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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 109-112

2020年02月01日 | 作品を読む
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



109
言葉の重量や
深さや
明暗が違っても同列にひしめく



110
時代の言葉のイメージ
につながれて
上へ上へ這(は)い上がろうとあがいてるよ



111
重力に貫かれて
同列へ
滑り落ちおちおち眠れない



112
漱石の則天去私の
椅子壊れ
老(ふ)けてフツーの父は手持無沙汰だ

作品を読む ⑩

2019年05月05日 | 作品を読む
 作品を読む ⑩ (最終回)



 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。


 わたしは、ツイッターの「加藤治郎bot」による表示形態から作品に偶然出会った。そういうランダムな登場に見える作品との出会い方や、またこれが作品読みのレッスンということもあり、ひとつの歌集を取り上げるなどの作者の時系列の固有さには触れていない。しかし、ひとりの作者の作品の取り上げ方として、時系列を退けて表現の系列として取り上げることも可能な気がする。今回は、わたしのこれらの取り上げ方にはあまり方法的ではなく、ランダムな取り上げ方と言うべきかもしれない。途中から、10回くらいを目途にしていたので、今回で終わりである。

 この小さな生活世界に日々生きていて、誰もがふとささいなことに気づくことがある。誰もがそういうことを経験し、それは話し言葉の一回性のように、あるいは水中で息を放った泡ぶくのように、消えていく。こうしたことをわたしたちは何度も反復しているように見える。表現者は、それが消えてしまうのに任せることなく、それに内省を加えるから、あるモチーフを担った言葉となって表現世界に上ってくる。

99.本から帯がとれてしまったさっきからとってもそれが気になっていて 加藤治郎『しんきろう』

 読書していてこれに似た経験がわたしにもある。帯が本からはずれかかって、気になって直す場合もあるし、面倒だからと帯を外してしまう場合もある。それに対する対処の仕方は、人それぞれによっても違うし、また同じ人でも状況によっても違うだろう。どういう対処をするかに大した違いはないように見える。

 〈私〉は、読書していて帯が取れるという事態が急に起こった。人は同時に二つの事態をこなすことはできない。もし、帯が取れるという事態が読書を著しく妨げるなら、〈私〉は取れた帯に対する対処の行動を取るだろう。しかし、ここでは、それらの二つの事態があいまいな気がかりという状況に収まっている。こうしたことは、わたしたちの日常世界にはよくあることのように感じられる。つまり、この作品は、一つのささいな具体的な場面の歌でありつつ、そのよくある日常性の大道をも走っていることになる。

 作者が派遣した〈私〉が、作者があるモチーフを持って選択した日常のささいな場面を走行するとき、そのようなこと自体に触れることが大事なことなんだと背後の作者は感じているのだろう。この作品の所収は歌集『しんきろう』、2012年刊で作者が53歳くらいの時である。同じような作品でも、たとえそれを区別するのは難しいとしても、日常のささいなものへの視線の感度や質は年代によって違ってくるはずだ。断言的には言えないけど、少なくとも、これは若者の視線の感度や質ではないように思われる。

100.時がただ光であるならやさしくてあしたのレモンゆうべの檸檬 加藤治郎『しんきろう』

 レモンと言っても、食材として日常の生活世界に収まってしまうとは限らない。絵画のモデルにもなるし、梶井基次郎の「檸檬」のように想像世界で〈私〉の執着し固執するイメージや解放感のイメージとなる場合もある。

 人にとって時は、主要には平坦な自然性のようなものかもしれない。そのような時の中で、時には優しい面を示すこともあるだろうし、酷薄な形で訪れる時もあるだろう。ここでは、時が一日を推移する柔らかな光そのものであるなら、人にやさしいものであり、それぞれの光に照らされる朝の「レモン」、夕方の「檸檬」というように、人も光の推移する表情のようなものに包まれて柔らかく生きることができるんだろうな、と〈私〉はイメージしている。

 ここでの「レモン」は、日常の生活世界に据えられつつも、〈私〉の理想のイメージが描く線上に乗り生動している。

 一つ一つの作品の表現にも始まりと終わりがあるように、作品の読みにも始まりと終わりがある。読者は、見終わって映画館から出ていくように去っては行くが、読者の日々の現実のある局面で、またいつかふっと作品たちを想起することがあるかもしれない。

  (おわり)


作品を読む ⑨ (加藤治郎)

2019年04月25日 | 作品を読む
 作品を読む ⑨ (加藤治郎)


 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。


 表現の世界に入り込まない普通の生活者でも、ふと自分の子ども時代やその家族を振り返ることはあるだろう。そのような過去には、客観的な視線では数え切れないほどたくさんの場面があるはずだとなるが、記憶の海からよく引き揚げられるものとそうでないものとがあり、引き揚げられてくるものはそんなに多くないように感じられる。よく想起されものは、記憶の海からなぜかよく引き揚げられるものであるが、それにはその人の「太洋期」(吉本隆明『母型論』)辺りに始まる心性の固有性の有り様が大きく関わっているように思われる。他人にも自身にも、意識的・無意識的なものが関わるその場面の微妙を伴う総量はよくわからない。また、そのような人間的な心的な機構については現在でも依然としてよくわかってはいない。

 表現者の場合には、普通の人々がふと自分の過去を想起したり、振り返ってみたりする自然性とは少し違っている。作者は、自らの想起する自然性を含めて、表現の場に或るモチーフを携えて意識的に内省的にイメージを構成することになる。もちろん、そこにも作者の無意識的な部分も存在する。

 おそらく少年期や青年期やその頃の家族を対象としたと思われる作品を任意に取り出してみる。


85.父の音妹の音思い居り蜜柑の霧につつまれて寝る 加藤治郎『ハレアカラ』

86.弟は鏡の裏の錆をいうそれはわたしのとおい砂浜  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

87.ママの肩にタオルがのせてあることの悲しくて去る昼の美容院 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

88.くらがりに下着をたたむいもうとをみまもるわれはかなしかりけり 加藤治郎『しんきろう』

89.ひるさがり天道虫を手首から腕に這わせて妹は眠る 加藤治郎『ハレアカラ』

90.てのひらの花びらを吹くいもうとよおろかな恋におちてわたしは  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

91.きりんさんしゃんぷうかして はいはあい電球いろのいもうとの足 加藤治郎『マイ・ロマンサー』

92.みのむしのふかるる昼はねむたくてぼくらダンボールの聖堂にいる 加藤治郎『しんきろう』

93.父とわれ食券それぞれ握ってたビーフカレーのとろけるビーフ 加藤治郎『しんきろう』

94.人生に夜明けがあれば小学校野球部入部テストの暴投 加藤治郎『ハレアカラ』


95.人形のお腹を裂けば(おにいちゃんったら)地下鉄の路線図みたい 加藤治郎『環状線のモンスター』

96.王冠のビールの匂い嗅いでいたあの夏の午後少年だった 加藤治郎『しんきろう』

97.おひるねのうさぎの顔を先生がまたいでゆくぜ ぼくらの薄目 加藤治郎『マイ・ロマンサー』

98.シーソーの上がったままのいもうとを見つめてぼくはゆうばえのなか 加藤治郎『しんきろう』



 人が詩(短歌)を作る場合、表現世界に向かう〈作者〉に変身して、具体的には物語で言えば〈語り手〉や〈登場人物〉のように〈私〉あるいは〈彼(彼女)〉が表現の舞台上を走行する。〈作者〉は、それを書き留める者でもあるが、その舞台を背後で監督のように眺める者でもある。物語の場合、作者のモチーフを担うのは、作品世界全体ではあるが、主要には〈語り手〉に導かれた〈登場人物〉の中の主人公である。詩の場合は、作者のモチーフを担うのは、物語の〈語り手〉と〈登場人物〉が二重化した〈私〉の振る舞いにおいてと言えそうである。〈作者〉と作者が表現の舞台に派遣する〈私〉とは同じと見なしてもよさそうだが、実際は〈私〉は、私小説的な〈私〉をも含む想像によって仮構された〈私〉である。また、例えば、作者はそのひとつひとつの作品群の歴史をも担いそれらに責任を持つ者であるが、〈私〉はある表現の舞台における一回性の存在である。こういう意味でも〈作者〉と作者が表現の舞台に派遣する〈私〉とは区別すべきだと思われる。

 この少年期・青年期やその頃の家族を対象とした作品には、大まかに三種類に分けられるように見える。ひとつは、子ども時代に遡行した〈私〉がその過去の時空に入り込んで見聞きしたことや行動したこと自体の表現(85、87、88、89、90、91、95、98)。ふたつ目は、前者のようでありつつ、そこに〈私〉の現在の視線や考えが介入している表現(92「みのむしのふかるる昼は」、94「人生に夜明けがあれば」、97「(またいで)ゆくぜ」)。最後は、現在の〈私〉が過去を回想的に表現したもの(86、93,96)。

 93は、ひとつ目に入れてもよさそうだとか、はっきりと分け難いのもあるが、これは、作者の表現の手法を示すもので、別に大きな意味はない。しかし、これらはわたしたちが自身の過去を対象化する場合のやり方でもある。

 いずれにしても、表現の世界を志向したとき、現在の〈作者〉の意識的、無意識的なモチーフが、過去の時空へ行って帰ってきて、これらの言葉を引き寄せ、連結し、かたち成さしめたという点では同一である。

 ここに描かれている場面は、日常の中のささいな場面である。なぜそれが読者の感動を呼び起こすのだろうか。無数に言葉が消費されている現代では、風景と同じように言葉を眺めていたら、感興もなくそのまま通り過ぎてしまいそうである。自分自身の言葉の場合を含めて、言葉も眺められる外皮は、月並みな乾いたものに見えるかもしれない。現在は、心と同じく言葉も疲弊している。正しくは、疲弊した外界の精神的な大気に浸かった心は、つい疲弊した言葉の風景を引き寄せると言うべきか。それでも人は、みどりやひかりを求めようとする。

 そうした時、作品の言葉との出会いは、なにものかを起動させる。誰もが同じような少年期や家族を経験して現在がある。その「同じような」ということが、作品の言葉によって読者の過去を喚起させ、作品のイメージ世界にダイブさせる。そうして、ある場合には苦を伴いつつも、生きてきた、生きているということに柔らかなライトが当たる。それが言葉に言い表しがたい無量の思いをわたしたちに湧き上がらせるのだろうと思う。作品との出会いは、同時に自分との出会いにもなっている。

作品を読む ⑧ (加藤治郎)

2019年04月19日 | 作品を読む
 作品を読む ⑧ (加藤治郎)


 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。



 今回は、エロスの表出、性愛表現の作品を取り上げてみる。個々の作品の具体的な読みにまでは下りて行かないで、エロスの表出である性愛表現について考えてみたい。

 吉本さんが晩年に日本人のエロスについて触れている。


吉本 先程、僕は自分の中にエロスが薄いということを言いましたが、そもそも僕は日本人にはエロスが薄いんじゃないか、と思っています。民族性か種族性か、どう呼んでもいいんですけど、この種族がエロス的にどうなのかと言えば、全体として物凄く薄いんじゃないかと思います。日本人の中からサドとかバタイユのような、そういう作家を求めようとしても難しい。みんな何かにすり替わっている。エロスをエロスとしてそのまま、サドのような作品が書けるのか。書けば書けるのかもしれない。しかし文学だけで言いましても、数えるほどもそういう作家はいない気がします。

――それは宗教的なものも関係しているんでしょうか?サドもバタイユも、そのベースにキリスト教的な土壌があるという点において、日本とは環境が異なると思えるんですが。

吉本 本当にそう思いますか?僕はそこに疑いをもちます。日本においては何かがエロスに入れ替わってしまっている。エロスが全開にならぬところで、外らされてしまっている。特にそれが外に現れる時に非常に貧弱な気がします。自分の内面において自分自身と話をしていると、すごいエロティックな男のように自分では思えるんですが、それが表れとして外側には出てこない。そこには日本の家族制や血縁性の強固さというものが、ヨーロッパなどに比べると非常に大きく作用していて、その問題じゃないのかなっていう気が僕はします。

――その点について、もう少し詳しくご説明頂けますか?

吉本 関心が薄い、強いというのは表層的な部分です。つまりエロティックなものが外に向かって表象されないということなんです。同種族間の結合力の方にエロティックな問題が回収されてしまっている、血縁の男女間の繋がりが非常に強固であるのが妨げになって、エロスの問題が語られづらくなっているように思います。そこでエロスが何かにすり替えられてしまうんですね。しかし、これは一歩間違えれば近親相姦の領域に入ってゆきかねない。
(インタビュー 「性を語る―コイトゥス再考―」2011年7月5日『吉本隆明資料集179』猫々堂 )



 エロスが全開で表現に上ってくるヨーロッパに比べ、この列島社会の個のエロスの表出や表現の特異さが、列島社会の慣習や家族制と関わるものとして語られている。今のわたしはよくはわからないが、そう言われれば、なんとなくそうだなあと思い当たるような世界である。

 例えば、表現者の中上健次や岡本太郎は、具体的な相手が存在する性愛においてはどうだったかは知らないが、表現の世界での表現的なエロスは―もちろん、具体的な性愛の振る舞いと何らかの対応性を持つはずであるが―、作品を見ると骨太のエロスが全開されているように見える。物語の世界では、中上健次や村上春樹に限らず大衆小説含めて考えれば開けっぴろげの性愛描写や性描写は存在してきたのかもしれない。わたしは、サドもバタイユもまともには読んでいないので、明確には中上健次や岡本太郎と比べることができないが、わたしの印象で言えば、サドもバタイユもまさしく全開のエロスだとして、中上健次や岡本太郎にはどこかで押し止めるもの、自然による希釈のようなものがあるような気がする。村上春樹の作中の性愛表現は、自然による希釈ではなく、エロスの開放と抑制が作品世界や作品イメージの方から無意識的であれよくコントロールされているような気がする。

 よく言われるように、この列島社会では、古くは性が大らかに捉えられ表現されていたという。それは、例えば正月の祭りなどで安産を願う要素も含まれているなど、生活世界の宗教性とつながった意識だと思うが、そうした風習が後々の個の表現としての物語にも影を落としていたのだろう。例えば、わたしの小さい頃はまだ自宅で結婚式もしていた。今から半世紀くらい前のことである。わたしが目にしたことであるが、父方の叔母さんの結婚式で、余興で親戚の人が股間に一升瓶を当てながら歌い踊っていた。たぶん何か卑わいな歌だったのだろうと思う。何となく恥ずかしい感情を持った覚えがある。それは、真面目に言えばトリックスターのように振る舞いながらも結婚する当事者への祝福や祈願の表現に当たるものだったのではないだろうか。このようないくつもの生活場面を潜り抜けて、わたしたちは、エロスの表出や表現について自然にあるいは無意識的に学んできたのだろうと思う。吉本さんは、ヨーロッパの代表的な表現者たちのエロスの表出・表現とわが国のそれの比較から、その背景を照らし出していることになる。

 ところで、作品から作者の性愛(エロス)の表現を任意に取り出してみる。


71.木星はきのう消えたの金星はくらくらしてきちゃったあ さわって 加藤治郎『マイ・ロマンサー』
72.屋上でしようじゃないか杏ジャムフライドチキンその他しゃぶりあって 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
73.じきぼくをなくすぜなくすチェック・イン、チェック・アウトのやわらかなキイ 加藤治郎『マイ・ロマンサー』
74.暗黒の男根としてわれはあり煙草のけむり貫きながら  加藤治郎 『雨の日の回顧展』
75.画面には隣のビルの屋上に飛び移る刑事(デカ)、やりながら観る 加藤治郎『環状線のモンスター』
76.表情はふたつしずかに横たわる 水のうごきにしなうみず草 加藤治郎『マイ・ロマンサー』
77.水草に鰭(ひれ)ゆらしてるらんちゅうよ出ておいで、ゆるく咬んであげる 加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
78.つややかな水を出しあうおたがいのいたるところがゆるされていて 加藤治郎『ニュー・エクリプス』
79.星雲のようにひろがる体液をすするのえんえんとえんえんと 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
80.虹のように脚をひらいてきみは待つ暗い回転扉の彼方 加藤治郎『ニュー・エクリプス』
81.はずしあう白いボタンのいらいらとはじまるときの息はせつない 加藤治郎『しんきろう』
82.聖なるかな! おまえの足は聖なるかな口にふくめばマニキュアのにがさ 加藤治郎『マイ・ロマンサー』
83.あなたってぬいだばかりのブラウスを胸にあてあなた文語のようだ 加藤治郎『しんきろう』

84.湖に霧がながれてゆくようにあなたのほそいおなかがしなう 加藤治郎『ハレアカラ』


 わたしは、近代以降の短歌の歴史に詳しくないが、少し見知った感じでは、このような性愛の表現の登場は新しいような気がする。ちなみに、作者の加藤治郎が次のように述べている。


 俵の文章を引く形で仙波が発言しているが、この時代を象徴する三つのキーワード、それは、林あまりのFUCK、仙波龍英のPARCO、そして俵万智のカンチューハイだったのである。

 生理中のFUCKは熱し/血の海をふたりつくづく眺めてしまう
                       林あまり『MARS☆ANGEL』
 夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで
                       仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』
 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
                       俵万智『サラダ記念日』

 風俗とコマーシャルな固有名詞の解放は、現代短歌がサブカルチャーの領域に開かれたことを人々に印象づけた。時代がFUCK、PARCO、カンチューハイを摘出し、流通させたように思える。
 (『短歌のドア』P179-P180 加藤治郎 2013年)



 短歌の作者たちも時代に促されるようにして、互いに響き合いながらこのような表現を生み出してきているのだろう。わたしの場合は性愛の表現にはほとんど踏み込むことはないが、このように表現として開放されることはいいことだと思う。短歌表現から見れば、それは表現の拡張に当たっている。

 上に取り出した作品に表現された〈エロス〉の表現の特色を挙げてみると、開放的、直線的、エロスへの没入、しなやかさ、ということになるだろうか。ここには、ある精神の遺伝子を持つ列島社会の表現世界で、時代性と個の固有性とが交差しながら〈エロス〉が表現としてかたち成そうとする姿がある。

 この作者を含めて上のような作品群の背景には、吉本さんが解明してみせた1970年代以降の「消費資本主義」社会の成熟の現実がある。作品たちはその社会の有り様を意識的に感受しているはずである。個の意識としてみれば、旧来的な束縛から解放されて、意識としても表現としても自由度を増大させたと言えるだろう。この旧来的なとは、当然旧来の社会性であるが、農村性や地域性と関わるものだったように思う。(旧来的な束縛を例示すると、今から半世紀くらい前には、フォークソングなどは不良で敬遠すべきもの、女性は二十代前半くらいで結婚するのが当然、などなどの生活世界と結びついた慣習や倫理が存在した。そのようなものが、総仕上げのようにすっかり剥げ落ちてしまったということ。別の言い方をすれば、産業社会の変貌によって、お金による交換、そして消費という活動が、旧来的な組織性や精神性を解体してしまったということ。)


作品を読む ⑦ (加藤治郎)

2019年04月13日 | 作品を読む
作品を読む ⑦ (加藤治郎)
 


 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。


61.れれ ろろろ れれ ろろろ 魂なんか鳩にくれちゃえ れれ ろろろ 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 4/7)
〈私〉は、ハトの無心な鳴き声(と言っても、ハトなりの事情があるかもしれないが)に感応して、自らの悩み(人間の煩悩に満ちた魂)も「れれ ろろろ」と捨てちまおうぜとふと思う。下の句の「れれ ろろろ」は、ハトの鳴き声から独り立ちして〈私〉の心を通過してきた言葉(擬音)、人間的な無心を表出する言葉となっている。



62.香るまで生姜をすればゆらゆらと中村歌右衛門の肩かな 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 4/7)
自宅で香り立つほど生姜をすっていて、ふとその生姜の揺れ動く様を見ていると、なんだか中村歌右衛門(歌舞伎役者のよう。わたしは知らない。『ハレアカラ』は、1994年刊で、六代目 中村歌右衛門は、2001年に亡くなっているから、この役者のことか)の肩のゆれ(見得を切る姿か)のようだな、というユーモラスな歌。



63.消しゴムの角が尖っていることの気持ちがよくてきさまから死ね  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 4/8)
「きさまから死ね」は、ドキッとする暴力的な言葉だが、これは書いた文字を消すということだろう。だれでも―特に、子どもは―、このように心の内でつぶやいたり、ひとり言を言ってみたりすることがある。

類歌に次の歌がある。「向日葵の種」→「迷惑メール」→「みなごろし」とイメージが、飛躍・連結される。実際は、自宅の庭の向日葵の種の収穫か。これも内心の遊び心のようなものにすぎないが、人間の精神は不可解なことに、そのようなイメージの連結を真面目に病としてしてしまう場合があり得る。カミュの小説『異邦人』では、主人公ムルソーは、「太陽が眩しかったから」というだけの動機で殺人を犯す。吉本隆明『母型論』を経た後のわたしたちは、人の病的な行動には不条理というよりも〈母の物語〉の不幸が深く関わっているのを知っている。また、個が精神の大気として日々呼吸せざるを得ない社会の病もそれに加担している。

向日葵の種は迷惑メールほどみっしりならぶ みなごろしだ  加藤治郎『しんきろう』



64.その顔はわたくしですか(冬でしょう)そうですそれは夜明けなのです  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

★(私のひと言評 4/8)
この歌は、わたしには不明歌である。普通に構成された表現と思ってたどってゆくとつまづいてしまう。〈私〉に現実的にか想像的にか聞こえてくるいろんな言葉を一見ランダムに並べたものであろうか。これが詩なの?と思われそうだが、どんなことにも詩(情)は成り立つ。作者は、いろんな声を聞いている〈私〉のある心の状態を描写している。以前に取り上げた以下の歌と同様の詩的表現の拡張に当たる実験的作品である。
50.ねえ?(ちゃんと聞いているのというふうに)ん?(なんとなく)煙はうたう
55.ねばねばのバンドエイドをはがしたらしわしわのゆび じょうゆうさあん



65.器から器に移す卵黄のたわむたまゆらふかくたのしむ  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

★(私のひと言評 4/9)
わたしは、小さい頃兄弟で生卵を飲み込んでいて失敗した経験があり、おそらくそこから生卵は食べることができなくなった。ちょっと敬遠すべき生々しさを感じてしまう。だから、この〈私〉の感覚はほんとうはよくわからない。ただ、ぷるんとした生命感あふれるもの、それを取り込むことを想像して〈私〉の心波立つのだろうなあとは思う。



66.UnknownそうUnknownひろがりて首都埋め尽くすそうUnknown  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 4/9)
「Unknown」は、プログラム用語としても出会ったことがある。具体的には、そのメッセージに触発されたか。ここは名詞で「無名の人」の意味だろう。当然、社会意識や政治意識の場面での欲求やイメージ表出の表現。「Unknown」がくり返されて、呪文のような響き、あるいは固執されたイメージを響きとして喚起する。『しんきろう』は、2012年刊。政権交代した民主党政権は2009年9月から2012年11月の間だから、このような政治情勢下で上記の歌のような表出・表現のモチーフを抱いたか。



67.昨夜だが。俺のあたまに足あとをつけていったな、鉛の靴で  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

★(私のひと言評 4/10)
昨夜〈私〉は飲み過ぎたのか、あるいは悩み事があったのか、今朝は頭が重い。こういったありふれた光景をユーモラスに表現したもの。ありふれたことを「昨夜〈私〉は飲み過ぎたせいか今朝は頭が重い。」とありふれて表現しても詩的な感動はほとんどない。
吉本さんが、古代には敵が攻めてくるなどの人事はそのもとしてではなく木々が揺れ騒ぐなどの自然の喩のような形でしか表現できない段階があったとどこかで述べていたが、その段階でも普通のありふれた表現と詩的な表現の区別はあったのだろうかとふと思ってしまった。少なくとも日常的な話し言葉と知識層の専門的な書き言葉の世界の間には現在以上の断層があったろう。



68.旅立ちの朝の恐れ鶏卵の殻より垂るるひかりは昏し 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 4/10)
『ハレアカラ』は1994年刊で、作者35歳頃である。前にも書いたように思うが、作品の本質は実体験かどうかには関わらない。作者が、この世界から素材として選択し表現世界の〈私〉のイメージの旅程として書き留める。ただし、そのことに作者の年齢は関わりがありそうに見える。人は、その年齢によって見える世界の地平が違いそこで感じる情感の質も違ってくるからである。

〈私〉の旅立ちがどういうものなのかはわからない。一般的には就職や結婚など思い浮かべるが、いずれにしても今までと違った世界に入り込んでいくとき、人はどんないいことがあるかなと期待もあるかもしれないが、緊張や恐れもあるだろう。その色んな感情が入り交じった上での「恐れ」を、「鶏卵の殻より垂るるひかりは昏し」と日常の普段はほとんど気にも留めないような微細な情景として描いている。



(不明歌について二首)
加藤治郎の作品で、わたしが読み取れないものは多いのだが、ちょと意識的にそういうのも取り上げてみる。他者理解と同じように固有の作者の作品理解も時間というものがかかるような気がするが、読者は誤読(誤解)を恐れず出会いをくり返していくほかない。ちなみに、専門の歌人たちでさえ―人間関係に例えれば、親しい間柄でさえ―様々な違った読みをすることがある。(『短歌のドア』P152-P157 「雪よ林檎の 北原白秋を読む」 加藤治郎)
付け加えると、吉本さんが晩年に語っている。〈まだ俺は、俺の考え方の底のほうまで理解してくれた人はおらんな、っていうそういう感じがします。〉(「吉本隆明さんを囲んで① 」、聞いたひと…前川藤一、菅原則生 2010年12月21日、「菅原則生のブログ」より) 吉本さんの著作も膨大だが、それに負けないほど吉本隆明論も多いのではなかろうか。それでも、本人の思いは、わかっちゃいないなあと言うことである。このことは、一般には身近な他者の理解さえ難しいということ、同様に、表現者やその作品を、意識的なレベルから無意識的なレベルに渡って、ほんとうに理解することは、とっても難しいということを意味している。

69.あちこちで着信音が鳴る朝のぼくたちはあと一〇〇文字生きる 加藤治郎『環状線のモンスター』
70.toshio_tamogamiとhatoyamayukioに挟まれてつぶやく俺は歯ブラシである 加藤治郎『しんきろう』

(私のひと言評 4/11)
69.
職場の朝、カスタマーサービスの部署か。客からかかってくる電話にまず「ぼくたち」電話機が応答する。マニュアル的な応対の言葉だが、客に応答する「・・・ならば何番、×××ならば何番を押してください」と言うようなメッセージのことを「あと一〇〇文字生きる」と言ったものか。無機物の機械やシステムを「ぼくたち」と擬人化したところが新しい。しかし、現在の社会では、銀行の現金自動預け払い機のように、昔は人間が対処していたこともこのように機械やシステムが取って代わった社会になっている。だんだん『スタートレック』の世界に近づいている。
 
70.
「toshio_tamogami」(2010年1月に登録)と「hatoyamayukio」(2009年12月に登録) は、ツイッターのアカウントで、それぞれ「田母神俊雄」と「鳩山由紀夫」か。「挟まれて」とは、よくわからないけどツイッターのタイムラインで、「toshio_tamogami」のつぶやきの次に〈俺〉がつぶやいて、次に「hatoyamayukio」のつぶやきが流れてきたということ。偶然に実際あったことか架空の表現的な設定かまではわからないし、そんなことはたいした問題ではない。「俺は歯ブラシである」がよくわからない。互いに相対する考えの者(言葉)にはさまれて、それを歯にはさまってきたように感受し、少し圧迫感を感じ、〈俺〉は歯を磨いてきれいにするようにつぶやく、すなわち自分の存在を確保するという意味か・・・。(読みとして、ちょっとすっきりしないなあ。)

調べてみると、政権交代した民主党政権は2009年9月から2012年11月の間であり、『しんきろう』は2012年刊であるからこの作品は、民主党政権時代の作品か。新たに生み出されてきたSNSという仮想世界では、日常の具体的な生活圏では起こりえないようなことが起こる。しかし、人はそんなことにも次第に慣れてゆく。


作品を読む ⑥ (加藤治郎)

2019年04月07日 | 作品を読む
 作品を読む ⑥ (加藤治郎)



 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。


52.かたかたと人面機関車われにきて生産性を落せ、つぶやく 加藤治郎『ニュー・エクリプス』

★(私のひと言評 3/31)
●「人面機関車」と言えばNHKテレビで時々見かける『きかんしゃトーマス』。子どもが小さい頃には、親はこのようなものもよく目にする。作者44歳位だから、これは〈私〉の子どもがその模型を持っていて〈私〉の方にいっしょに遊ぼうよとかたかたと動かして来るイメージだろうか。「生産性を落せ」という言葉は、例えば子どものあそぼうよ等という言葉を、〈私〉がそうユーモラスに大人言葉で受け取ったということ。〈私〉は、自宅で短歌関係のことを取り組んでいて、そこにそんなふうに子どもがやって来たか。もちろん、転がっている「人面機関車」をふと目にしてそのような場面を構成したとも取れる。作者の表現の具体的な現場にたどり着くのは難しい。



53.千々石ミゲル、さみしいなまえ夏の夜のべっこうあめのちいさなきほう 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 4/2)
千々石ミゲルについては、「天正遣欧少年使節」の一員だった位しか知らない。「千々石ミゲル」(Wikipedia)によると、日本に戻ってから、「次第に教会と距離を取り始めていた。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。 」とある。また、「1601年、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。」「千々石は棄教を検討していた大村喜前の前で公然と『日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである』と述べ、主君の棄教を後押ししている。」と、どんな資料によるとは書いてないが、このような記述もある。
 
少年の千々石ミゲルは、初め純粋な心と希望を胸に遙かなヨーロッパの地を目指したのだろうが、宗教が政治や地上的な利害と結びついている様を目の当たりにして失望したのかもしれない。こうしたことや秀吉の1587年と1596年の禁教令の動向も関わりがあるのかもしれない、棄教している。こういう状況で生きていく千々石ミゲルのイメージは、「さみしいなまえ」とならざるを得ないだろう。
 
昔は、晴れやかな若々しい時代もあったかもしれないが、棄教して「千々石ミゲル」を脱ぎ捨てた千々石ミゲルは、目立たないさみしい晩年を送ったのかもしれない。ちょうど「夏の夜のべっこうあめのちいさなきほう」のように。これを私たちに拡張すれば、誰でも遠い未来から振り返ればそのようなちっぽけな儚いイメージに映るのではないか。と、〈私〉はイメージを走らせ、イメージを収束させている。



54.冬のドア細くあけたりあかあかと太郎次郎は寝返りを打つ 加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 4/2)
所載の歌集からすると作者53歳頃の作品だから、これは子ども(たち)の小さかった頃の昔をふと思いだした歌だろうか。わたしたちは誰でも現在を重力の中心のように生きているから、現在的なものが表現の素材やモチーフとしても押し寄せて来やすい。そのような中、何かをきっかけにこのように過去のことをふと想起することもある。

この歌を読んで、以下の三好達治の詩「雪」をイメージした。本歌取りのようなものとして意識されていると思われる。

  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

だからこの歌でも、三好達治の詩「雪」と同様に「太郎次郎」はこの列島のこどもの代表として歌われている。ただしモチーフとしては、三好達治の「雪」が宗教的な自然思想に収束するのに対して、こちらは人間界の誰にもある情景として表現されている。
親である〈私〉が、様子見に子ども部屋のドアを少し開けると部屋に明かりが差した。その明かりにあかあかと照らし出されるように子どもらが寝返りを打った。心のどこかでほっとして引き返してゆく。どこの家族でも子どもが小さい時には親が経験することである。



55.ねばねばのバンドエイドをはがしたらしわしわのゆび じょうゆうさあん 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 4/4)
数回読んで、上の句はわかる、下の句もわかる、しかし、その連結の意味や場面がわからない。もう少し言葉の森に入り込んでみる。わたしにも経験がある。傷の手当てにバンドエイドを貼っていて、もういいかなとはがしたら傷は塞がっているがしわしわの指になっている。一瞬びっくり。そのとき、「じょうゆうさあん」と人を大声で呼ぶ女性の声が聞こえた。びっくりつながりだろうか。職場の光景に見える。上の句のバ音の連鎖やねばねばやしわしわという感覚的な擬音語の使用がよく肌感覚を表出している。下の句のひらがな表記も上の句のひらがな使用に連なりつつも、話し言葉の感じを演出している。

この歌を最初に読んだとき、「じょうゆうさあん」にひっかかった。オーム真理教の広報担当として昔ひんぱんにテレビに出ていた上祐さんである。オーム真理教の地下鉄サリン事件が1995年3月20日でこの前後に彼はテレビによく出ていたと思う。『昏睡のパラダイス』 が1998年刊である。と、ここまで来てわたしは引き返した。他者理解でも作品の理解―短詩型文学では特に―でも、相手(作品)の言葉の受けとめ方次第によって、限りなく誤解の線上を走っていくということがあり得る。ここから、上のような理解に進んでいった。



56.病葉の日本語一語くちびるに貼りつきながら普通の暮らし  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 4/4)
「病葉」(わくらば)という言葉は、わたしには耳慣れない言葉だが、夏の季語で「病気や害虫にむしばまれて変色した葉。特に、夏の青葉にまじって赤や黄に変色している葉」のこと。文学でも表現の世界の行きがけでは作品を作るのが楽しいとかあり得るだろうが、その行きがけを突き進んでいくと、自分はなぜこんなことをやっているのだろうか、これは一種の取り憑かれた病気ではないかというような思いが訪れてくることがある。それは、表現とは何なのかという帰りがけの課題を抱え込むことにつながる。この意味で、表現者は人間的な精神の病(「病葉」)を抱え込むことになる。

それはまた、日々の生活の時間でも生活と表現関係とうまく振り分けているときは、二重生活として安定しているだろうが、いずれか一方が時間としても浸食すると二重存在の私は不安定な状況に追い込まれる。こんなときなぜこんなことをしているのだろうという内省が訪れやすい。生活者と表現者は、微妙なバランスの上に成り立っている。



57.むせかえる苺畑のうすあかり集団殺戮(ジエノサイド)には段階がある 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 4/5)
人は、何をきっかけに別の何かを連想することがある。それは人それぞれの固有の世界が関わっているのだろうが、どういう心的な機構でそうなるのかはわからない。見ることは、人の〈了解〉というフィルターと連結されて多重化される。どんなありふれた光景がどういう讃歌や惨劇に結びつくのかわからない。

場面がはっきりとはわからない。夕暮れ時に「うすあかり」のこぼれるハウスのイチゴ畑をのぞいた場面か、そんな状況でのイチゴ狩りの場面か。あるいは、イチゴ狩りは想像しただけか。ここでは、ハウスの中実際の「むせかえる」中での「イチゴ狩り」のイメージが、次の段階を踏んで進行する「集団殺戮」への連想を表現として引き出している。



58.てのひらの先に五本の指があるそのようにしてきみと出逢った 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 4/5)
この歌は、表現の事実性としてみれば「きみと出逢った」ということにすぎない。その出会いの場面を、視覚的なイメージとして喚起するのではなく、意味的なイメージとして喚起させようとする。劇的な出会いというわけでもなく、ありふれた出会いだったということか。このような表現は、村上春樹の作品の中で時々出てくるフレーズ ―そのフレーズを思い出せないが― のような印象を持った。



59.
とっぷりと樹液の充ちた肉体が起きあがるときわれは夕闇   加藤治郎 『雨の日の回顧展』
ゆっくりと大きな舌が垂れてきて真夏の水に届きそうだな   加藤治郎『マイ・ロマンサー』
青空の患者のような雲がきてぷうくう無垢な雲にひっつく   加藤治郎『昏睡のパラダイス』
海蛇の東西線と交差する雷の銀座線 まなまな   加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 4/5)
例えば、江戸時代の地震のイメージは、当時の人々がどの程度信じている本気度があったかわからないけれど、大地の下に大ナマズがいて暴れるからだと言われている。当時の絵にも描かれている。今では荒唐無稽に見えるイメージや捉え方であるが、地震という自然の猛威をその時代に何とか理解し対処しようという心意の表れであろう。太古から自然の猛威・恵みや人間界の敵対する集団への表現としては、水神としての大蛇やヤマタノオロチ(八岐大蛇)などのイメージを生み出してきた。自然などの振る舞いの把握方法として、そういう自然物のイメージとの連結方法しか知らなかったからだろうと思われる。しかし、近代以降はそれに代わって、ギリシア-ヨーロッパ由来の自然科学の捉え方がわたしたちの自然認識になってしまった。近世までと近代では、わたしたちの自然認識の方法に断層ができてしまった。

とは言っても、現在でも近世までのような自然などの捉え方やイメージは生き延びている。特に、小さい子どもの世界はそういう世界把握に今でも親しいと思われる。これらの歌は、そのような世界把握・世界イメージの表現に見える。



60.いんいちがいちいんにがに陰惨な果実の箱はバスの座席に 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 4/6)
掛け算九九の1の段の「いんいちがいちいんにがに」が、序詞として下の句「陰惨(いんさん)」を導いている。しかし、「陰惨な」の意味・イメージがわからない。果実は、ミカンかリンゴだろうか。わたしのいる地方では、バスは数人しか乗ってない場合もよく見かけるが、ここではバスが混んでいるのに果実の箱を持って乗り込んだ者があって、しかもその箱が座席を占領しているということか。わたしなら(なんだこのやろう、困った者だ)という感情が湧くだろうから、「陰惨な」(暗くむごたらしい感じ。)がわからない。読みのイメージが確定できない。目下、不明歌。歌の註などがあるか誰かの読解があるかとこの歌に検索かけてもヒットしなかった。

思い直して、新たな読みとして、次のようなことを思いついた。わが国では目下そういうことがないからわたしの上のような読みになりがちかもしれないが、これは「自爆テロ」の場面ではなかろうか。異国のバスの中の座席にその地の果物の絵が描いてある箱が置かれている。中にあるのは爆弾。「自爆テロ」とすれば近くに実行者がいる。乗客はいつものように乗っていていつもの光景だ。誰も不審に思わない。「いんいちがいちいんにがに」は、「陰惨(いんさん)」の序詞と同時に、緊迫した爆発への秒読みに当たっているように感じられる。場面の緊迫感を生み出す効果的な表現になっている。表現世界に入り込んで変身した作者、すなわち〈私〉はそんな場面を想像し表現している。これなら、「陰惨な」のイメージに合う。わが国でも近年は、どうも単なる事故ではなくて車が人の列に突っ込んできたり、知らない者に急に刺されたりという事件に象徴されるように、少し不気味な社会になってきていて、こういう歌の場面ともまったく無縁というわけではないようだ。

技法的な類歌に次のようなものがある

古書店にみつけた螢ひいふうみいようしゃなく恋はこころを壊す 加藤治郎『ニュー・エクリプス』


作品を読む ⑤ (加藤治郎)

2019年03月30日 | 作品を読む
 作品を読む ⑤ (加藤治郎)
 



 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。


44.夜の霧ってあるものね、あるものさ 代々木競技場の屋根がひかってる 加藤治郎『マイ・ロマンサー』

★(私のひと言評 3/24)
現実でも虚構でもいいけど、代々木競技場近くにふたりがいる。「夜の霧ってあるものね、あるものさ」、たったこれだけで場面を強力に形成する。二人が偶然のようないい感じの光景を共有している。下の句の描写からすると作者のその場の現実体験が基になっているように感じられる。しかし、作者が映像で下の句の場面を偶然に観たということも考えられる。いずれにしても、作者は言葉と音数律によって場面を選択・構成し、表現世界に表現として織り上げる。そのきっかけや素材が、実体験か間接経験かにさして意味はない。



45.ぴりんぱらん、ぴりんぱらんと雨がふる あなたにほしいものを言わせた 加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 3/25)
人の心は不可思議なもの。その場のふんい気で言いたいことが思いきって言えたり、引っ込めてしまったりすることがある。「あなた」がほしいと言ったことの促しの雨のように、〈私〉は「ぴりんぱらん」と降る慈雨の雨を感じた。雨ひとつとっても感受はさまざま。「ぴりんぱらん」の音感が独特。

〈私〉の自身のストローか(相手のものの可能性もあるが)、深刻な心理状況にありつつも、そういう自分を客観視するような、ぼんやりとした視線を感じさせる。類似の表現として。
そして切り出すほかなくてストローを赤いソーダがもどっていった 加藤治郎『昏睡のパラダイス』



46.親指で打つ文字たちはおやゆびの(わ)(わた)(わたし)(私)暗がりにある 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 3/25)
「親指で打つ」は、わたしは名前くらいしか知らないけど「親指シフト」という日本語入力方法のことか。書き言葉であれば、心は文字として書き記さなければ言葉として現前しない。「おやゆび」は、心から言葉へ渡ってゆく固有の〈私〉の親指で、〈私〉の心の走者となった者ということ。画面には、文字一般が(現れ並んで見える。) しかし、その背後(「暗がり」)には、(わ)→(わた)→(わたし)→(私)という、言葉にうねり上る〈私〉の時間の劇がある。



47.もこもこと頭の動くペコちゃんを横抱きにして月夜を駆ける 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 3/25)
歌集『環状線のモンスター』は、2006年刊行とある。この歌は、その頃作られたものだろう。検索してみると2004年から2009年にかけて店頭からのペコちゃん人形盗難事件がいくつかヒットした。わたしはテレビのニュースで聞いたことがある。これが作者のイメージを刺激したのかもしれない。首が可動式なため「もこもこと頭の動く」ペコちゃんを横抱きにして月夜を駆けるイメージは、盗難という次元を超えて、どこか童話的なイメージに映る。ちなみに、私の学生時代、一時寮生活(天井の高い古い木造の建物)をしていたが、先輩の部屋で重いコンクリートの台の付いたバス停の標識を見かけてびっくりしたことがある。おそらく、夜中に酔いに任せて何人かで近くのバス停から颯爽と運んできたものだろう。世間から半ば許されたような大学生の世界では昔はこんなこともちらちらあったようだ。今の大学生は、どうか知らないが、最近の職場での悪ふざけをSNSへUPして、それが拡散して事件化している。余裕なき社会の象徴か。



48.十年後って岬のようにぼんやりとねむりのなかに砂粒となる 加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 3/26)
これは、岬を実景として見ているイメージではなく、〈私〉は「十年後」を思いながら岬をイメージしている、あるいは岬からの眺めをイメージしている。いずれにしても、クリアーではなくぼんやりしている、そうしたぼんやりとした心の状態で眠ってしまい、見分けのつかない小さな砂粒となってしまう。ファイナンシャルプランナーは自信を持って未来を描いてみせるだろうが、「十年後」なんて、そんなものさ。



49.背を裂いて取り出すディスクにあたらしい感情が立ち上がろうとして 加藤治郎『マイ・ロマンサー』

★(私のひと言評 3/26)
これはたぶんドラマではなく音楽のディスク。レコード盤の昔ならシンプルで想像しやすいが、現在は音楽の媒体も聴く形態も多様化している。新旧が入り交じっている。だから、場面が想像しにくい。これは他のことにも言えそうな気がする。

最初、早合点して「取り出す」を聴き終わってと取った。だから、音楽を聴くプレーヤーから聴き終わって取り出すところを「背を裂いて」とよく考えずに通り過ぎたが、現在のところCDプレイヤーは、「背を裂いて」取り出すようにはなっていないように思う。パソコンのDVDプレーヤーでも音楽のディスクが聴けるというが、「背を裂いて」というイメージには少し無理があるような気がする。
とすれば、これはディスクケースのジッパーを下げてディスクを取り出し今から音楽を聴こうとするところか。その「背を裂いて」という取り出す生々しさと音楽を聴くことによって立ち上がろうとする〈私〉の「あたらしい感情」の肌感覚が対応している。この場合、「ディスクに」の助詞「に」は、「~に対して」の意味になる。

ところで、「ディスクに」の助詞「に」は、場所を表す意味の「に」もある。この場合は、音楽のディスクが今から演奏されるぞ(そこに「あたらしい感情が立ち上がろうとして」いるぞ)ということになるだろうが、「感情」は違うかとしてこの理解は取らなかった。

作品をはっきりした像として確定することはむずかしい。わたしの表現を追う詰めが甘いのか、今のところあいまいさの感情も少し残っている。いずれにしても、日常生活の中、誰にでもあるような沈黙の中で起こっているだろう心の劇が、〈私〉の振る舞いの一瞬として、表現の価値あるものとして取り出されている。



50.ねえ?(ちゃんと聞いているのというふうに)ん?(なんとなく)煙はうたう 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 3/26)
( )の中は、戯曲のト書きに見える戯曲風の表現。短歌における表現の拡張に当たっている。しかし、「ねえ?(ちゃんと/聞いているのと/いうふうに)/ん?(なんとなく)/煙はうたう」というふうに、5・7・5・7・7の音数は維持されている、意識されている。
「煙はうたう」が不明だが、女と男の場面で、男はタバコを吸っていて、その吐き出した煙が女への返答のように見えるということか。



51.母の手が青雲香の束をとく東別院ひがしべついん 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 3/27)
わたしたちが、同じ言葉をくり返す場合には、大事だから相手が忘れないように念押しとしてくり返すという場合の、最初と二度目とはほとんど同じ意味の場合もあるが、相手の反応によっては二度目は苛立ちを込めて言うとかもあり得る。「東別院」は、初めて聞く名前だったので調べてみると、ウィキペディアには真宗大谷派名古屋別院、通称が東別院とある。信徒の遺骨を納める納骨堂もあると言うから、そこに訪れた場面であろう。この場合は、一度目は客観的な地名や場所を指示するもので、二度目のは同じ場所という客観性を示しているように見えるかもしれないが、母や〈私〉に固有の思い出や思いを喚起しそういうイメージの地名や場所を表出しているように見える。ひらがな書きの「ひがしべついん」という言葉が一度目の客観的な場所との違いを表現している。この「ひがしべついん」がこの歌の重心と思われる。

わたしも、漢字とひらがなやカタカナを意識的に使い分けることがある。指示性は同じように見えても、微妙なニュアンスを違いとして表出できると思う。


短歌味体Ⅲ 3144-3146 ネット海シリーズ・続

2019年03月29日 | 作品を読む

[短歌味体 Ⅲ] ネット海シリーズ・続

 

 

3144

菜の花の列を過ぎると

誰かな?

ふいと微かに匂い流れる

 

 

3145

春。色鮮やかなのに

しっとりと

生の香りがしない ネット海。

 

 

3146

イメージの水に浸かった

目を上げる

やっぱり春だねえ 新春(シンシュン)。

 


作品を読む ④ (加藤治郎)

2019年03月20日 | 作品を読む

 作品を読む ④ (加藤治郎)




 ※作品(詩)読みの練習としてやっている。加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。


34.ゆうぐれはあなたの息が水に彫るちいさな耳がたちまちきえる 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 3/10)
〈私〉がゆうぐれに感じた、はかなく移ろうという感覚が、おそらく女性が水面に息吹きかけると「ちいさな耳」のように一瞬盛り上がり消えていくという微細なイメージで表出されている。そして、男女の夕暮れ時のはかない逢瀬のような表現にもなっている。



35.さざなみのデッドラインと言うべきか出社出社執筆執筆出社出社出社 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 3/12)
調べたら「デッドライン」には死線の意味の他にしめきりの意味もある。ここでは「さざなみの」とあるから、死ぬほどではない「しめきり」の意味だろうが、二重の意味として掛詞として使われているように見える。歌か文章の作品締め切りが迫っていて仕事を抱えながらあくせくした日々に〈私〉は追いまくられている。下二句の出社と執筆が互いにしのぎを削っている印象を与える。
下二句を音数のリズムを無視して言いかえてみると「出社しては、帰って執筆し、また出社する、出社する」となる。
例えば、山村暮鳥に「風景」(青空文庫より)という詩がある。その三連中の第一連は、次のように表現されている。


いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな



鮮やかな菜の花畑、それに調和するように微かな麦笛も聞こえる、人の気配もするという詩である。
これは「いちめんのなのはな かすかなるむぎぶえもする」と言いかえることもできる。これらの元の表現と言いかえた表現では何が違うのだろうか。表現の世界に参入した〈私〉が、言い換えの静的な表現に比べて、視覚を空間的に巡らせている、その動きが表出されている。また、これは作者の意図したものではないかもしれないが、くり返しによる重畳(ちょうじょう)の効果も出ている。その小さい子が時に言ったりするようなくり返しは、重畳による強度から呪文のような表現もまといつかせるように思える。

人は誰でも、仕事や家族や個といったいくつかの次元の異なる場をなんとかスムーズに行き来しながら日々生きている。すなわち、わたしたちは多重な生活をしている。それが時に苦しくなるときもある。これはそんな状況を歌っている。したがって、上掲の歌の「出社出社執筆執筆出社出社出社」という表現は、「いちめんのなのはな」のような空間的な巡りにもなっているが、むしろその多重な世界の次元を〈私〉が苦しげに行き来している表現と見なした方がより正確である。



36.輝く水の塊を見た益荒男よ続いてう、みと発した唇 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 3/12)
「益荒男」は、これは遙か太古のことですよ、という詩の入口も指示している。男は初めて海を見たのであろうか。その無量の思いを込めて言葉をつぶやいた彼に立ち会う〈私〉の感動の視線は彼の唇に向いている。太古のそれよりずいぶん薄まっているだろうが、現在でも、とってもいいなあという他人に初めて出会ったり、景色に出会ったら、言葉にならない言葉、始まりの言葉のような表出になるのではないだろうか?わたしは、読んですぐ、「海(う)」(『言語にとって美とはなにか』)の場面を連想した。



37.T・Fに いつかきっと黄いろい橋の上でおまえを切りきざんでやる 加藤治郎『マイ・ロマンサー』

★(私のひと言評 3/14)
これに類するセリフは「犯罪」になる手前で、沈黙の中でつぶやいたり手紙として送りつけたり、ドラマに限らず誰にも少しはありそうに思える古典的な悪意の表出である。現在では「誰でも良かった」という不特定の他者への悪意や殺意という新たな段階を迎えている。

なぜ「黄いろい橋の上」なのかと思い、検索してみたら、ほんとに黄いろい橋が2,3見つかった。この〈私〉の何か固有のこだわりがあるのだろう。これは石か壁かに刻んだ言葉だろうか。それとも現在に相応しく、匿名のメールだろうか。



38.システムは救いの文字をトナトナと管楽よりもすずしく唱う 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 3/15)
「トナトナ」がよくわからないが、「システム」「救いの文字」とあるから、システムが復旧したことを示すシステム側からのメッセージだろうか。〈私〉は、システム管理とかの仕事だろうか、私もパソコントラブルとかで何度か経験したが、あれこれと思ったより長くかかって復旧した時、疲労感もあるが、その爽快感は格別である。それが音楽の演奏よりもイカすぜということか。

トナトナ(となとな)は、トナー関係の店の名前かゲームの主人公位しかヒットしない。意味が近そうに思えるのに、大阪の枚方市の子ども総合相談センター「となとな」のHPに、「「となとな」とは、“いつでも「となり」にいますよ”という意味が込められています。」とあったけど、マイナーすぎるか。

わたしは、歌を読んですぐ、「ドナドナ」の歌の中の「ドナドナ(Dona, dona )」というよく意味の分かっていない言葉を連想してしまった。



39.まりあまりあ明日(あす)あめがふるどんなあめでも 窓に額をあてていようよ 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 3/17)
意味の中心は〈私〉とまりあの情愛表現の下の句か。しかし、言葉をくり返すと「まりあ」が別の流れに変位していくような感じがある。「あ」音のくり返しが韻律の古い根源で何らかのものを指示しようとしている。ここでは、情愛のつながりか。



40.職務みな忘れろという社命あれシュークリームから噴き出すクリーム 加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 3/19)
「シュークリームから噴き出すクリーム」のように、仕事のことは忘れようにも忘れ難くどこにでも「噴き出し」つきまとい侵入してくる。ゆったりとシュークリームを食べている休憩時間であろうと休日であろうと。そういう状況での〈私〉の願望の表現。あるいは、「シュークリームから噴き出すクリーム」の「噴き出す」は、仕事のこととは関わりなくただ味わいたい充実の時だけの意味かもしれない。



41.これが最後の一つぶという自覚なく食べ終えた、そんな死もあろうよ 加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 3/19)
なにか食べていて、ああ、あ、もうなくなってしまったか。そんな体験は誰にもありそうな気がする。がむしゃらな戦闘の時代が終わり、真剣が飾り物の剣のようになった時代に、今風に言えばカッコ付けの武士道は起こった。現在では、生命保険やホスピスなどが人の死までの道すじを描く時代になった。しかし、死はそれらの様式美や計測を超えて訪れることが多いように見える。



42.ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷ乱暴なママのスリッパうれしいな して 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 3/19)
これは、「スリッパ」とあり「ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷ」とあるから風呂場かそのシャワーの場面か。ちいさいわが子が、自分のお気に入りのことをママにせがんでいる場面だろう。父親の〈私〉は、その光景を見ているか聞いているかして、わが子はかわいいなあと思っている。わたしたちが親になってから誰もが目にするような光景である。この歌全体は、父親の〈私〉が聞いたのを書き留めるのは作者であっても、わが子のしゃべる言葉である。ということは、この歌の本歌である北原白秋の童謡「あめふり」の中の「ランランラン」の部分が小さい子の言い回しで「乱暴な」と〈私〉には聞こえたのだろう。もしかすると、この「乱暴な」には、スリッパの乱暴に見える動きという作者による意味の付加もあるのかもしれない。わたしは、この歌を初めて読んだ時「乱暴な」って何だろうとつまづいてしまった。ちなみに、わたしには「アルチュール・ランボー」が、彼のイメージ通りに「アル中乱暴」に聞こえたことがある。



43.きみの言葉はこころを素描できるかい彗星のように裂けた制服 加藤治郎『ニュー・エクリプス』

★(私のひと言評 3/19)
「きみ」は、若者。「彗星のように裂けた制服」がよくわからないが、人が激しい混乱の渦中にある青春というものの過激な比喩だろう。青春期は一般に、情念ばかりが過剰に噴出、あるいは内閉する。その激しい情念が突き刺さっているのことの比喩が、「彗星のように裂けた制服」かもしれない。そのこころは、言葉に素描するにはあまりに熱く無秩序で言葉の整序もコントロールも効かない。人はそれに耐えつつ潜り抜けるほかない。


作品を読む ③ (加藤治郎)

2019年03月15日 | 作品を読む

 作品を読む ③ (加藤治郎)



 ※作品(詩)読みの練習としてやっている。加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。




24.ケーブルがフロアを巡る水滴をはげしく弾く海老をとらえて 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 3/1)
一読してよくわからない歌。職場の床をパソコン関係などのケーブルが走っていて、それが床にピタッと固定されているのではなくて、少し波打つようになったりしているのだろうか。その様にありふれた日常からずれてふと「水滴をはげしく弾く海老をとらえて」いるイメージを抱いたか。



25.うすいボーン・チャイナのうえの梅の花かみあってすごす夜のやさしさ  加藤治郎『マイ・ロマンサー』

★(私のひと言評 3/1)
「ボーンチャイナ(Bone china)は、磁器の種類のひとつで骨灰磁器とも称される。ボーンは骨を指し、チャイナはそれ以前のイギリスでシナ磁器(porcelain)が多用されたことに因む。 ・・・ボーンチャイナと呼ばれる乳白色のなめらかな焼き物は、18世紀ごろにロンドンで発明された。その当時のイギリスではシナ磁器で多用された白色粘土が入手困難であり、代用品として牛の骨灰を陶土に混ぜて製作したため、ボーンの名を冠する。」(wikiより)

「かみあってすごす夜のやさしさ」は、人の性愛の表現だろうが、「梅の花かみあって」と梅の花が重なっている様のイメージも含み二重化している。その溶け合うような感じがなんとも言えないエロスを感じさせる。



26.いれすぎたシュガーのような感触がおそってくればひどく寂しい 加藤治郎『ニュー・エクリプス』

★(私のひと言評 3/2)
いろんな場面で具体性の感覚でしか言えないようなことがある。説明的な言葉を行使しなくてもそれで十分な表現でありまた伝わるものである。例えばわたしの場合、ツイッターのTLで安倍晋三の顔と出会ってしまったとき「いれすぎたシュガーのような感触」がやって来る。



27.&&&&と赤いリュックをはずませてきみは寒がりのキュレーター 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 3/4)
「キュレーター」を初めて知った。美術館などの学芸員。若い女性で、朝の出勤の場面か。「赤いリュック」に「&」の文字が書いてあり、それが歩くか小走りするかで「赤いリュック」の上下する様子に〈私〉の視線は向けられている。「寒がりの」が気にかかる。〈私〉の知っている女性か。あるいは物語性を持たせたものか。&の記号の視覚的イメージとともに「&&&&と」という副詞的な使用が新しい。視覚的イメージ=意味として使われている。



28.ぼくはただ口語のかおる部屋で待つ遅れて喩からあがってくるまで  加藤治郎『サニー・サイド・アップ』

★(私のひと言評 3/4)
これは言葉の表現の過程のことを言っているのだが、「ぼく」は先に湯から上がって「かおる部屋で」湯から「上がって来る」女を待っているという連想を誘う、性愛の表現になっている。他に同様の言葉の表現を歌った作品がある。概念的なことが具体性とともに生命感に満ちたものとしていい感じに表現されている。

 定型に喩がたまるのを待っている静かな夜に扉がひらく  加藤治郎『しんきろう』
 定型は国境である あしたの雨のかなたの微光  加藤治郎『しんきろう』


明治以降上り詰めた近代には、その矛盾が人の精神に写像されて、苦し紛れの意識や感性は、古今や万葉に帰っていった。そうして現在は、考古学の分野における遺伝子解析の登場と対応するように、人類史自体の岩礁にぶち当たらざるを得ないような、表現自体を内省的に表現する、せざるを得ない表現の段階に至っている。簡単に言えば、おまえはなぜ表現するのかと。太古の大らかな直接的な表出や表現とは違ってしまっている。



29.デデスデスデデデスデデス真っ青な車掌がまえの車輛から来る 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 3/6)
電車に乗っていて、〈私〉の近くで急病人が出たか、何かのトラブルが起こったか。通報を受けて、車掌が「通路を開けてください!」などと叫びながら緊急状況の顔や仕草をしてやって来る。上二句の切迫したリズムや五感がおもしろい。しかも五七のリズムに載せている。作者の言葉の掌握感がすごい。



30.雨の午後届いた青い便箋のあなたの文字は裸体であった 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 3/6)
文字が裸体というのは普通なら意味不明だが、文字のスタイルである「楷書体」などと同質のものとして表現されている。文字は、書き言葉として言葉を表現する媒体に過ぎないが、石川九楊の書物から学んだことで言えば手書きされた言葉には十分に読み取れないとしても書く者の感情や考えなどの具体性が込められている。だから、書体には今では手書き時代の名残のように文字の表情の一般性があり、書体の選択は手書きに込めたある情感の一般性ようなものの表出が込められている。

〈私〉は、雨、青い便箋、書き記された文字、という状況の中で、手紙をよこした〈あなた〉に裸体の〈あなた〉のふんい気を感じている。



31.呼び出しておいて黙っているばかり舞いおりてきてひとつ蛍は  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

★(私のひと言評 3/9)●
上三句と下二句は、スムーズに接続しているように見える。そのまま取れば童話的。しかし、この「蛍」はある女性の喩ではないだろうか。男女関係の屈折をそのもの自体としてではなく童話的なイメージと二重化して表現されている。それは〈私〉の配慮や愛か。



32.さんさんと駅までの路連れだって行くとき足がそろうのはへん 加藤治郎『ニュー・エクリプス』

★(私のひと言評 3/9)●
「さんさんと」は副詞だから用言「連れだって行く」を飾る。とするとこれは後の「そろう」と対応して「三々五々」のことか。しかし、「さんさんと」は「燦々と」も掛詞として含んでいるような気がする。歌関係のグループだろうか、〈私〉はふと足そろう光景に変な気分になった。わたしも「さんさんと」のように言葉の多義性や揺らぎを1つの言葉に込めるために、意図的にひらがなを使うことがある。



33.にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 3/9)
何回か読んでも歌の意味がわからなかった。すなわち、どんな場面を歌っているのかわからなかった。さらに読み込んで一応の理解を得たと思われた。家族が食卓を囲んでいる。鶏肉が入っている釜飯がおいしすぎて、みんながよく食べてまるで戦争のようだったと〈私〉が振り返っている歌か。「ゑ」の形象的・意味的表現が新しい。この歌の中心的な柱になっている。

「にぎやかに」は副詞で用言を飾るから、釜飯の鶏肉(炊き込みご飯)を鶏がつついて食べるようにみんなひたすら食べている、を飾るか。この場合、「ゑ」の連鎖は、釜飯の中の鶏肉とそれをつつく鶏の姿の視覚的イメージとともに、釜飯を食べているという動詞も含むと思われる。さらに〈私〉の驚きの「え?」も含んでいるかもしれない。

私の一応の理解の後、ネット検索したら、これを戦争自体とも関連付けている歌の理解もあった。作品の読みは難しいな。わたしもいろんな誤読をやらかしているかもしれない。この作品の肝は、「ゑ」の多重化した用法の新しさだと思える。