているのと何も知らずにその場にいるのでは、絶対違う。その程度だ。中上先生は女性を殴ることはなかったから私は見物していただけだけれど、男性はみなさん大変そうだった。」(『私と街たち(ほぼ自伝)』P33 吉本ばなな 2022.6)

 中上健次は、さみしがり屋のジャイアンみたいな人だったと思う。現実には、1987年9月12日から9月13日まで、東京・品川のウォーター・フロントにある寺田倉庫で行われた『いま、吉本隆明25時―24時間連続講演と討論』(吉本隆明・中上 健次・三上 治 主催)でちらっと見かけた位だ。

たぶんそんな人だったろうなというように中上健次が描写されている。中上は年齢の離れている吉本さんには親のように尊敬していて手を上げることはなかったろうが、酒が入ると特に暴れていたという印象がある。同様に、太宰治も癖が強くて付き合いにくい人だったかもしれない。

ところで、学校や職場などでは私たちは必ずといっていいように、自分とは馬の合わない者といっしょになるようだ。したがって、このことは、一般化するとそんな癖の強い人々とどう付き合うかという難しいテーマになりそうだ。

吉本ばななさんの場合は、
1.「でも、もう過ちは繰り返さない。人生も折り返し、いろんな大人を看取って、もう自分にも時間がないのはよくわかっているから。毎日が蜜だ。生きているだけで丸儲けだ。今日が来るのが嬉しい、目を覚ませるのが嬉しい。だいたいの人がみな愛おしい。愛おしくない人とは許しながらそっと離れる。そういう年齢だ。」(P72)
2.「すぐそばに知っている人が大勢いて、あまり好きじゃない感じの人とは自然にあいさつだけになるし、気が合えばこうして小さなリビングに集える。」(P81)



2022/09/09
現代短歌bot@gendai_tanka
牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に  中澤系

これはいつ頃の歌だろうか。若者の心性にあり得る傾向性に見える。死を引き寄せ想起する時期は、一般に生活者の入口に立つ思春期と出口に佇む老年期。前者の死は軽く抽象的。そんな歌に見える。ところで、作者は難病に襲われて夭折しているが、この歌は難病が発症する以前だろうか。



2022/09/11
私がそう呼ぶだけだけど、「テレビ学者」って新しい現在的な傾向かな。普通の学者が良いというわけではないが、三浦や古市などの「テレビ学者」ってお金はもうかるかもしれないけど微妙だと思う。テレビ局の意向を無視する形ではやっていけないし、ラディカルな政権批判もできないだろうし。



2022/09/12
身近に桜の下などで出会って良い人光線に当てられると、人情としては相手の傷も見えない目をつぶるとかあるんだろう。つまり、的確な批評性が持てないということ。そのようにしていた「テレビ学者」の古市や三浦も同様だと思う。安倍評価はそんな偏光板を通した視線によるものが大半。



2022/09/13
いつ頃からか、お笑い芸人がテレビに多く登場するようになった。しまいには、今では「普通」になっているような生真面目な学習番組やワイドショーにも登場するようになった。おそらく、これには吉本興業などの養成校などのせいもあるのだろう。また、時代性もありそうだ。

これは日本のみの現象なのかどうかは知らない。以前は、現在でもさんまさんのように、お笑い芸人が生真面目な顔で登場することはほとんどなかったように思う。純文学と大衆文学の垣根が壊れて久しいが、知識層と大衆の垣根も壊れて久しく、大衆の知識水準が底上げされてきた。

こんな背景ゆえか、お笑い芸人も大学出が多く、十分「知的」である。しかし、〈芸〉は人間や社会への批評性を持てないと生きないし人に深く響かない。たいこもちの悲しい芸の歴史もあったかもしれないが、中途半端な見識や通俗的な感情からの政権や時代への迎合は見苦しく、〈芸〉を殺すと思うが・・・。

もちろん、例えば洗濯で洗濯板から全自動洗濯機への転換のようにいろんなものが新たになっているように、古臭い〈芸〉のイメージも変貌しているだろう。しかし、洗濯ということで同一なように、批評性を持って人の心を掬い取るという表現としての〈芸〉という不変性はありそうに思う。



2022/09/14
文鮮明、韓鶴子、普通の平凡人が、そんなにこんなにあんなになっちゃって。
ところで、結婚していたのに、どうして文鶴子ではないのだろう。夫婦別姓。調べてみたら、「韓国は伝統的に絶対的夫婦別姓で、結婚しても改姓はできない。」とのこと。

それなのに、日本の(選択的)夫婦別姓に統一教会(日本会議も)は反対している。何かヘン。



RT
この人ネットで以前見かけたことがある。九州国際大学長って、日本会議系なのかと思ったことがある。wikiによると、「落選・引退により全て脱退。」とあるが、「日本会議国会議員懇談会(副幹事長)」の経験がある。そして、このツイートでは統一教会関連での講演。

2018年5月3日には、日本会議系団体の「美しい日本の憲法をつくる福岡県民の会」の集会での発言があり、やっぱり、日本会議≡安倍晋三≡統一教会と同じ。日本会議≡自民党≡統一教会という関係で、大同団結、共闘関係にあるのは確かのようである。

自民党が、もっと明確にいえば安倍系が、(以前の自民党とははっきり違うなあ)という人々の実感に答えるように、自民党を日本会議系や統一教会系との共闘や融合という、より過激な変質へと実行してきたのかもしれない。



今日、スーパーで、少し小さめだが12個ほど入っている箱入り梨が1900円台であった。1個250円位もするから、安いかなと買おうとした。積んである下の箱を見てみたら、大きめで9個入っていた。それにした。今日、1個食べてみたら、しゃきしゃきではなくもう終わりがけに近い歯触りだった。

うーん、わけありということかな。外見や触った感じではわからないんだよな。例年、似た経験があるから、梨がスーパーに出ていても、おそくなったら買わないけど、まだ大丈夫と安心しきっていた。



2022/09/15
農事メモ2022.9.15
・カボチャのこぼれ種が発芽して成長していた。(9/10)
・その葉がウリハムシにかじられていた。(9/14)
今の時期に発芽したのは条件が合ったからだろうか。しかし、ハウスなら育つかもしれないが、寒さでやられる。種のどういう機構なんだろう。ふしぎだ。



小さい頃見聞きした言葉にも、それなりの歴史性や地域性がある。早く寝ないと「あもや」が出るよとおどされたことがある。後に、柳田国男の文章でそれはお化けの別称のひとつと記してあるのに出会った。以下は、畑にしている田んぼの際に生えているのは知っていたが、実がなっていた。(画像略)

わたしの小さい頃はその木(蔓)を「ぶっく」と呼んでいた。以前調べたことがあり、イヌビワの別名のひとつに「ぶっく」とあったが、ネットの写真からはどうも「オオイタビ」のようである。大きな木に巻きついてイチジクみたいな実を付けているのを子ども仲間で取って食べたことがある。
 

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 3948-3951

2022年10月24日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



3948
考えても仕方ないけど
かんがえてしまう
知らぬ間に関係の意味道を歩いている



3949
理屈で断ち切れる意味
ばかりではない
くどくどと意味臭濃く追って来る



3950
晴れ上がった秋空みたいに
せいせいするな
そんなコーヒーブレイクは大切だ



3951
がんじがらめの・・・が少しは解(ほど)け
張り詰めていた
心身が陽のぬくもりを感じている