109
言葉の重量や
深さや
明暗が違っても同列にひしめく
110
時代の言葉のイメージ
につながれて
上へ上へ這(は)い上がろうとあがいてるよ
111
重力に貫かれて
同列へ
滑り落ちおちおち眠れない
112
漱石の則天去私の
椅子壊れ
老(ふ)けてフツーの父は手持無沙汰だ
[短歌味体 Ⅲ] ネット海シリーズ・続
3144
菜の花の列を過ぎると
誰かな?
ふいと微かに匂い流れる
3145
春。色鮮やかなのに
しっとりと
生の香りがしない ネット海。
3146
イメージの水に浸かった
目を上げる
やっぱり春だねえ 新春(シンシュン)。
※作品(詩)読みの練習としてやっている。加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。
34.ゆうぐれはあなたの息が水に彫るちいさな耳がたちまちきえる 加藤治郎『ハレアカラ』
★(私のひと言評 3/10)
〈私〉がゆうぐれに感じた、はかなく移ろうという感覚が、おそらく女性が水面に息吹きかけると「ちいさな耳」のように一瞬盛り上がり消えていくという微細なイメージで表出されている。そして、男女の夕暮れ時のはかない逢瀬のような表現にもなっている。
35.さざなみのデッドラインと言うべきか出社出社執筆執筆出社出社出社 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
★(私のひと言評 3/12)
調べたら「デッドライン」には死線の意味の他にしめきりの意味もある。ここでは「さざなみの」とあるから、死ぬほどではない「しめきり」の意味だろうが、二重の意味として掛詞として使われているように見える。歌か文章の作品締め切りが迫っていて仕事を抱えながらあくせくした日々に〈私〉は追いまくられている。下二句の出社と執筆が互いにしのぎを削っている印象を与える。
下二句を音数のリズムを無視して言いかえてみると「出社しては、帰って執筆し、また出社する、出社する」となる。
例えば、山村暮鳥に「風景」(青空文庫より)という詩がある。その三連中の第一連は、次のように表現されている。
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
鮮やかな菜の花畑、それに調和するように微かな麦笛も聞こえる、人の気配もするという詩である。
これは「いちめんのなのはな かすかなるむぎぶえもする」と言いかえることもできる。これらの元の表現と言いかえた表現では何が違うのだろうか。表現の世界に参入した〈私〉が、言い換えの静的な表現に比べて、視覚を空間的に巡らせている、その動きが表出されている。また、これは作者の意図したものではないかもしれないが、くり返しによる重畳(ちょうじょう)の効果も出ている。その小さい子が時に言ったりするようなくり返しは、重畳による強度から呪文のような表現もまといつかせるように思える。
人は誰でも、仕事や家族や個といったいくつかの次元の異なる場をなんとかスムーズに行き来しながら日々生きている。すなわち、わたしたちは多重な生活をしている。それが時に苦しくなるときもある。これはそんな状況を歌っている。したがって、上掲の歌の「出社出社執筆執筆出社出社出社」という表現は、「いちめんのなのはな」のような空間的な巡りにもなっているが、むしろその多重な世界の次元を〈私〉が苦しげに行き来している表現と見なした方がより正確である。
36.輝く水の塊を見た益荒男よ続いてう、みと発した唇 加藤治郎『ハレアカラ』
★(私のひと言評 3/12)
「益荒男」は、これは遙か太古のことですよ、という詩の入口も指示している。男は初めて海を見たのであろうか。その無量の思いを込めて言葉をつぶやいた彼に立ち会う〈私〉の感動の視線は彼の唇に向いている。太古のそれよりずいぶん薄まっているだろうが、現在でも、とってもいいなあという他人に初めて出会ったり、景色に出会ったら、言葉にならない言葉、始まりの言葉のような表出になるのではないだろうか?わたしは、読んですぐ、「海(う)」(『言語にとって美とはなにか』)の場面を連想した。
37.T・Fに いつかきっと黄いろい橋の上でおまえを切りきざんでやる 加藤治郎『マイ・ロマンサー』
★(私のひと言評 3/14)
これに類するセリフは「犯罪」になる手前で、沈黙の中でつぶやいたり手紙として送りつけたり、ドラマに限らず誰にも少しはありそうに思える古典的な悪意の表出である。現在では「誰でも良かった」という不特定の他者への悪意や殺意という新たな段階を迎えている。
なぜ「黄いろい橋の上」なのかと思い、検索してみたら、ほんとに黄いろい橋が2,3見つかった。この〈私〉の何か固有のこだわりがあるのだろう。これは石か壁かに刻んだ言葉だろうか。それとも現在に相応しく、匿名のメールだろうか。
38.システムは救いの文字をトナトナと管楽よりもすずしく唱う 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
★(私のひと言評 3/15)
「トナトナ」がよくわからないが、「システム」「救いの文字」とあるから、システムが復旧したことを示すシステム側からのメッセージだろうか。〈私〉は、システム管理とかの仕事だろうか、私もパソコントラブルとかで何度か経験したが、あれこれと思ったより長くかかって復旧した時、疲労感もあるが、その爽快感は格別である。それが音楽の演奏よりもイカすぜということか。
トナトナ(となとな)は、トナー関係の店の名前かゲームの主人公位しかヒットしない。意味が近そうに思えるのに、大阪の枚方市の子ども総合相談センター「となとな」のHPに、「「となとな」とは、“いつでも「となり」にいますよ”という意味が込められています。」とあったけど、マイナーすぎるか。
わたしは、歌を読んですぐ、「ドナドナ」の歌の中の「ドナドナ(Dona, dona )」というよく意味の分かっていない言葉を連想してしまった。
39.まりあまりあ明日(あす)あめがふるどんなあめでも 窓に額をあてていようよ 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
★(私のひと言評 3/17)
意味の中心は〈私〉とまりあの情愛表現の下の句か。しかし、言葉をくり返すと「まりあ」が別の流れに変位していくような感じがある。「あ」音のくり返しが韻律の古い根源で何らかのものを指示しようとしている。ここでは、情愛のつながりか。
40.職務みな忘れろという社命あれシュークリームから噴き出すクリーム 加藤治郎『しんきろう』
★(私のひと言評 3/19)
「シュークリームから噴き出すクリーム」のように、仕事のことは忘れようにも忘れ難くどこにでも「噴き出し」つきまとい侵入してくる。ゆったりとシュークリームを食べている休憩時間であろうと休日であろうと。そういう状況での〈私〉の願望の表現。あるいは、「シュークリームから噴き出すクリーム」の「噴き出す」は、仕事のこととは関わりなくただ味わいたい充実の時だけの意味かもしれない。
41.これが最後の一つぶという自覚なく食べ終えた、そんな死もあろうよ 加藤治郎『しんきろう』
★(私のひと言評 3/19)
なにか食べていて、ああ、あ、もうなくなってしまったか。そんな体験は誰にもありそうな気がする。がむしゃらな戦闘の時代が終わり、真剣が飾り物の剣のようになった時代に、今風に言えばカッコ付けの武士道は起こった。現在では、生命保険やホスピスなどが人の死までの道すじを描く時代になった。しかし、死はそれらの様式美や計測を超えて訪れることが多いように見える。
42.ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷ乱暴なママのスリッパうれしいな して 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
★(私のひと言評 3/19)
これは、「スリッパ」とあり「ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷ」とあるから風呂場かそのシャワーの場面か。ちいさいわが子が、自分のお気に入りのことをママにせがんでいる場面だろう。父親の〈私〉は、その光景を見ているか聞いているかして、わが子はかわいいなあと思っている。わたしたちが親になってから誰もが目にするような光景である。この歌全体は、父親の〈私〉が聞いたのを書き留めるのは作者であっても、わが子のしゃべる言葉である。ということは、この歌の本歌である北原白秋の童謡「あめふり」の中の「ランランラン」の部分が小さい子の言い回しで「乱暴な」と〈私〉には聞こえたのだろう。もしかすると、この「乱暴な」には、スリッパの乱暴に見える動きという作者による意味の付加もあるのかもしれない。わたしは、この歌を初めて読んだ時「乱暴な」って何だろうとつまづいてしまった。ちなみに、わたしには「アルチュール・ランボー」が、彼のイメージ通りに「アル中乱暴」に聞こえたことがある。
43.きみの言葉はこころを素描できるかい彗星のように裂けた制服 加藤治郎『ニュー・エクリプス』
★(私のひと言評 3/19)
「きみ」は、若者。「彗星のように裂けた制服」がよくわからないが、人が激しい混乱の渦中にある青春というものの過激な比喩だろう。青春期は一般に、情念ばかりが過剰に噴出、あるいは内閉する。その激しい情念が突き刺さっているのことの比喩が、「彗星のように裂けた制服」かもしれない。そのこころは、言葉に素描するにはあまりに熱く無秩序で言葉の整序もコントロールも効かない。人はそれに耐えつつ潜り抜けるほかない。
※作品(詩)読みの練習としてやっている。加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。
24.ケーブルがフロアを巡る水滴をはげしく弾く海老をとらえて 加藤治郎『ハレアカラ』
★(私のひと言評 3/1)
一読してよくわからない歌。職場の床をパソコン関係などのケーブルが走っていて、それが床にピタッと固定されているのではなくて、少し波打つようになったりしているのだろうか。その様にありふれた日常からずれてふと「水滴をはげしく弾く海老をとらえて」いるイメージを抱いたか。
25.うすいボーン・チャイナのうえの梅の花かみあってすごす夜のやさしさ 加藤治郎『マイ・ロマンサー』
★(私のひと言評 3/1)
「ボーンチャイナ(Bone china)は、磁器の種類のひとつで骨灰磁器とも称される。ボーンは骨を指し、チャイナはそれ以前のイギリスでシナ磁器(porcelain)が多用されたことに因む。 ・・・ボーンチャイナと呼ばれる乳白色のなめらかな焼き物は、18世紀ごろにロンドンで発明された。その当時のイギリスではシナ磁器で多用された白色粘土が入手困難であり、代用品として牛の骨灰を陶土に混ぜて製作したため、ボーンの名を冠する。」(wikiより)
「かみあってすごす夜のやさしさ」は、人の性愛の表現だろうが、「梅の花かみあって」と梅の花が重なっている様のイメージも含み二重化している。その溶け合うような感じがなんとも言えないエロスを感じさせる。
26.いれすぎたシュガーのような感触がおそってくればひどく寂しい 加藤治郎『ニュー・エクリプス』
★(私のひと言評 3/2)
いろんな場面で具体性の感覚でしか言えないようなことがある。説明的な言葉を行使しなくてもそれで十分な表現でありまた伝わるものである。例えばわたしの場合、ツイッターのTLで安倍晋三の顔と出会ってしまったとき「いれすぎたシュガーのような感触」がやって来る。
27.&&&&と赤いリュックをはずませてきみは寒がりのキュレーター 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
★(私のひと言評 3/4)
「キュレーター」を初めて知った。美術館などの学芸員。若い女性で、朝の出勤の場面か。「赤いリュック」に「&」の文字が書いてあり、それが歩くか小走りするかで「赤いリュック」の上下する様子に〈私〉の視線は向けられている。「寒がりの」が気にかかる。〈私〉の知っている女性か。あるいは物語性を持たせたものか。&の記号の視覚的イメージとともに「&&&&と」という副詞的な使用が新しい。視覚的イメージ=意味として使われている。
28.ぼくはただ口語のかおる部屋で待つ遅れて喩からあがってくるまで 加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
★(私のひと言評 3/4)
これは言葉の表現の過程のことを言っているのだが、「ぼく」は先に湯から上がって「かおる部屋で」湯から「上がって来る」女を待っているという連想を誘う、性愛の表現になっている。他に同様の言葉の表現を歌った作品がある。概念的なことが具体性とともに生命感に満ちたものとしていい感じに表現されている。
定型に喩がたまるのを待っている静かな夜に扉がひらく 加藤治郎『しんきろう』
定型は国境である あしたの雨のかなたの微光 加藤治郎『しんきろう』
明治以降上り詰めた近代には、その矛盾が人の精神に写像されて、苦し紛れの意識や感性は、古今や万葉に帰っていった。そうして現在は、考古学の分野における遺伝子解析の登場と対応するように、人類史自体の岩礁にぶち当たらざるを得ないような、表現自体を内省的に表現する、せざるを得ない表現の段階に至っている。簡単に言えば、おまえはなぜ表現するのかと。太古の大らかな直接的な表出や表現とは違ってしまっている。
29.デデスデスデデデスデデス真っ青な車掌がまえの車輛から来る 加藤治郎『ハレアカラ』
★(私のひと言評 3/6)
電車に乗っていて、〈私〉の近くで急病人が出たか、何かのトラブルが起こったか。通報を受けて、車掌が「通路を開けてください!」などと叫びながら緊急状況の顔や仕草をしてやって来る。上二句の切迫したリズムや五感がおもしろい。しかも五七のリズムに載せている。作者の言葉の掌握感がすごい。
30.雨の午後届いた青い便箋のあなたの文字は裸体であった 加藤治郎『環状線のモンスター』
★(私のひと言評 3/6)
文字が裸体というのは普通なら意味不明だが、文字のスタイルである「楷書体」などと同質のものとして表現されている。文字は、書き言葉として言葉を表現する媒体に過ぎないが、石川九楊の書物から学んだことで言えば手書きされた言葉には十分に読み取れないとしても書く者の感情や考えなどの具体性が込められている。だから、書体には今では手書き時代の名残のように文字の表情の一般性があり、書体の選択は手書きに込めたある情感の一般性ようなものの表出が込められている。
〈私〉は、雨、青い便箋、書き記された文字、という状況の中で、手紙をよこした〈あなた〉に裸体の〈あなた〉のふんい気を感じている。
31.呼び出しておいて黙っているばかり舞いおりてきてひとつ蛍は 加藤治郎 『雨の日の回顧展』
★(私のひと言評 3/9)●
上三句と下二句は、スムーズに接続しているように見える。そのまま取れば童話的。しかし、この「蛍」はある女性の喩ではないだろうか。男女関係の屈折をそのもの自体としてではなく童話的なイメージと二重化して表現されている。それは〈私〉の配慮や愛か。
32.さんさんと駅までの路連れだって行くとき足がそろうのはへん 加藤治郎『ニュー・エクリプス』
★(私のひと言評 3/9)●
「さんさんと」は副詞だから用言「連れだって行く」を飾る。とするとこれは後の「そろう」と対応して「三々五々」のことか。しかし、「さんさんと」は「燦々と」も掛詞として含んでいるような気がする。歌関係のグループだろうか、〈私〉はふと足そろう光景に変な気分になった。わたしも「さんさんと」のように言葉の多義性や揺らぎを1つの言葉に込めるために、意図的にひらがなを使うことがある。
33.にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった 加藤治郎『ハレアカラ』
★(私のひと言評 3/9)
何回か読んでも歌の意味がわからなかった。すなわち、どんな場面を歌っているのかわからなかった。さらに読み込んで一応の理解を得たと思われた。家族が食卓を囲んでいる。鶏肉が入っている釜飯がおいしすぎて、みんながよく食べてまるで戦争のようだったと〈私〉が振り返っている歌か。「ゑ」の形象的・意味的表現が新しい。この歌の中心的な柱になっている。
「にぎやかに」は副詞で用言を飾るから、釜飯の鶏肉(炊き込みご飯)を鶏がつついて食べるようにみんなひたすら食べている、を飾るか。この場合、「ゑ」の連鎖は、釜飯の中の鶏肉とそれをつつく鶏の姿の視覚的イメージとともに、釜飯を食べているという動詞も含むと思われる。さらに〈私〉の驚きの「え?」も含んでいるかもしれない。
私の一応の理解の後、ネット検索したら、これを戦争自体とも関連付けている歌の理解もあった。作品の読みは難しいな。わたしもいろんな誤読をやらかしているかもしれない。この作品の肝は、「ゑ」の多重化した用法の新しさだと思える。