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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

短歌味体 Ⅲ 983-985 うるさいシリーズ

2016年06月30日 | 短歌味体Ⅲ

[短歌味体 Ⅲ] うるさいシリーズ
 
 
983
うるうるぱちぱち
(うるさいな)
ぱちぱちうるるん(うるさいな)
 
 
984
どうしたの(うるさいな)
毛羽立ち
波が荒い(うるさいな)
 
 
985
何歳ですか(うるさいな)
(ただこの
世界の深みしずかに立つ)


短歌味体 Ⅲ 980-982 人のあわいシリーズ・続

2016年06月29日 | 短歌味体Ⅲ

[短歌味体 Ⅲ] 人のあわいシリーズ・続
 
 
980
誰でもが人のあわいに
立つからは
抜け荷をしてても同じ駅を出る
 
 
981
「スイーツ」もどこかひとつの
港から
人のあわいを巡りに巡る
 
註.スイーツという言葉を思い。
 
 
982
あんぶれーらかんぶれーら
意味もない
音のうねりが人のあわいに滲(し)み入る


日々いろいろ―コマーシャルあふれる社会

2016年06月25日 | 日々いろいろ

 現在というものは、わたしたちが絶えず当面し続ける現実である。そこには諸矛盾とともにわたしたちにとってある自然さを併せ持っている。わたしたちは、現在の中に立ち現れる風物に見慣れた光景だという自然さの感覚を持つと思われるが、ふと不可解な思いや異和感を持つこともあるかもしれない。

 わたしの小さい頃は、道路はほとんど土の道や砂利道で、車も少なく信号機もなく、家の照明は薄暗い裸電球で、夜になると外はほぼ真っ暗な世界だった。それらのわたしの過去の自然さの感覚と現在の風景を引き比べると、当然いろんな思いが湧いてくる。わたしの場合、過去への哀惜はあんまりなくて、ああこんな風に人の世界は推移していくのだなという思いで受けとめている。このような現在に対する感覚を大まかな傾向性として捉える場合、この世界で生きてきた経験の違い、つまり世代によってもその感覚は違うはずである。

 わたしがこの文章を書くきっかけとなったのは、最近はテレビでは以前にもましてコマーシャルが多くなり、うるさいなあとうんざりしていることがあるからだ。もちろん、現在のコマーシャルは単に商品の宣伝ではなく芸術性のようなものもあって気に入るコマーシャルというものもある。うんざりという面では、テレビドラマなどはしつこいコマーシャル避けのためにも録画して観ることが多い。

 現在では雑誌や新聞やテレビ、そして中・大都市の街中の電光掲示板など、コマーシャルが満ちあふれている。単純化すれば、コマーシャルの目的は明白である。企業がその商品(物やサービス)を消費者に買ってもらえるように働きかける宣伝活動である。したがって、それは誘惑の構造を必ず秘めている。わたしたちはいくら商品の宣伝をされても、それを購入しなければその特定の商品の「消費者」とはならない。つまり、ある特定のコマーシャルに対する拒否権を持っている。けれども、二昔前と違って、生活するための食や物や道具など自給性がほとんど絶たれた消費社会の現在では、わたしたちは消費者としてそれらの物やサービスを店や会社から購入することによって生活を維持している。これは、逆に言えば、わたしたち生活者住民が必需消費を除く消費の選択権や加減権を持ってしまったと言い換えることもできる。ここから、現在の消費資本主義の段階では家計消費がGNPの6割を占めるということの意味をよくよく考えた吉本さんの考察、すなわちわたしたち普通の生活者が大きな経済的な力(権力)を持ってしまったという考察が導き出されてくる。

 企業は商品(物やサービス)を提供する。その商品が需要を喚起して買ってもらえないと企業活動は継続できない。ラジオやテレビのない時代の広告・宣伝は、町のあちこちの家の壁に看板を設置することでなされていた。しかし、これが現在のように消費者の需要を喚起するためのものであったかどうかはわからない。看板は軽いお知らせ程度で実質は具体的な営業活動だったのかもしれない。もっと具体的な消費喚起は、わたしの住む地域ではヒコーキからの宣伝文句やビラまきによってなされていた。いずれにしても、現在と違って生活の時間はゆったりと流れていた。たぶん、コマーシャルもその時間に対応したものだったと思う。宣伝広告のそんな牧歌的な有り様は、近世辺りから1960年代の高度経済成長期以前までの時代に当たっている。

 現在の宣伝広告は産業の1分野を占めるまでの自立性を持ったものとなっている。もちろん、現在でも町中の宣伝の看板やチンドン屋さんなど依然として旧来的なものも存在するが、主流ではマスコミというものが本格的に登場する以前の静的な広告看板と比べ、動的であり、歌あり映像ありドラマありと次元を異にするコマーシャル段階になっている。しかし、コマーシャルの形態や表現が大きく変貌してしまっても、コマーシャルの本質は現在も不変である。つまり、企業の商品(物やサービス)を消費者に買ってもらうことを目的としている。このことからコマーシャルは誘惑的なものを本質としている。あるいは、よく言われる言い方をすれば、コマーシャルは、消費者の欲望を喚起し、誘い出し、企業の商品と連結させる働きをしている。

 コマーシャルの観客に過ぎない素人のわたしが想像するに、ひとつのコマーシャルには、依頼主(企業)と作者たち(広告会社やコピーライター)と登場人物(俳優などの「有名人」あるいは普通の人)と裏方(映像や音楽や照明などの技術スタッフ)がいて、それはまるでひとつの小演劇の舞台を作り上げるようなものに見える。(しかし、映像処理や動画サイトやネットなどを媒介すれば、現在では素人でも一人か数人のスタッフで割と気楽に音楽や映像制作同様にそんなコマーシャルも作り上げることが可能かもしれない。)

 ところで、コマーシャルの表現がわたしたち観客に芸術表現に近い味わいをもたらすことがあるとしても、芸術作品と比べて違うのは、コマーシャルが総体として依頼主の商品を裏切れないということである。つまり、コマーシャルは、商品の直接の宣伝の表現であれ、ひと言企業名や商品名に触れるだけの芸術的な表現であれ、特定の商品にイメージ価値を付加して消費者を誘惑するという点は保持せざるを得ないのである。

 そして、コマーシャルという架空の舞台に立つ俳優などの有名人は、ただその商品のイメージ価値を高める仕事をしていることになる。ちょうど太古に巫女さんやシャーマンたちが〈神〉を呼び寄せたり対話したり言葉を捧げたりして、普通の人々が対面する〈神〉のイメージ価値を高めたように。

 したがって、そのコマーシャルを作る舞台やコマーシャルが流される世界から見て外の世界であっても、その出演した俳優が自らのイメージを壊すようなプライベートなことが社会的に知られたら、依頼主などから損害賠償を求められることもあるようだ。(最近んでは、ベッキーの件)

 一方、それとは非対称的に見えるが、コマーシャルの依頼主の企業がその商品などで問題や事件を起こした場合は、出演した俳優個人が自分のイメージ毀損として依頼主に損害賠償を求めるということはないようだ。こうした点も考えて、時々思い出したように考えてきたことだが、誘惑して問題を起こした商品のイメージ価値を高めることに加担したとしても、出演俳優個人には責任を求めることはできないと思われる。

 ただし、一部のプロスポーツ選手の給与やコマーシャルの巨額の報酬、そして企業トップの巨額の報酬というものに対しては、わたしは不可解な思いを持っている。しかし、これらは、先のコマーシャルにおける俳優の責任なしと言っても残るもやもや感と同じく、また現在のコマーシャルの有り様を含めて、現在の消費資本主義社会の内省的な表現の方向に未来性としてイメージし続ける他に解消することはできないように思われる。


短歌味体 Ⅲ 966-967 入口シリーズ・続

2016年06月24日 | 短歌味体Ⅲ

[短歌味体 Ⅲ] 入口シリーズ・続
 
 
966
その道の専門でなくても
出入りする
大道無門しずかに開いている
 
註.経済でも教育でも政治でも音楽でも美術でも、どんな専門的になってしまった領域も人間的なものに過ぎず、万人が出入りできる層が必ずあると思う。


967
細々(こまごま)と機材あふれる
通路には
ただ一筋のモチーフが引かれている


表現の現在―ささいに見える問題から 22

2016年06月23日 | 批評

表現の現在―ささいに見える問題から 22 (人類の言葉以前の痕跡)


 現在の私たち大人に流通する言葉を、言葉以前の乳胎児期の母 ― 子のコミュニケーション(註.吉本さんによれば、言葉に拠らない「内コミュニケーション」)体験に対応させたり(「表現の現在―ささいに見える問題から 20」)、言葉の発祥期に関係づけたり(「表現の現在―ささいに見える問題から 21」(語音の問題から))、試みてみた。いずれに関しても、個の遠い遙かな発生期の時間が個の中に保存されていて、いまだその発動の機構は不明だとしても、表現において発動されてくるものと見なした。

 ここで考えてみたいのは、人が人類として言葉(言葉のようなもの)を獲得して登場する初期やそれ以前の人の遙かな時間についてである。


 言い方で載ったとわかるらしい妻
         (「万能川柳」2016年06月20日 毎日新聞)


 この作品は、夫である作者が妻と何か話していたら、「自分の作品が新聞に載ったよ」と言わないのに、その「言い方」で夫の作品が新聞に載ったんだなと察知できたという内容だろう。顔の表情や言葉のふんいきやあるいは以前にもそういうことがあって、察知できたのであろう。これをもっと突き詰めて純化していったのが恐らく「霊能者」という人々の感応・察知の世界だ。現在では、「霊能者」のような鋭い感能力や察知力は大多数の人々は持てなくなっていて、それらを非科学的と一蹴する「科学的」という見方もある。しかし、もう現在ではよくわからなくなってしまっているが、遙かな太古にはそのような自然の世界に鋭く感応したり、輪廻転生ということを信じたり、死後の世界の実在を信じるという人類の段階があったことは確かである。そして、その世界イメージは、当時にあってはわたしたちの現在と同様に自然なものだったはずである。

 現在でもそれに類する世界イメージや世界観の内にわたしたちは存在しているが、太古のそれとは断絶した異質な世界になってしまっている。このことは、太古の〈科学〉(知見)が迷妄に近いということを現在までの〈科学〉が明らかにして分かってきたせいでもあり、また産業社会の高度化と対応して脳が中心化してきた考え方のせいでもある。しかし、それでもなおわたしたちの心の深層には、太古の世界観の残骸が保存されているように見える。さらに、迷妄ではないかと見なす太古の科学を現在の科学から新たに捉え直す可能性もあるように思われる。

 ところで、この作品に見られる言葉以前の察知のようなものを、個の誕生からの時間で言えば前に追究した「乳胎児期の母―子のコミュニケーション」に対応付けられが、個の時間との対応付けをしないならば、人が人類として言葉(言葉のようなもの)を獲得して登場する初期やそれ以前の人の遙かな時間と対応付けるほかないだろう。

 つまり、人は途方もない時間をかけて言葉を獲得するようになる以前には、これまた途方もない時間を植物生や動物生として触手を働かせ合って感応し、察知し合う世界を生きていたのだろうと想像する。そうしてそれは、胎児が母親の胎内で成長していく過程で、最初は魚類、そして両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類へと人類の進化の過程を短時間で反復するように形を変えていくと三木成夫が明らかにしたことと対応して、私たちの心の深層には人類の初期やそこに到る言葉以前の遙かな道程も保存されていると言えそうに思われる。それらの道程は、時間の規模において近代社会の数百年の道程と比べて比較を超絶している。ということは、現在の人類や個の基層部分を形成していると言えると思う。しかも、それは現在的に発動され続けている。