覚書2020.6.25
1.人間の感じ考えることには無限の自由度があるように見える。
2.確かに、人間の感じ考えることの枝葉にはひとりひとり異なる多様性と固有性があるように見える。
3.しかし、人間の感じ考えることの根幹は、いくつかの型に分類できそうだ。
4.そして、その根幹は、一般に時代性に、時代性に見つからないように見える時は現在まで人類が生み出してきた感じ考えのいずれかに収束するように見える。
5.つまり、数千年、あるいはもっと下って数十万年、この時間の深みから湧いてくる人間の感じ考えることの型やその道行きには、〈人間性の有り様〉から来る必然のようなものがありそうに思われる。
6.そういう〈人間性の有り様〉に規定されて絶対性に近く見える人類の歩みの流れにも、例えば「人柱」という考え方や行動は迷妄であったじゃないかというような内省もあり得る。こうして人間は、戦争一つとっても容易には変わらない、数々の負の歴史遺産を受け継ぎながらも、それらに対抗して現在から絶えず目ざそうとする人類の理想のイメージの主流をも思い描いてきたことも確かである。
7.長らく毛沢東の専属医師だった李志綏(リチスイ)の『毛沢東の私生活 上』(文春文庫 1996年)を読み終え、今『毛沢東の私生活 下』の半分ほどまで読み進んだ。それで知り得たことを踏まえて言えば、例えば、共同性の悪と残虐の限りを尽くしたスターリンのソ連や毛沢東の中国やポル・ポトのカンボジアは、〈革命〉がどうしてそんなことになってしまったのかという人類史の負の遺産としてしかわたしたちには残されていない。皇帝政治や専制政治の亜種とも言えるそれら近代の〈革命〉が、始末の悪いことに「マルクス・レーニン主義」というイデオロギーの印籠を振り回しながら、共同性として組織化されると悪と残虐の限りを尽くすことがあり得ることを示した。装いは、「マルクス・レーニン主義」というイデオロギーにもとづく近代的な革命だが、内実は、最後で最悪の皇帝政治、専制政治であったと言えるだろう。毛沢東の中国は、誤った政策や権力闘争によって、数千万人もの人々を餓死や死に追い込んでいた。
しかしそれでも、人間や人間社会の有り様として、現在から絶えず目ざそうとする人類の理想のイメージとしての〈革命〉が死滅することはないが、それら近代の負の〈革命〉とは絶対に違った道を踏むべきことを教えていることだけは確かである。
8.吉本さんは、晩年によく、お猿さんからぶっ通して人類をたどり直さないと現在や未来を読み間違うと言われていた。このことをわたし流に捉えれば、本質的にはこうでしかありえないという人間という存在の有り様とそれが織り成す歴史、それはなぜか表舞台ではなく歴史に底流するように存在してきている、しかし、それこそが人類や歴史の真の主流であり、それをはずしたら、人間の思考は無限の自由度の海を空想的に泳ぐほかないだろう、ということになる。
このことは、大きな歴史の動向や社会の動向に限らず、ひとりの人間について、その有り様と心意を捉える場合にも同様に言えると思う。