8.「終章」の意味
『建設現場』では、章の番号が付されている。しかし、118の章の次の章、すなわち最後の章は章の番号が付されていない。この最後の章は、「終章」に当たるものであるが、章の番号が付されていないということは、前章に接続するもの、すなわち『建設現場』の作品内部の流れそのものにあるもの、ということではなさそうである。『建設現場』の作品内部の流れから少し抜け出たところから言葉が繰り出されているように見える。
「終章」は、次のようにはじまる。
突然、崩壊は起こりました。誰も知らずに、気にもせずに、いつのまにか崩壊のアナウンスもなくなり、誰もが平和に暮らしていました。それでなんの問題もなかったのです。ところが、崩壊が起こると、突然、われわれは考えなくてはいけなくなりました。それができるための脳みそをつくりだそうとしました。われわれは感じていることを、そのまま手のひらで表し、意思伝達を行っていました。われわれはもともとここに住んでいた人間たちと約束を交わしたのです。われわれは何が起こるかを知っていました。しかし、伝達できずに困っていました。われわれは自分たちですぐ考え出しました。それは本能よりも強靱なものでした。われわれは食事をするよりも眠るよりも考え、そして仕事をはじめました。
仕事というものは、不思議なもので、突然、そこに現れます。つまり、必要に応じて、生まれるのではなく、突然、崩壊のように現れます。だから、いまも同じなのかもしれません。われわれはいま、崩壊しています。しかし、これは想像していた通りのことが起こっているだけなのです。だからこそ、この日誌の言葉が生まれたのです。
これはもともとある言葉です。だから、不思議なことは何一つありません。こうやって、よくわからないことを延々と書き続けることはおかしなものです。こうやって堂々巡りをするのです。当たり前の反応です。どうすればいいのかわからないのですから。どうすればいいのかわからず、われわれはどこにいっていたのでしょうか。これは壁ではありません。われわれはそれでも問題がないと思って、突き進んでしまったのです。仕方がありません。崩壊は起こるべくして起きました。だから、不安を感じずにいられないのです。
これはこれからはじまることで、終わりではありません。恐ろしいかもしれませんが、われわれは知っていたのです。それで、これから起きたこと、もうすでにこれは起きています。起きました。それでもわれわれは生きています。まずそれを確認してください。これはもうすでに起きて、何年も経っているのです。だから記録になっているわけで、これはもう過去のことです。それをまだ起きていないものと思っているのはわれわれの頭でしかありません。そこで起きていること、そこに生まれている時間や空間について、われわれはなにも言えないのです。それでも進むしかありません。ここまでひどいことになるとは想像もしませんでした。しかし、これはわれわれが選んだことなのです。
すべてのものが、離れていきました。そして沈黙がやってきます。これからずっと静かな状態になるのです。もうこれで終わりではなく、静かな状態がはじまります。それはわれわれにとって悪いことではありません。それでもまた次の日はやってきます。・・・中略・・・
われわれがこの記録を読みあげているのは、これで終わらせようとしているからです。記録をつくることを終わらせるのです。そのかわりにわれわれは起きることができるようになります。そして、沈黙することを覚えていくのです。それはわれわれが求めていたことです。それをこれから言葉にするのです。もちろん、これはわれわれがつくりだしていたことともつながります。いつか、こうなることがわかっていた。だから、われわれはつくりだしたのです。この街を。この建設現場を。それは関係があります。あらゆることが関係しています。
空間が生まれてしまったのは時間が発生したからです。なによりも先に生まれてしまったのは時間で、その時間にわれわれは取り込まれてしまっています。それに対処するために、われわれは崩壊という方法を選んだのかもしれません。だからこそ、もう一度、われわれがつくってきたものを振り返る必要があります。
(『建設現場』P307-P309)
今までは物語世界は、ほとんど「わたし」が主人公で語り手であった。もちろん、多重化した「わたし」ではあった。いろんな人々が、この世界の登場人物として現れた。また、98章は「わたし」ではなく「われわれ」が登場する。これは「わたし」の多重化と見ていいと思う。この終章の「われわれ」も多重化した「わたし」と見ていいと思うが、『建設現場』の作品内部の流れから少し抜け出ているように見える。この「われわれ」の語るよくわかりにくい話をつなげていくと、
「突然、崩壊は起こりました」→「もともとここに住んでいた人間たちと約束を交わした」→「仕事をはじめました」→「われわれはいま、崩壊しています」→「想像していた通りのことが起こっているだけなのです」→「この日誌の言葉が生まれた」→「よくわからないことを延々と書き続ける」→「おかしなものです」→「これはもうすでに起きて、何年も経っているのです」→「だから記録になっているわけで、これはもう過去のことです」→「われわれがこの記録を読みあげているのは、これで終わらせようとしているからです。」→「そのかわりにわれわれは起きることができるようになります」
こうしてたどってみると、この終章が実際にいつ書かれたかは別にして、設定としては『建設現場』という作品世界を何年も前に書き終えた後の「作者」としてのモチーフについて語っている場面に見える。「われわれ」となっているが、これは先に述べた多重化した「わたし」と見てもいいし、作品世界に登場した人物たちを含めたスタッフ一同を代表しての「作者」と見てもよいように感じられる。そうして、『建設現場』という作品世界とちがって、「です」「ます」体になっているのは、「作者」自身との自己対話・自己格闘でありながらも、わたしたち読者の方を見て語っているからだと思われる。「これはもう過去のことです」や「われわれは起きることができるようになります」は、鬱の苦しい世界に直面して寝込みがちだった日々から起き上がって通常の生活へ帰還したことを指しているのだろう。
この物語は、作者にとっては切実な苦しい物語であるように見えるが、読者にとっては心ときめかすような物語の起伏に富んだ作品というより、よくわからない不明の物語という印象を与えるように思われる。その横溢するイメージ流は、作者がいくらかなじんでいる部分があったとしても、作者自身にとっても不明の根を持つものかもしれない。しかし、この作者にとって切実で孤独な自己対話・自己格闘の作品をもっと一般化すると、病のような深刻な世界に落ち込んだ「わたし」の内的世界は誰にとっても無縁であるとは言えないが、そうしたある普遍の場でひそかに他者(読者)と出会いを求めている作品とも言えるかもしれない。
※(おしまい)