詩『言葉の街から』 対話シリーズ
1202
大好きな食べ物ではない
としても
毎日毎日食べている
1203
公表する意見がなくても
会議に
いつものように出ている
1204
書くことがもうすっからかん
になっちゃった
と思っても自然と湧水する
1202
大好きな食べ物ではない
としても
毎日毎日食べている
1203
公表する意見がなくても
会議に
いつものように出ている
1204
書くことがもうすっからかん
になっちゃった
と思っても自然と湧水する
覚書2020.11.26―批評の現在 批評も当然歴史を持っている。平安期の歌合での歌の優劣や良し悪しを論じた判詞(はんのことば)辺りが、現在の批評につながる源流みたいに思えるが、当然それ以前の太古からの流れるがある。語りの者(巫女など)が神への言葉や神からの言葉を語ったり、この世界の成り立ちを語る場面で、人々が(おお、そうだそうだ)とか、(いや、もう少しきつくお願いしないと神様には届かないだろう)とか、普通の人々の内心の言葉であるが、この辺りが批評の源流のように思える。 現在から見れば、印象批評のレベルから近代批評として西洋の概念や文化の波を浴びた言葉を駆使して批評というものを問い詰め打ち立てていったのは小林秀雄である。その後、吉本さんが表現としての言語そのものの有り様や振る舞いを問い詰めていった。こうした流れは、現在の絶えざる細分化の流れと対応しているように見える。しかし、それは避けられない必然の流れでもあった。現在は、全社会的に細分化の時代である。知識世界もそうである。それは避けられない必然性も持っている。その上で、不毛な細分化であるかどうか、統合できないかなど、批評性を発揮するほかない。 現在は、吉本さんが「カール・マルクス―マルクス伝」(註.1)で予想したように、自然的な社会から、仮想的-自然的社会という二重化した社会に変貌してきている。当然、わたしたちの感じ考えも二重化してきている。それは例えば、以前の銀行窓口での対面のみのやりとりの自然性から、銀行の現金出し入れ機をくり返し体験するようになり、それが自然なものと感じ考えるようになった事態を指している。 さて、本格的にはそれは吉本さんにはじまると思っているが、現在以後につながる批評は、作品や作者や時代の無意識のレベルまで触れ、捉え、語ろうとするもののように見える。このことは、仮想的-自然的社会という二重化した社会の有り様やわたしたちの意識の有り様と対応しているはずである。批評というものも難しい難所に入り込んでしまったものだと思う。現在にはまだ様々な批評が現れ出ていると思われるが、現在の無意識的な主流は、この作品や作者や時代の無意識のレベルまですくい取ろうとする批評であると思われる。 吉本さんの批評で、『言語にとって美とはなにか』や『悲劇の解読』や『母型論』に限らず、吉本さんのすべての批評の行為がそのことを実践してきたように感じている。 (註.1) しかし、わたしのかんがえでは、人間の自然にたいする関係が、すべて人間と人間化された自然(加工された自然)となるところでは、マルクスの〈自然〉哲学は改訂をひつようとしている。つまり農村が完全に絶滅したところでは。 現在の情況から、どのような理想型もかんがえることができないとしても、人間の自然との関係が、加工された自然との関係として完全にあらわれるやいなや、人間の意識内容のなかで、自然的な意識(外界の意識)は、自己増殖と、その自己増殖の内部での自然意識と幻想的な自然意識との分離と対象化の相互関係にはいる。このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。だが、わたしはここでは遠くまでゆくまい。 (『カール・マルクス』P102-P103吉本隆明 光文社文庫) ※初出は、1964年 |