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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 2992-2995

2022年02月28日 | 詩『言葉の街から』
 詩『言葉の街から』 対話シリーズ



2992
うっすらと無駄な足掻きとわかっていても
精神の力学は 西南戦争へ
思い悩み引き寄せられ動いてしまう



2993
もはやもうリアルな戦争の時代の
峠は越えてきたのに
まだあちこち火の手が上がっている



2994
関係の絶対性をごり押ししたら
ゆくゆくは
その場に引き出され新しい光景を目にするぞ



2995
世界に不幸があっても 普通に
あそびはしゃぎまわっているのもいい
それも知らぬ間に世界に拮抗してはいないか


註.
心の中で、普通の人が「俺が総理大臣になったら
こうしようと思っている」ということをもてたな
ら、それでいいんですよ。あとは何もする必要な
いから、遊んでてください(笑)。
 (「吉本隆明インタビュー」 季刊誌『kotoba』2011年春号(第3号) 小学館)

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 2988-2991

2022年02月27日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



2988
人間のこの世界線の彼方に誰もが
自分なりの「雨ニモマケズ」を
思い 描くのだろうが



2989
冷たく分かれていく
断層の手前で
かなしみの手を振っても



2990
この世界にはどうしようもなく
ひとつに決まっていく主流 深く
蠢(うごめ)く底流があり



2991
人の世界の絶対性の流れに
「雨ニモマケズ」は
直面しもがいているはずなのだ

メモ2022.02.26 ―自己表出と指示表出へ ⑨ この概念の拡張性

2022年02月26日 | メモ
メモ2022.02.26 ―自己表出と指示表出へ ⑨ この概念の拡張性



     (1)

 松本孝幸さんの『読書倶楽部通信』というホームページの「小林秀雄と山下清」という文章(「たかちゃんの豊浦彩時記4月号」(2021年))で、小林秀雄の山下清の作品批評(作品批評というより作品批評の不可能として述べられている)を引用して論評を加えてある。


成る程、清君の画は美しいが、何にも語り掛けてくるものがない、
いくら見ていても、美しさの中から人間が現れて来ない。
尋常な生活感情を欠いている人の表現は人間的な意味を全く欠いている。
人とともに感じ、人と共に考える能力のない狂人の画は、
決して生命感を現わしていない。
現れているのは、単なる運動感である。
その色彩は、眼に訴えるが、心まではとゞかない。
狂人にも鋭敏な色感がある事は、
例えば狂人にも鋭敏な性欲があるという以上の事を意味しやしない。
そういう美しさを画家は美しいとは言わないのである。

 詩人が言葉の意味と言葉のリズムを合一させようと努める様に、画家は色や形に意味を盛ろうと努める。その難しさの為に、止むなく美しくない画面を作り出して了う事もあるのだ。美は、個体的な感覚を通じて普遍的な精 神に出会おうとする意志の創るものだ。倫理的でない美はない。
(「金閣焼亡」昭和二十五年九月)

 ※この赤字の部分は、引用者が付け加えたもの

       〇

 実は、僕は、あまり小林秀雄は読んでいません。
 いまいち、どこがいいのか、ピンと来ていなかったからです。
 これを読んで、少しわかった気がしました。
 小林秀雄にとって、人間とは、近代的な内面の苦悩を抱えている存在であり、「定型発達」
で、知的な遅れのない人間なんですね。それ以外は、存在しない。ようするの人間「以下」の存
在(動物や狂人)だと考えているんだなということがよくわかりました。
 なるほど、それでは、山下清の絵は、わからないでしょうね。絵で言えば、「レオナルド・
ダ・ヴィンチ」以後、ということになるでしょうか。
 「定型発達の人間」の、まだその向こうに、もうひとつの根源的な人間の姿があるのだと
いうことは小林秀雄には見えていなかったのだと思えます。
 柳田国男の言う「遠い大昔の、まだ人間が一般にこどもらしかったころに、まじめにして
いたことの痕跡」が見ていなかったんですね。
 その痕跡は、小林秀雄にとっては、「稚拙」で「非人間」的なものにしか見えなかったんでし
ょうね。小林秀雄が激賞しているゴッホやモーツアルトは、発達障害だったと言われているので
すが…。
 http://matumoto-t.blue.coocan.jp/21saijiki04.html


 わたしは、この小林秀雄の山下清評を初めて読んだ。山下清の絵の評価で、評価できないというものである。まだ〈発達障害〉や〈自閉症〉という概念が生まれる前の時代の文章だが、松本さんが評されているように近代主義的な個という概念からの視線になっている。ちなみに、障害者に対してだが、今は亡き石原慎太郎も小林秀雄と似た感想を漏らしている。


障害者についての発言が政治問題化したのは、1999年(平成11年)9月に東京都知事として府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)を視察した後の記者会見での発言だった。「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と発言した。次いで「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言意図を説明した。
 (Wikipedia「石原慎太郞」より)




     (2)

 先日読み終えたオリヴァー・サックスの『火星の人類学者』でも、〈自閉症〉者は、普通の人々より美を感じたり感動したりということがなさそうに見える、これをどう考えるかということを取りあげていた。断定的な判断はしていなかったと思う。〈自閉症〉を正しく捉え理解しようとして、著者はていねいにたどっている。引用が長くなるが、その足跡をたどってみる。


 一九八七年六月、わたしのもとにイギリスの出版社から大きな包みが届いた。なかには大量のデッサンが入っていた。わたしにとってはじつに嬉しいデッサンだった。わたしが育ったロンドンの有名な建物が描かれていたからである。たとえばセント・ポール大寺院、セント・パンクラス駅、アルバート・ホール、自然史博物館、それにキュー王立植物園のパゴダといった見ようによってはちょっと奇妙な、だがなつかしい場所の絵があった。絵は非常に正確だがすこしも機械的ではなく、それどころか奔放なエネルギーと風変わりな生命力に満ちていた。
 包みのなかには出版社からの手紙が入っていた。絵の作者スティーヴン・ウィルトシャーは自閉症で、幼いころからイディオ・サヴァンの特徴を示していた。・・・中略・・・作者はまだ十三歳であると手紙にはあった。
 (オリヴァー・サックス『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』「神童たち」P204 早川書房 1997年3月)


 一九八二年、若い教師のクリス・マリスがクウィーンズミルに赴任し、スティーヴンの絵を見て驚嘆した。クリスは九年間、障害児の絵の指導をしてきたが、スティーヴンの絵に匹敵するようなものは見たことがなかった。
 スティーヴンはクリスが教えていた六人のクラスのひとりだった。「彼はほかの子供の名前はみんな知っていた」とクリスは言う。「だが、一緒に遊んだり、仲良くしたりすることはいっさいなかった。まったく孤立した坊やでした」絵を描くことも遠近法も、少年は自然に覚えたか、生まれながらに知っているようだった。そのうえ、視覚的記憶力が非凡で、どんな複雑な建物でも町の風景でも、細部まで数秒のうちに見てとり、何の苦労もなくいつまでも記憶していられるらしかった。・・・中略・・・
 スティーヴンはまた、視覚以外の分野でも才能を発揮した。言葉を覚える前から、ものまねの名人だった。歌の記憶も抜群で、覚えた歌を正確に歌った。どんな動きでも完璧にまねができた。スティーヴンは八歳で、文脈や内容、意味とは無関係に、非常に複雑な視覚的、聴覚的パターン、運動パターン、言語パターンを把握し、記憶し、再現する能力を示したのである。
 視覚的、音楽的、言語的な分野のいずれでも、個々の部分を不思議なほどよく覚えているというのは、イディオ・サヴァンの記憶の特徴である。大小にかかわりなく、些細なことも重大なことも無差別で、前景も背景も区別がない。こうした個々の部分から普遍化するとか、因果関係や時間的関係でまとめるとか、自己のなかに取りこむということもほとんどない。ふつう個々の部分から普遍化するというような記憶は、場面と時間、内容と文脈に動かしがたい関係がある具体的・状況的な記憶で、エピソード記憶と呼ばれる。それが欠けているために、自閉症のサヴァンは驚異的に正確な記憶力をもっていながら、個々の記憶から重要性を抽出して一般的な知覚や記憶を築きあげることが非常にむずかしい。
 (『同上』P207-P209)


スティーヴンは優れた芸術家として紹介されている。元王立美術院長のサー・ヒュー・カッサンは彼を「イギリスでもっとも優れた少年芸術家だろう」と言った。だが、クリスにしてもほかのひとたちにしても、いちばん同情的な見方をするひとたちが、彼の知性とアイデンティティには大きな欠落があると考えている。検査の結果でも、重大な情緒的、知的障害があることははっきりしている。それでも、彼には精神的、個性的な一面、深みと感性があって、それが(ほかには現われなくても)芸術に表現されているのだろうか。芸術とは、本質的に個人的なヴィジョン、個性の表現ではないのか。「自己」がない芸術家というものが存在するのだろうか。スティーヴンの絵を初めて見て以来、こうした疑問が渦巻いていたので、わたしはぜひ彼に会ってみたかった。
 (『同上』P212-P213)


 (一九八八年二月、著者のオリヴァー・サックスが、スティーヴンに会い、自分の家を描いてくれと頼んで描いてもらった絵について)
 スティーヴンは建物を子細に調べもしなければ、スケッチもせず、実物を見ながら描くこともしなかった。ちらりと見ただけですべてを吸収し、本質をとらえ、細部を焼きつけ、全体を記憶してしまって、それから手早い単純な線で描いた。頼めばきっと、通りにあるすべてを描いてくれたにちがいない。
 スティーヴンの絵はたしかに正確だったが、自在に変更を加えている部分もあった。家にはない煙突をつけ、前にある三本のモミの木と垣根、それに近所の家々は省略した。彼の絵は、建物だけに焦点が置かれていた。イディオ・サヴァンはカメラのような目、あるいは直観的な記憶力をもっているとよく言われるが、スティーヴンの絵をコピーしながら、彼が単なるコピーマシンではないことに気づいた。彼の絵はコピーや写真といった機械的で没個性的なものとはまったくちがう。つねになにかが加わり、なにかが省略され、変更されていて、そこにはまちがいなくスティーヴン独自のスタイルがある。それはイメージであり、視覚的、図像的イメージの形成に必要な複雑な神経活動のプロセスが関与していることを思わせる。スティーヴンの絵は個性的な構築物だ。だが、はたして、もっと深い意味での創作と言えるだろうか。
 (『同上』P214-P215)


模倣もまた心の作用で、身体と感性を使って現実を表現することにかけては、象徴や言葉を使った表現に劣らない人間的能力だ。マーリン・ドナルドは『現代の心の起源』のなかで、模型製作はまったく非言語的、非観念的な内面表現であり、こうした模倣という力は、ホモ・サピエンスが抽象的思考や言語を獲得する以前、数百万年あるいはそれ以上前の、わたしたちの直系の祖先であるホモ・エレクトゥスのころには支配的な認知形式であったかもしれない、と述べている。歌い、ものまねをするスティーヴンを見ていると、自閉症やサヴァン症候群の少なくとも一面は、通常発達の理論で、つまりこの古代の認知方法である模倣に基づく脳システムの肥大化と、より現代的な象徴に基づく認知方法の相対的な欠陥を結びつけることで理解できるのではないかという思いにかられる。とはいえ、誤解してはならないのだが、それは一部でしかない。スティーヴンは知性がないわけでもなければ、コンピューターでもなく、またホモ・エレクトゥスでもない。わたしたちのモデル、言葉はすべて、彼の前では意味をなさなくなる。
 スティーヴンの発達は独特で、最初から質的にちがっていた。彼は異なる方法で、彼自身の認知力、アイデンティティ、芸術的才能を動員して世界をつくりあげている。スティーヴンがなにを考え、どう世界を構築し、どうして描き、歌えるのか、結局わたしたちにはわからない。だが、象徴的、観念的な能力に欠陥があっても、寺院や峡谷、花を描いたり、ある場面やドラマ、歌を再現するという模倣や具体的表現にかけては天才であり、伝えるものの形式的な特徴、構造的論理、スタイル、「らしさ」(かならずしも「意味」とはいえなくても)を把握する優れた才能をもっていることはわかっている。
 ふつう言われる創造性では、「どんな」才能かだけでなく、「誰」のものかが大きな意味をもつ。創造性にはきわめて個人的なものという特徴があり、強固なアイデンティティ、個人的スタイルがあって、それが才能に反映され、溶けあって、個人的な身体かたちとなる。この意味で、創造性とは創りだすこと、既存のものの見方を打ち破り、創造の領域で自由に羽ばたき、心のなかで完全な世界を何度も創りかえ、しかもそれをつねに批判的な内なる目で監視することをさす。創造性は内面生活にかかわるものだ。
 この意味での創造性は、たぶんスティーヴンには不可能だろう。
 (『同上』P247-P257)



 著者のオリヴァー・サックスの言葉は、小林秀雄の時代とは違って、〈自閉症〉という概念がある時代のものであり、また医者として自閉症に対する様々な知見ももっており、しかもスティーヴンの創造の秘密に関心を持って何度も出会ったりいっしょに旅行したりしている。そうして、小林秀雄と異なるのは、その〈自閉症〉を抱えて生きているスティーヴンの内側に入り込もうとしていること、さらにそこからスティーヴンを理解しようとしていることである。もちろん、当然のことかも知れないが、オリヴァー・サックスは自分をこれまで育んできた「通常」の世界の、「通常」の感情や考えの方から〈自閉症〉を抱えたスティーヴンに向かっている。
 オリヴァー・サックスは、「自閉症の原因もまだ明らかになっていない」(P262)と述べ、いろんな説をたどりながら、「自閉症に生物学的素因があることはもはや疑う余地がなく、場合によっては遺伝するらしいという研究も増えてきている。」(P263) と記している。そして、『我、自閉症に生まれて』『動物感覚』などを著したこのテンプル・グランディンの「火星人の人類学者」の章で、テンプルの自閉症の原因に対する考えを紹介している。


 テンプルは自閉症の化学的、生理学的研究や脳造影法による調査をいろいろと調べた結果、いまの段階ではすべてが断片的であって、結論が出るまでにはなっていないと感じている。だが、脳の「感情の回路」が損なわれているという思いは強く、この回路が脳の感情を司る系統発生的に古い部分――扁桃核と辺縁系――と、もっとも新しく発達した部分、人間にだけ発達した大脳の前頭前皮質とを結びつける役割をしているのではないかと考えている。この回路があるからこそ、新しい「高度な」意識、自己や自分の心、他者の心に対する明示的な意識が可能になるのではないか。そして自閉症はまさにこの部分の障害なのである。
 (『同上』P304)



 当然ながら、素人のわたしには〈自閉症〉の原因はわかりようがない。それにもかかわらず〈自閉症〉と呼ばれる人々がいて、その中にも多様な表れがあるらしい。しかし、現在までのところ〈自閉症〉の原因はわかっていないが、オリヴァー・サックスが述べた「自閉症に生物学的素因があることはもはや疑う余地がなく」ということとこのテンプル・グランディンの〈自閉症〉者としての体験や実感からの「脳の『感情の回路』が損なわれている」のではないかということ、そしてその回路の役割についての考えは、ありそうだなとは思える。

 オリヴァー・サックスは、〈自閉症〉者であり、また表現者でもある少年スティーヴンをどう捉えているか。上の引用から抜き書きしてみる。

1.スティーヴンの絵は非常に正確だがすこしも機械的ではなく、それどころか奔放なエネルギーと風変わりな生命力に満ちていた。

2.絵を描くことも遠近法も、少年は自然に覚えたか、生まれながらに知っているようだった。(教師クリス)

3.スティーヴンは八歳で、文脈や内容、意味とは無関係に、非常に複雑な視覚的、聴覚的パターン、運動パターン、言語パターンを把握し、記憶し、再現する能力を示したのである。

4.彼の知性とアイデンティティには大きな欠落があると考えている。検査の結果でも、重大な情緒的、知的障害があることははっきりしている。それでも、彼には精神的、個性的な一面、深みと感性があって、それが(ほかには現われなくても)芸術に表現されているのだろうか。芸術とは、本質的に個人的なヴィジョン、個性の表現ではないのか。「自己」がない芸術家というものが存在するのだろうか。

5.絵はコピーや写真といった機械的で没個性的なものとはまったくちがう。つねになにかが加わり、なにかが省略され、変更されていて、そこにはまちがいなくスティーヴン独自のスタイルがある。それはイメージであり、視覚的、図像的イメージの形成に必要な複雑な神経活動のプロセスが関与していることを思わせる。スティーヴンの絵は個性的な構築物だ。だが、はたして、もっと深い意味での創作と言えるだろうか。

6. ふつう言われる創造性では、「どんな」才能かだけでなく、「誰」のものかが大きな意味をもつ。創造性にはきわめて個人的なものという特徴があり、強固なアイデンティティ、個人的スタイルがあって、それが才能に反映され、溶けあって、個人的な身体かたちとなる。この意味で、創造性とは創りだすこと、既存のものの見方を打ち破り、創造の領域で自由に羽ばたき、心のなかで完全な世界を何度も創りかえ、しかもそれをつねに批判的な内なる目で監視することをさす。創造性は内面生活にかかわるものだ。
 この意味での創造性は、たぶんスティーヴンには不可能だろう。


 オリヴァー・サックスが、〈自閉症〉者であり、また表現者でもある少年スティーヴンを前にして感じている異質さは、おそらく小林秀雄の山下清評にある、〈発達障害〉や〈自閉症〉や〈統合失調症〉の人を前にした時感じる異質さと同じものだろう。そうしてその異質さは、〈普通〉に長らく慣れ育ってきたわたしたちのほとんど誰もが感じるものだと思う。このことをさらに一般化すると、わたしたちは他者と出会い付き合いに入っていく時、度合の違いはあれ同じようにある異質さを感じるように思う。いずれの場合も、付き合いで慣れ親しんでいくにつれて、他者に感じた最初の異質さはやわらいでいくような気がする。

 〈普通〉に長らく慣れ育ってきたわたしたちと述べたのは、〈発達障害〉や〈自閉症〉や〈統合失調症〉などの〈病〉と見なされているものを抱えていない、主要に近代以降の人間概念(自由、平等、個人、創造性)を主流とする流れに浸かっている大多数の者を指している。〈発達障害〉や〈自閉症〉や〈統合失調症〉などの〈病〉と見なされているものは、個人で言えば個の根っこ、人類で言えば人類の根っこ、初期の人類の有り様に通じているような気がする。現在のわたしたちもそこを潜り抜けてきたはずであるが、人類の根っこの部分はわたしたちの深層に潜在的に保存されているように思う。だから、両者の間には、飛躍や断絶があっても、どこかで通じる通路のようなものがあるのかもしれない。

 自らが慣れ親しんでいる近代以降の人間概念からの視線で見たから、小林秀雄は作者の山下清やその作品の中に下りて行こうとはしなかった。オリヴァー・サックスの場合は、〈自閉症〉者であり、また表現者でもある少年スティーヴンやその作品の中に下り立っている。そうして、自らの文明史的な土台の上からそれとは異質なスティーヴンやその作品の世界に対するとまどいもまた抱えている。スティーヴンから見た《世界》、そこからの《表現》とわたしたち「定型発達」と呼ばれる者から見た〈世界〉、そこからの〈表現〉とが大きく違っていることは、上の引用からあきらかだろう。この問題は、近代的な枠組みの個の概念やイメージを超えた人間概念の拡張の問題であるように見える。

 「模倣もまた心の作用で、身体と感性を使って現実を表現することにかけては、象徴や言葉を使った表現に劣らない人間的能力だ。マーリン・ドナルドは『現代の心の起源』のなかで、模型製作はまったく非言語的、非観念的な内面表現であり、こうした模倣という力は、ホモ・サピエンスが抽象的思考や言語を獲得する以前、数百万年あるいはそれ以上前の、わたしたちの直系の祖先であるホモ・エレクトゥスのころには支配的な認知形式であったかもしれない、と述べている。」という上に引用した部分は示唆的である。

1.ホモ・エレクトゥス(わたしたちの直系の祖先)
 ・模倣もまた心の作用で、身体と感性を使って現実を表現する
 ・模倣が支配的な認知形式であったかもしれない

2.ホモ・サピエンス(現生人類)
 ・象徴や言葉を使った表現
 ・抽象的思考や言語を獲得する

 人間は新しいことを生み出すことはない、必ず今までに人類が通ってきたものから汲み上げている、ということを吉本さんは指摘したことがある。これを踏まえるならば、とても巨きな時間スケールの中での人類の歩み、この二つの段階とその違いがあったとして、遠く過ぎ去ってきたホモ・サピエンスの世界からはホモ・エレクトゥスの世界は、通じ合えないほど異質で断層があるように見えても、人類の人間的な古層も何らかの形で現在にまで保存されていて、人が死に瀕した危機的状況で現れる臨死体験のように顕在化することがあるのかもしれない。つまり、何らかの機構で現在に発動されることがあるということを意味しているように思われる。〈発達障害〉や〈自閉症〉や〈統合失調症〉などの〈病〉と見なされているものは、まだまだそれらの解明が十分になされていないが、ほんとうは個や人類の根っこの部分に関わるもので、その根っこからの発動ではないかと、素人のわたしは想像している。

 因みに、『読書倶楽部通信』というホームページで、内側から「自閉症」を考え続けてきている松本孝幸さんは、上の1と2の区分けが正しいとすれば、1は「感覚で考える段階」、2は「抽象的思考や象徴などを駆使する段階」と見なし、「自閉症」者は主要に1の「感覚で考える」段階を生きている、保存していると捉えられている。



     (3)

 ところで、言語のはじまりは、人の生涯であれば言葉を覚える以前の幼児を考えてみるとよい。何かを指差しながらあるいは心の内で差しながら(指示表出)、「あわわ あわわ」(自働表出、自己表出)など表出する。そうして、その分離抽出された〈指示表出〉と〈自己表出〉は、現実にはひとつに織り上げられたものとして存在する。この言葉のはじまりは、人類の歴史における言葉の起源と同型と見なすことができると思われる。

 ここで、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』の基軸としての表現の概念である、〈自己表出〉と〈指示表出〉を借りて今までの問題とつなげてみる。この〈自己表出〉と〈指示表出〉は、よくわかりにくいと言われるが、それは抽出された人間の本質的な概念だから、人類史規模のものだから、難しいのである。もうひとつは、わたしたちのこの列島の歴史的な精神性は、論理や抽象に不慣れで弱いというところからもわかりにくさは来ている。


 この人間が何ごとかをいわねばならないまでになった現実の条件と、その条件にうながされて自発的に言語を表出することのあいだにある千里の距たりを、言語の自己表出として想定できる。自己表出は現実的な条件にうながされた現実的な意識の体験がつみ重なって、意識のうちに幻想の可能性としてかんがえられるようになったもので、これが人間の言語が現実を離脱してゆく水準をきめている。それとともに、ある時代の言語の水準をしめす尺度になっている。言語はこのように、対象にたいする指示(引用者註.「指示表出」)と、対象にたいする意識の自動的水準の表出(引用者註.「自己表出」)という二重性として言語本質をつくっている。
 (『定本 言語にとって美とはなにか』P29吉本隆明 角川選書)


 言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりをふくむようになり、それが発達して自己表出として指示機能をもつようになったとき、はじめて言語とよばれる条件をもった。この状態は、「生存のために自分に必要な手段を生産」する段階におおざっぱに対応している。言語が現実的な反射であったとき、人類はどんな人間的意識ももつことがなかった。やや高度になった段階でこの現実的な反射において、人間はさわりのようなものを感じ、やがて意識的にこの現実的な反射が自己表出されるようになって、はじめて言語はそれを発した人間のためにあり、また他のためにあるようになった。
 (『同上』P30-P31 )


このように言語は、ふつうのとりかわされるコトバであるとともに、人間が対象にする世界と関係しようとする意識の本質だといえる。この関係の仕方のなかに言語の現在と歴史の結び目があらわれる。
 この関係から、時代または社会には、言語の自己表出と指示表出とがあるひとつの水準を、おびのようにひろげているさまが想定される。そしてこの水準は、たとえばその時代の表現、具体的にいえば詩や小説や散文のなかに、また、社会のいろいろな階層のあいだにかわされる生活語のなかにひろがっている。
 (『同上』P44 吉本隆明 角川選書)


わたしがここで想定したいのは、・・・中略・・・言語が発生のときから各時代をへて転移する水準の変化ともいうべきもののことだ。
 言語は社会の発展とともに自己表出と指示表出をゆるやかにつよくし、それといっしょに現実の対象の類概念のはんいはしだいにひろがってゆく。ここで、現実の対象ということばは、まったく便宜的なもので、実在の事物にかぎらず行動、事件、感情など、言語にとって対象になるすべてをさしている。こういう想定からは、いくつかのもんだいがひきだされてくる。
 ある時代の言語は、どんな言語でも発生のはじめからつみかさねられたものだ。これが言語を保守的にしている要素だといっていい。こういうつみかさねは、ある時代の人間の意識が、意識発生のときからつみかさねられた強度をもつことに対応している。
 もちろんある時代の個々の人間は、それぞれちがった意識体験とそのつよさをもっていて、天才もいれば白痴もいる。それにもかかわらずある時代の人間は、意識発生いらいその時代までにつみかさねられた意識水準を、生まれたときに約束されている。これとは反対に、言語はおびただしい時代的な変化をこうむる。こういう変化はその時代の社会のさまざまな関係、そのなかでの個別的な環境と個別的な意識に対応している。この意味で言語は、ある時代の個別的な人間の生存とともにはじまり、死とともに消滅し、またある時代の社会の構造とともにうまれ死滅する側面をもっている。
 (『同上』P46 吉本隆明 角川選書)




 この(言葉の)表現の概念である〈自己表出〉と〈指示表出〉は、人間の本質的な表現概念ゆえに言葉自体に限らず、人間的な様々な問題に適用可能である。ここでは取りあげないが、政治でも教育でも理念的なものを〈自己表出〉、実際の組織の運用や諸制度をや法規を〈指示表出〉と見て、〈自己表出〉と〈指示表出〉から論じることができそうに思う。以下では、吉本さん自身が、病気という概念と言葉の関係を〈自己表出〉と〈指示表出〉という視座から捉えている。


 言葉についてもうひとつ申し上げておきたいのは、病気という概念との関係です。こいつは異常だとかんがえられることが、言葉の表現にとってはたいへん重要になるということです。
 さきほど自己表出性は内臓の動きやこころの動きに関連し、指示表出性は感覚の動きに関連していると説明したように、人間の言葉は、情動性と感覚性が織り合わされ、融合してできています。こころの表現としての言葉、感覚の表現としての言葉を説明するばあい、精神の病気や異常をどうしても考慮に入れなければいけなくなります。
 異常は、その人の精神の動きが通常の範囲を逸脱していることです。精神に異常をきたしているばあい、その人の言葉もまた、通常の範囲を逸脱しているか、通常の範囲よりも小さく縮んでいます。指示表出と自己表出を軸とする円の範囲を逸脱し、言葉のもつ範囲を無限に拡げてしまうか、無限に縮めてしまうか、どちらかの作用が起こります。指示表出と自己表出をの軸を想定できないほど、極端に拡げてしまうか、狭めてしまっているのです。

 たとえば「美しい」という言葉には、だれもが抱くイメージがあります。赤い花が咲いているのをみて、美しいと感じる。これが正常とすれば、「美しい」の共通な感じ方といえるわけです。この範囲を逸脱すると異常になります。その赤い花をみて、ものすごく醜いとしか感じない人は異常とみなされます。「美しい」という言葉の範囲が、指示表出と自己表出を軸とした円と一致していれば正常で、とんでもなく外側に拡大したり、極端に範囲が狭くなると異常になるわけです。
 極端な例をあげれば、幻覚症状があります。幻覚とは、実際に存在していないけれども、目の前にあるかのごとく、人や物のイメージが出てくるというものです。本来的にいえば、言葉の指示表出性や、言葉を表現するこころがそこまで達していないのに、人や物のイメージがみえてしまう現象です。幻覚が常態になると、通常の指示表出の範囲をはるかに逸脱し、こころがもつ指示性の働きは異常な範囲にまで拡大してしまいます。・・・・・(略)・・・・・・幻覚のばあいは、指示表出性が言葉になる前に、イメージとして通常の意味を超え、極端に拡がってしまったばあいを想定すればよいわけです。
 (吉本隆明『詩人・評論家・作家のための言語論』P95-P98 メタローグ 1999年3月)


 言葉の異常は、その人がもつ固有のイメージが通常のイメージから逸脱するように、あらかじめ内部で固定観念ができあがっていることです。たとえば「美しい」という言葉であらわす物について、あらかじめその人の内部に固定観念がつくられている。固定観念が正常と違っていれば、何を美しいというのかも、正常な人とは違ってきます。
 ある特定の事柄をあらわす言葉についておかしな固定観念をもっていると、その言葉は、指示表出と自己表出を軸にした円を逸脱したところに位置してしまいます。これが妄想や幻覚と呼ばれているものです。
 ただ、普通の人と違っていること自体は、異常とはいえません。精神異常は、日常性に障害をもつ欠損や歪みであるといいますが、単に少数であるためにわるいとされているだけです。もし多数を占めていれば、それが正常となるのです。
 妄想や幻覚も同じで、現在の社会では異常とみなされますが、妄想や幻覚のある人が多数を占めれば正常となります。そういう状況はありうるのです。人類の未開時代では、幻覚や妄想のある人のほうが正常で、ない人は異常だったということがありえたわけです。現在の社会では精神異常でも、未開社会にもっていけば、正常と異常が逆転することもありうるわけです。精神の異常はけっして固定的なものではありません。
 また、かつて人類が体験したことがないような、新しい異常もありえません。未開時代に体験したか、いま体験しているかの違いだけで、過去に一度も体験したことのない精神の動きを人類はもちえないのです。新しい精神の異常な動きやイメージが出てくることはなく、すべて過去の時代にあった精神の動きです。そのほうが多数を占めていたなら正常といわれたとおもいます。
 正常とか異常とかは、いまの社会段階で判断したいるだけですから、確たる根拠はありません。ただ現在では不自由なだけです。日常生活に差し支えるし、たにんとのコミュニケーションに差し支えるから、治さなければいけないというだけのことです。ほんとうは異常ではないのですから、本来的には治しようがありません。少数だから異常とされていますが、ほんとうはそういえないわけです。
            (『同上』P99-P101)


 「妄想や幻覚」とあるからここで考えられている病気は、統合失調症などの精神の病気を指している。その場合、〈自己表出〉と〈指示表出〉は、通常の状態から逸脱し、通常より拡大したり縮小したりすると述べられている。この「言葉の異常は、その人がもつ固有のイメージが通常のイメージから逸脱するように、あらかじめ内部で固定観念ができあがっていることです」と、ここでは「固定観念」とあるが、これを保存されたある歴史段階の観念やイメージと置き換えれば、先に述べたものと対応すると思える。すなわち、ごく大ざっぱに見て、「通常の状態」をホモ・サピエンス(現生人類)の抽象的思考を持ち象徴性を駆使する観念とすれば、「固定観念」は、それ以前の歴史段階のホモ・エレクトゥス(わたしたちの直系の祖先)の模倣が支配的な認知形式でありそれにまつわる観念を持っていたことに対応している。

 「かつて人類が体験したことがないような、新しい異常もありえません。未開時代に体験したか、いま体験しているかの違いだけで、過去に一度も体験したことのない精神の動きを人類はもちえないのです。新しい精神の異常な動きやイメージが出てくることはなく、すべて過去の時代にあった精神の動きです。」とあることからもそういえるだろう。すなわち、統合失調症を現在の中心的な主流の感じ考えに心身ともに追い詰められて倒れたものとすれば、生きつづけようとするならそれ以前の過去の段階の感じ考えに行き着くほかないからである。自閉症や発達障害と呼ばれるものの場合も、原因は分かっていないが身体性に関わる何かの異変によるものかもしれないとして、その異変が人間に保存されているとても古い段階のものの顕現につながっているように感じられるからである。


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 2984-2987

2022年02月26日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



2984
世界の空中戦・情報戦、上気したテレビの神経反応よりも
きみの心に
冬の木の葉が落ちていったこと



2985
たった一枚の木の葉
ひんやりひらひら
うっすらと心の空洞を照らしてゆく



2986
家族の 社会の 国家の 戦争では
大事なことが語られない
いつも大声が場を制圧していく



2987
制圧下でも魂までは制圧できない
ひとりひとり身をよじるように
新しい芽は小さなみどり輝いている

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 2980-2983

2022年02月25日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



2980
無言ではあるが
すれ違う人
道行く人にあいさつしている



2981
時にはそういうこともある
寒い冬日の
晴天の日差しの下



2982
世界がぜんたい曇り日でも
ここだけは
そこだけは 清清するな



2983
近く遠く 曇り日続きの空洞を
歩いている人々がいても
きみは(・・・・・・)の無言のあいさつしかできない


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 2976-2979

2022年02月24日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



2976
目をつぶると静かな舞台に
下りてゆく
色色の細い流線の束が流れている



2977
たぶんドラッグとは違って
静かなそれは静かな
舞台が明滅している



2978
そうか 旅は 旅は空間移動ばかりではない
ここから
この時間からダイブする



2979
(あ はるかな記憶の海の
匂いする)
サンタルチア サンタルチアよ


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 2972-2975

2022年02月23日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



2972
(救いはあるのだろうか・・・)
この重たい閉域に
光は差すか ひかりは



2973
ふいと出る歌の破片
水面に
きらきら輝いている 見える



2974
(サンタ ルチア
サンタ ルチア)
ふしぎな念仏のように歌っている



2975
サンタルチア サンタルチアよ
舟は 舟は
どこで待っているのか どこへ向かうのか

最近のツイートや覚書など

2022年02月22日 | 覚書
最近のツイートや覚書など

※今回は、だいぶん長めのものになっています。 
 
2021/07/03
先日、ネットで南方熊楠に「人柱の話」という文章があるのを知った。「人柱」の話は、柳田国男も何度か触れていたが、それが説話なのか事実あったことなのか曖昧に感じられた。古川古松軒(ふるかわこしょうけん)の九州地方見聞記である「西遊雑記」にも一度「人柱」の話が出て来た。

南方熊楠の「人柱の話」は、旧字があったりで少々読みづらいが短文で「青空文庫」で読める。ヨーロッパやわが国の「人柱」の例を書物・資料から紹介している。なぜ橋や建物に「人柱」を立てるかというと、それによって橋や建物が守護され強固になると信じられていたかららしい。

マヤ文明やインカ帝国の「生け贄」もこの「人柱」と同様の考え方から来ているように見える。現在からは迷妄、無意味、残虐に見えるが、当時どうしてそういう思考法に至ったのかの解明は、わたしたちが人間というものを知る上で大切なことだと思う。

付け加えれば、近くは先の大戦の「特攻」もこの「人柱」と共通の心性から来ていると思う。



2021/07/12
吉本 うちの父はなんだかんだいってやっぱり、九州の人ですよね。
吉本 なんだかね、いままで父について「あれ? おかしいな」と思ったり
私から見て「ええっ!」と驚いたようなことが、「ここでは常識」って感じでした。
天草に行って「ああ、こういうことだったのか」と肌で感じることがありました。
吉本 だって、父なんて、一瞬も住んではいないはずなんですけどね。
吉本 だけどまあ、父がこっちに来て育った環境でも、周りは全員、天草の人でした。
(吉本ばなな 第4回 隆明さんと忠則さん。 2021-07-12 「ほぼ日」)



一般化すると、祖父母や父母が〈天草〉をものの感じ方や考え方や言葉や風習などとして身に着けていたとして、それは異郷(東京)で生まれた子ども(吉本さん)にも散布されるし浸透していく。しかし、吉本さんが東京で育ち妻との間に生まれた子らにはもはや〈天草〉は不明になるほど希釈されて浸透している



2021/08/25
レーニンの構想  公務員の給与
古い話では、レーニンは公務員の給料は労働者の平均でなければならないと構想したがうまくいかなかったらしい。そうしてソビエトロシアは、強制収容所やノーメンクラトゥーラと呼ばれる特権階級を生みだした。この普通の時代になっても勘違いの特権性は中国やわが国でも蔓延しているようだ。



東浩紀「変異株と自粛疲れで感染拡大 医療体制を変えるほかない」
連載「eyes 東浩紀」

 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

*  *  *
 緊急事態宣言の延長と拡大が決まった。東京など6都府県に出されている宣言の期限が9月12日まで延長され、対象地域に京都や兵庫など7府県が追加された。新規感染者は連日2万人を超え、重症者数は日々最多を更新している。

 とはいえ市民の反応は驚くほど鈍い。人々は緊急事態に慣れきっている。ワクチンが普及し死者数が抑えられていることも大きい。街の空気は昨年4月の最初の宣言時とまったく異なっている。

 ネットではその状況に苛(いら)立ち、強いロックダウンを求める声が高まっている。分科会でも個人の行動を制限する法整備の必要性が議論されたという。けれども実現は難しいだろう。現状で自粛の要請は限界まで行われている。これ以上の人流抑制を求めるなら、外出したら罰金、県境を越えたら逮捕といった強制力を導入するほかない。現憲法下ではそれは困難だし、そもそも国民が許容するかどうかも疑わしい。いずれにせよ慎重な議論が必要なはずで、喫緊の危機には間に合わない。

 ではどうするか。結論からいえば、感染拡大をあるていど許容し、それに耐えるように医療体制を変えるほかないはずである。具体的にはコロナの感染症法上の分類を見直し、より多くの病院が入院患者を受け入れられるようにすべきだろう。医療関係者からは、そうすると命の選別が始まる、医療の質が落ちると反論があるが、これだけ大規模な流行のなか、従来と同じサービスを維持できると考えるほうに無理がある。平時で救えるべき命が救えなくなるのは痛ましい。しかしそれが災害というものだ。

 日本はこの1年半、強権的な戒厳令を発することもなく、自粛の「お願い」だけで感染を抑え込み、通常医療を維持してきた。それは世界に誇るべき成果である。けれどもそんな「日本モデル」は、変異株の出現と人々の自粛疲れで急速に機能を失い始めている。

 ワクチンも万能ではない。これから新たな変異株も現れるかもしれない。私たちはその現実を認めて再出発しなければならない。行動変容と感染防止が最大の正義だった段階は、もはや終わったのである。

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まず、こんな緊急時の医療体制の構築に直接の責任を負うのは国と地方自治体であり、現場では病院や医療従事者が活躍している。わたしは、そのいずれにも直接の責任が持てないから、普通の生活者の視線になる。だから、現在のような状況では一人でも多くの人がまともな医療が受けられるようにという視点

からの批評になる。この東浩紀は横目でチラくらいしか知らないし関心がないが、その上空からの「批評的視点」は、どうしてこういう現状になったかの認識もなく、口だけの政治家や言ってみるだけの評論家レベルでしかないなと思う。


2021/09/01
わたしは、他の疾病との死亡率の統計比較やこのような学者目線の言葉にはうんざりしている。そこには生身の自分は勘定に入ってない。いまあらゆる考えや言説に必要なのは自分を含めた生活者目線を必ず含んでいること。それ以外は、不毛と頽廃の知識のアクロバットに過ぎないと思う。

わたしは政治に多くのことを望んでいるわけではない。ただ、現在を生きているみんなが非正規待遇や経済格差など社会のもたらす大きな苦痛を受けることなく、それらが是正されできるだけ穏やかな生活が出来ることを望んでいるだけだ。また、対外的には、軍備に頼り過ぎるのではなく外国の人々を手厚く

待遇したりしてうまく付き合う本物の外交に注力することだ。この荒れた社会が今より良くなれば、家族関係も人間関係も少しはましになっていくと思う。後は、社会内のわたしたちひとりひとりの、少しでもより良い関係を織り上げていく日々の努力にかかっているはずだ。これは長い道のりでもある。



021/09/03
まだまだ武力で相手をやっつけたり、政権を倒したりということが世界では起こっている。しかし、世論調査の政権支持率やバーチャル世界(SNS)での私たちの意思表示が、回りくどくてもある力を持ちうるようになっていると思う。そうして、これは武力と違って非暴力で血を流さない。


2021/09/04
メンタリスト DaiGoの件
彼の文章のチラ見から中身を想像できると確信するが、そんなまがいものの言葉でそんなべらぼうに稼いでいたなんてこの経済社会の仕組みはミラクルだ。あれだけたくさんの本を出してこの世界や人間の本質論を追究した吉本(隆明)さんは裕福どころかそんなに余裕のある生活ではなかったようなのに。

別に彼の所得をあまりうらやましいとも思わない。現在の経済社会の思想と人間観がそんな高額所得を受け入れている。プロスポーツ選手や有名人などが、多くの普通の人々を引きつけることによって、多額の経済的富を生みだしているからだろう。私はそれに異和感はあるが、現在の経済思想・人間観では解決不能だ。

唐突に見えるかもしれないが、毎月6~7万ぽっちではないBI(ベーシックインカム)が必要だと思うな。現在までの人間と社会が生みだした富の再分配、贈与による経済を回す(素人で可能どうかよくわからないけど)。そうした動きは、有名人の数億稼ぐという現在のいびつさも解消していくような気がする。

(名前は忘れていたけどやっとたどりついた。)前のツイート関連でなぜか、江戸後期の歌人橘曙覧(たちばなのあけみ)の「たのしみは」で始まる日常詠を思い出した。「たのしみは小豆の飯の冷たる茶漬てふ物になしてくふ時」高いパンケーキでもいいけど、誰にもこんなものがあるような気がする。


2021/09/06
岡井隆bot @OkaiTakashi_bot
風のなかの羽根を唱(うた)へる軽薄な公爵のこゑに総てが あ、る、の/岡井隆『E/T』 #tanka
2021年9月6日



一瞬、ムイシュキン公爵(ドストエフスキーの『白痴』の主人公)を思い浮かべたが、「軽薄な」とあるから違うかな。いずれにしても、これは日常場面ではない。物語世界の話題か。誰かに語りかけるような歌になっている。たぶん、こういう短歌的な表現は今では見慣れていても、目新しいものではなかったか。


歌集『E/T』は、2001年の刊行。当時はこんな表現もアリなのと、し、ん、せん、ね、だったのかもしれない。この歌の生命は「あ、る、の」にありそうだ。
風のなかの/羽根を唱(うた)へる/軽薄な/公爵のこゑに/総てが あ、る、の
6・7・5・9・7となり、散文的な歌になっている。


ワクチンについていろんな悪情報が流れてくるが、トランピアン(日本の場合は米と違って政治オタク趣味者)の人が流しても信頼できないんだよな。安倍ほどでなくても日常でよく嘘をつく人は、そのような者と見なされてしまうのと同じで、たとえホントのことを言っても信用されない。

しかし、インフルエンザワクチンは受けたことなくあんまりワクチンの世話になったことないけど、今回のワクチン問題は今までになく問題含みだなと思う。みなさん、警戒しながら受けているような印象がある。うちでも、奥さんが済み子どもが1回目済み、その後にしようと思っていた私は少し迷っている。


政治に限らず現在でも組織や集団の縛り(党派性)はきついだろうけど、究極のあれかこれかという場面では、やっぱり根っこの生活者(大衆、市民、住民、国民)を取るという課題は、依然として本質的、状況的課題であると思う。不幸にも孤立した赤木さんだったが、その課題に存在を賭けて答えたのだと思う。


2021/09/07
この名前を見て、読み方もわからず、何の根拠もなく、アイヌ語との関わりがありそうに思った。調べてみたら、白老(しらおい)「地名は、アイヌ語のシラウヲイにより、「虻(あぶ)の多いところ」を意味する。」ともある。虻と言えば、汗に反応するのか、そのまとい付くしつこさはこのうえもない。


2021/09/09
現代短歌bot@gendai_tanka
婦人用トイレ表示がきらいきらいあたしはケンカ強い強い  飯田有子 #短歌
2021年9月9日

この歌の本流は、「婦人用トイレ表示」や「ケンカ」への強い選択性やこだわりと、「きらいきらい」や「強い強い」というリズムに乗った強い感情表現にある。短歌表現として見れば、通俗的に見え感じられるが、57577の枠の拡張や破壊の欲求を秘めているか。いろんな歌人にも出会えるなあ。


2021/09/11
「ワクチン接種と因果関係が明らかな死亡はない」などと自信過剰で、断言調で言う医者などがいるが、単に現在の科学の水準ではその解明ができないということに過ぎない。むしろしょんぼり言うべきこと。接種後の副作用(副反応って何?)はもっとなんとかならないものか。ロシアンルーレットの気分。


2021/09/12
アニメを実写化というのは聞いたことも観たこともある。今初めて目にしたが、実写をアニメ風に変換してくれるソフトがあるんだ、ふうん、映像の自由度の拡大か。ところで、昔なら写真や映像に撮られたらそれは〈事実〉で逃れようもないことだったが、現在では処理や加工の問題も考慮しなくてはならなくなった。


2021/09/13
会話や仕事のために英語を学ばなくてはならない苦役(一部のものには快楽)から、こんならも早く解放されそうな勢いに、わたしは爽快な気分になる。他の教科についても、教育もそろそろ曲がり角で大きな変革が必要な気配を感じている。

細分化の袋小路から、何やら利益誘導を思わせるこの前の大学入試改革(失敗に終わったが)のようなさらなる細分化ではなく、子どもにとっても先生にとっても苦役としての教育からバッサリと、現在において何が最低必要か、そこから教育内容を大改革すべき時期に来ていると思う。


2021/09/13
百日草の名前から、数のことを少し考えてしまった。百日草がどのくらいの期間咲き続けるのか観察した人はいるのだろうか。いくら長く咲き続けるといっても千日草では大げさだから事実関係を考慮して長く咲く花という意味で「百日草」と名付けたのだろうか。

とても長いという意味で千日草と適当に書いたら、千日草(千日紅)という花も実際にあった。今では100といえばきっちり100という数や量を表すが、遙か昔に遡っていけばだんだん「たくさん」という意味の数である100などに近づくのだろう。八岐大蛇、八百万の神、十重二十重(とえはたえ)・・・。


2021/09/22
例えば「勝手踏切」にも歴史的な事情があり、小さな生活道路を断ち切る形で線路を通さざるを得なかったために、「勝手踏切」として鉄道法上と生活現実とのあいまいな形で今に至り、きっぱりと割り切れない現状がある。これは、超未来の銀河鉄道999みたいに上空を走る汽車や車が普通にならないと解決は無理かな。
あるいは、大きな自然災害対策や生活環境対策として、日本列島にいくつか形成される巨大なバベルの塔みたいな都市にみんなが住むようにならないと解決できないのではなかろうか。


2021/09/23
わたしは、人間の誰にも関わる経済(活動)には関心があるが、細分化された経済学のリフレやらインフレやタフレやフレフレなどには興味関心が入って行かない。要するに、現状と違って、わたしたち国民(生活者大衆)を中心に据えた、そのための経済政策を取ればいいだけと思っている。それが判定の基準。


2021/09/24
前回の民主党政権は、自民党の悪しき村政治からの脱却を図ろうとしたのだろうが、一度目でもたついたり党内部のトラブルで沈没した。今度の政権交代ではその負の経験が生かされ国民に開かれた政治を望む。安倍政権以降自民党は法律無視や裏工作やエア政治(やってる振りの政治)の限りを尽くしてきている。腐敗は進行中。


私たちの世界では、わいわいはしゃいだり、寝転んだり、ぼーとしたり、ひとりに思い沈んだり、は普通のことだが、主流にいると勘違いしている多くの政治家や経営者や評論家、学者はそのことを捨象してるのではないか。つまり、狭量な人間把握から合理性や生産性やキャリアアップ等々の諸概念が出て来る


2021/09/25
政権と官僚層とマスコミとの三位一体が構成する日本社会の権力構造を分析して見せた『日本/権力構造の謎』の労作で知られるカレル・バン・ウォルフレンが、陰謀論的な考え方に落ち込んでいるという毎日新聞の今朝の記事に出会った。驚いた。
https://mainichi.jp/articles/20210924/k00/00m/030/174000c

結局、何が問題かと言えば、自分の考え(思想)の拠り所をどこに置くかということの問題だと思われる。例えば、人はUFOの存在を信じUFO世界にのめり込むことが出来る。ちょうど、汽車や電車の趣味に熱中し没入するのと同じように。しかし、人は、具体的に活動し日々生きていくから、その日常世界に帰って行かなくてはならない。

つまり、私たちの日常世界での具体性を伴った感じ考え行動するを無視した抽象的な思考や思想は、部分的にしか成り立たない。陰謀論的な感じ考え方は、日常生活の中ではちょうど大工の息子にしか見えないイエスが故郷で受け入れられなかったと同じようにしか見なされない。

P.S.(付け加えれば、)人類の歴史のなかで生みだし構成してきた〈人間〉というものの有り様は、陰謀論的な感じ考え方と希望や勇気や向上心に満ちた考え方とを両極端として、善も悪もかき混ぜられているその中間のスペクトル帯に小さな善や悪に揺れながらもいい加減になったり真面目になったりして生きて在る、と見える。


2021/09/26
村瀬学さんのホームページに『生命詩文集 織姫 千手のあやとり』(PDFファイル 76P)がUPされていて、無料で読めます。冊子も頒布されるようです。読みたいと思っていた村瀬さんのベーシックインカムについての文(雑誌『飢餓陣営』に掲載されていたのは「ベーシックインカムから存在給付へ」かな?)も

収めてあります。
ホームページ「村瀬学の小径」
http://jidoubunka.com/ 




子供の絵
伊東静雄

赤いろにふちどられた
大きい青い十字花が
つぎつぎにいっぱい宙に咲く
きれいな花ね たくさんたくさん
ちがうよ おホシさんだよ おかあさん
まんなかをすっと線がよこぎって
遠く右のはしに棒が立つ
ああ野の電線
ひしゃげたようなあわれな家が
手まえの左のすみっこに
そして細長い窓ができ その下は草ぼうぼう
ぼうやのおうちね
うん これがお父さんの窓
性急に余白が一面くろく塗りたくられる
晩だ 晩だ
ウシドロボウだ ゴウトウだ
なるほど なるほど
目玉をむいたでくのぼうが
前のめりに両手をぶらさげ
電柱のかげからひとりフラフラやってくる
くらいくらい野の上を
星の花をくぐって

「伊東静雄詩集」所収 1953


伊東静雄の敗戦後の詩のひとつ。このような詩からは、それ以前の詩(詩集『わがひとに与ふる哀歌』『夏花』『春のいそぎ』)は想像できない。しかし、京都帝大在学中に書いて懸賞に応募し一等当選した童話「美しい朋輩達」―話の概略はわかるけど、今に残ってはいない―と通ずる感性の詩ではないかと思う。



劇場版の『「鬼滅の刃」無限列車編』の公開は2020年10月16日。そして、1年も経たないうちに、それが昨日テレビ放送された。一昔前は4年ほどしてから映画はテレビ放送されていたような印象がある。それが最近では2年くらいになっているなと感じていた。テレビで続篇を放送したり、グッズを販売して

いたり、読者・観客の興味関心をつなぎ止めたいという欲求の表現なのか。その道に詳しくないので、そんな印象で終わるしかない。しかし、この映画版→テレビ放送の時間の短縮は、この問題に限らず、この社会の表層を流れる時間の加速化と連動しているように感じている。

そのような時間の加速化は、学校の子どもの学習意識や会社の仕事においては切迫感をもたらすなどの負の性質もありうるが、ゲームを楽しむような快をもたらす面もある。ともかく、この時間の短縮はわたし(たち)にはありがたい。録画したので、たくさんのコマーシャルをかき分けて近々観たいと思う。


2021/10/01
今の与党政治(自公、維新含む)には否定的関心しかない。つまり、早く消えて欲しいだけである。そうして、悪行の数々が白日の下に晒されて責任を取らされるべきである。そうでないとわたしたちはいつまでたっても〈未来〉に入っていくことができない。

政治が〈未来〉に入るための最低条件は、裏で利害を回し合ったり政争したりする村政治の自民党的なもの(公明・維新含む)を一掃することである。しかも、「保守」なんて単なる退行の別名でしかないものを看板にしているが、安倍-菅によってそれはシン自民党として腐敗の領域にまで進化してしまっている。

この〈未来〉、〈未来〉に入るとは、もちろん、未だかつてなかったこと、すなわち、降り積もった解決すべき疲弊した社会的な諸課題を国民(生活者大衆)中心に解く態勢を築き実行に入ること。口先だけの「トリクルダウン」政治ではなく、国民主権の、国民(生活者大衆)中心の政治に入ることである。


2021/10/02
RT 朝日新聞の記事 HPVワクチンの問題

この問題は、現在進行中のコロナワクチンの「副反応」とも関連する。それをいろんな例示として見る以前には、HPVワクチンの問題は、「副反応」なんてないという医者や医者擬きもいて実感としてはよくわからなかった。ワクチンの有用性は認めるが、問題をオープンにしてていねいに対処する、これが基本


2021/10/05
最近では、テレQで『王になった男』、『王女の男』、『奇皇后』等の韓国時代劇を観てきたが、わが国の時代劇とは違ったものがあり、ハラハラドキドキいいもてなしの作品になっていた。しかも、宮中での激しい権力争いを通して、権力の不可避さと同時に権力というものの悲哀や虚しさも描いている。

『吉宗評判記 暴れん坊将軍』の、将軍が街中を出歩いたり、悪党との立ち回りをするなんてあり得ないことだったろうが、将軍職周辺の窮屈さはあり得たことでそれも作品として匂わせている。国家の最初期を想像すると、長は集落の民とも近く、『吉宗評判記』のような世界に収束していくのかもしれない。

将軍職周辺の窮屈さから連想して、現在でも窮屈さが残っていると思われるのは、天皇家だろう。たぶん、日常生活の中の話し方や考え方や振る舞いにも〈天皇家〉という型(窮屈さ)が浸透したものになっているのではなかろうか。今回の結婚に関してもづけづけ言いたいように言うことはかなわないのだろう。


2021/10/06
数百年規模の長周期の地球の振る舞いから来る寒冷化-温暖化の「温暖化」の問題も、人為が地球に与えうる影響も、今度の新しいワクチンも、自然や自然の一部(人の体)がまだよくわかっていない。自信過剰で大声で主張する者があるが、まだよくわかっていないことに対して謙虚であるべきだと思う。


岡井隆の『わが告白』を読み終えた。短歌・詩(表現)をイメージや幻想となった〈わたし〉の振る舞いとすれば、作者はこの『わが告白』をも詩(機会詩)と見なしたがっているが、これは地上につなぎ止められた地上的な〈わたし〉の有り様を自己対話によってできるだけ偽り少なく捉えようとする試みの書であろう。

この『わが告白』(2011年12月)に触れることによって、岡井隆の短歌・詩の表現がきわめて地上的なモチーフを持ったものとして、人間的な生ま身の姿でわたしたち読者の前に現れていることを、再確認させてくれるだろうと思う。

岡井隆は、若い頃にはキリスト教にも熱を入れ、政治運動にも関わった。歌会始への関わりは、それも古代からの歌の一部だから、そういう世界も見ておこうじゃないか、という考えからと思っていたら、違ったようだ。『わが告白』によると、岡井隆も柳田國男と同様に天皇や皇后に親愛の情を持っていた。


2021/10/11
日本テレビと言えば、最近気づいたこと。夕方の「news every.」で、ニュースなどを報じているときに、聞こえるか聞こえないか位の音量でバックミュージックを流していて、サブリミナル効果を連想してうんざりした。そこまで音響効果にこだわるか。ニュースの内容にこそこだわって欲しいよ。


2021/10/12
美術ファン@世界の名画@bijutsufan
黒田清輝『ポプラの黄葉』1891年 島根県立石見美術館

江戸時代までの様式の美(例えば松の木の描写)からは考えられない描写、表現だと思う。作者の中で時代の変位と対応した思考や美的感覚の葛藤、変位が起こっているのだろう。


2021/10/13

厚生労働省@MHLWitter
A.「ワクチンを接種した後に亡くなった」ということは、「ワクチンが原因で亡くなった」ということではありません。接種後の死亡事例は報告されていますが、現時点で、新型コロナワクチンの接種が原因で多くの方が亡くなったということはありません。


おっとう、自信過剰。現在の科学の水準では関係あるかないかを判断できない、と小声で言うべきではないか。ともかく、今回のワクチンでワクチンはちょっとアブナイものとイメージが悪化した、これはわたしだけではないと思う。みなおそるおそるワクチンを打ったのではなかろうか。


2021/10/22
マイナンバーカードは、私たちの前に現れた最初から、
1.何が便利なの?
2.面倒くさい書類を毎度添付しなくちゃならないの?
というふうに、私たち国民の利便のためとは思えなかった。また、信用できない自公政権が進めることやあまりに信用できない大臣のヘタな歌の宣伝にもうんざりした。



2021/10/23
NHK『ドキュメント72時間』「夏の終わりに 駅地下の駐輪場で」

NHK『ドキュメント72時間』を途中から少し観た。例えば『鶴瓶の家族に乾杯』と比べて、盛り上げようとか何か面白いものを掘り出そうとかいう意図が少ない。ありふれた、しかも言葉に言い尽くせないものを沈めた日常の一コマをインタビューを通してさり気なく浮かび上がらせる。いい番組だなと思う。


2021/10/26
現在でも、○×主義とか△□主義とかあって、互いに対立ししのぎを削っているが、政治(宗教・行政)が小さな集落レベルで始まった太古には当然そんな主義主義はなかった。もし、政治(行政)がほんとうに国民(住民、生活者大衆)のためであるならそういう対立はおかしいが、現在の段階ではそれを抜け出せないでいる。

100年後には、「無党派」が100パーセント近くなり、ということは党派が消滅して政治(行政)が真に国民(住民、生活者大衆)のためのものとなり、政治(行政)を当番のように担当するメンバーが互いに知恵を出し合うようになっているだろうか。しかし、私は100年後を待てない。


2021/10/31
勝海舟『氷川清話』(講談社学術文庫版)をすこしずつ読み、やっと読み終えた。併読だから読むのが遅い。西郷隆盛と勝海舟は、政治的実践家としてともに群を抜いて優れていたと思う。さらに、個人的な生き方としてもともに魅力的な人物である。ひとつ引用。(P341),「畢竟」(ひっきょう)。

「いつかおれは、紀州侯の御屋敷へ上つた帰り途に、裏棚(うらだな)社会へ立寄つて、不景気の実状を聞いたが、この先四、五日の生活が続かうかと心配して居るものが諸方にあつたよ。畢竟社会問題といふものは、おもにこの辺から起るのだから、為政家は、始終裏棚社会に注意して居なければいけないヨ。」



覚書2021.1102

近目には、口では国民(生活者住民)のための政治と言いながら、互いに対立する党派や集団が存在する現在があり、その現状を無視することはできない。たぶんどこへこぼれ落ちるかわからないトリクルダウン政治が相変わらず続いている。与野党の選挙支援活動に関わる人々を全否定はしないが、私はそこじゃないと思う。遠目には、太古の集落の行政の始まりと同様に、対立する党派は消滅し「いやいやでも」誰かが行政を担当しなくてはならないというイメージになる。現在の、優等生風の使命感を持った「好き好き」の議員ではなく、学校の生徒委員のように「いやいやでも」誰かが担当し知恵を出し合う、そういう行政のイメージになる。したがって、二つの目を現在の私において統合すれば、いわゆる「無党派」としていずれの党派にも加担しないという立ち位置になる。加担するとすれば、私たち生活者住民の無言の意志、日々の生活のきぼうのようなものであろうか。
この「近目」「遠目」は、吉本さんの「現在的な課題」と「永続的な課題」ということを意識している。


2021/11/06
現在は、映像の時代で、言葉だけではなんとなく物足りない気分になるような気がする。それを想像力が弱まるとか欠如すると考える向きもあるかもしれないが、この動向は避けられない必然の流れだと思う。いくら想像しても現場の具体性を構成するのは難しい気がする。


今まで韓国の主に宮廷ドラマをいくつか観てきた。今は「ホジュン―宮廷医官への道」を観ている。両班(ヤンバン)という民衆よりも上層の階級がしばしば出てくる。わが国の武家層や貴族層に相当するものか。ドラマで観る限り、階層間の断絶や対立は、わが国よりも韓国の方が厳しかったように見える。


2021/11/07
うーん、現在から見たらそういうことも無視できないと思えますが、例えばスマホ(私は持ちませんが)を通して話すのは直接的な自然の肉声ではありませんね。私たちはずいぶん人工的な自然ver2.0の世界に住みそのことになじんできています。コミュニケーションは貫きつつ形態が変位していると思います。

100年前の写真などで見ることができますが、昔の人はものすごい重い荷物を担ぐことができますね、あるいはそうせざるを得なかったからそうしたのでしょう。現在ではパワースーツなどが補助してくれますね。いろんなところで、旧来の自然性を更新しつつあるように感じています。

例えば「教育」を考える時、馬車馬のような現在の流れや考えを背景に、経験・学習・反復・競争・成果等々自分の考えを組み立てる人々が多いと思うが、自分のいい加減な学校時代や太古の人々のおそらくゆるい時間の中の学びということについて想起してみることは、現在のビョーキから免れる一つと思う。


2021/11/08
私は「マイナンバーカード」は作ってないし、書類はいつもパスしている。「マイナンバーカード」に不審・不信を感じる理由は、制度が出来て何年経つか知らないけど、最初から私たちが便利だなと感じるように作るべきだったと思う。それが逆に何々の書類添付が必要だのかえって面倒そうだった。

つまり、あちら(行政)の都合が中心で私たち国民(生活者)のことを中心に考えていないんだなというのが見え見えだった。今頃になって、健康保険証としても使えるし、ポイントがどうのと言われてもね。馬鹿にしてるじゃないか。


2021/11/09
今(11月3日)NHKが「SDGsをクイズで楽しく学ぶエンタメ番組」を放送している。「SDGs」という言葉を私は積極的に使うことはない。なんか異和感がある。現在の世界レベルの課題を解決しようで良いのではないか。ところで、例えば人間界の公害どころではない人間界を超えた自然界の威力や規模はものすごい。

年間の人間界の二酸化炭素総排出量と自然界のその総排出量(火山の噴火などなど)とはきちんと計算・計量された上で、現在では人間界の二酸化炭素総排出量が勝っていて影響力があると見なされているのだろうか。また、それと関わって自然界の長周期の寒冷化・温暖化という有無を言わさぬ振る舞いもある。

当然のことだろうが、自然界の二酸化炭素排出量も分析されているようだ。

Forbes Japan
「人類による二酸化炭素排出量は「火山の100倍」であると判明」
forbesjapan.com
人類による二酸化炭素排出量は「火山の100倍」であると判明 | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)
大気中の二酸化炭素の最大の排出源は人類の活動であることが、学術誌「エレメンツ」に掲載された論文で明らかになった。この研究は各国の科学者500人以上が参加した国際共同研究機関「深部炭素観測(ディープ・カーボン・オブザーバトリー、DCO)」による
2021年11月8日


かと言って、宇宙に浸かっている地球の三百年位の長周期の寒冷化・温暖化という有無を言わさぬ振る舞いと人間界の産業活動(人間力)の影響力と比べものになるのかなという疑念は残る。よく「地球に優しい」とか耳にするが、地球という自然はそういうことに関わりなく生誕から死への道を自然に進んでいく。


2021/11/19
もし、アメリカなどの軍やNPOやNGOなどの世界での振る舞いとその意味・評価を知りたければ、ということは、安易な「力の政治」「軍事力の行使」の無意味さを知りたければ、アフガニスタンに生きて活動した中村哲の言葉、そのアフガン社会の内からの、民衆の内を潜ってきた視線や言葉に学ぶべきだと思う。

中村哲は、西欧的視線につながる、主に1割ほどの都市住民からの女性の権利の主張や教育問題など否定はしないが、それよりも8割の農民と1割の遊牧民の織り成すアフガン農業社会で、大きな干害に難民化していた人々がまずは〈食べて〉〈生きる〉ことに視線を注いでいた。


2021/11/20
「根も葉もルーマー」って何かいなと思ったら、秋元康の作詞した歌「根も葉もRumor」。この歌の中の「僕」は若者だろうから、63歳位の秋元康は、日頃若者世界に深く付き合っていたとしても、想像的に努力して若者になりきっていることになる。英語のフレーズを歌詞に混ぜるのはもう自然になってしま

ったのかな。平安朝なら中国のフレーズを混ぜていたろうか。その英語のフレーズや「根も葉も(ない)噂」でなくてじれったい「根も葉も(ない)Rumor」というのは、若者たちの生の心を飾り付けして舞台に上げる〈衣裳〉に当たっている。そして、「僕」自体になりきってしまうのは難しいことだが、

感触としてだが(「大人になるってそういうことだって思う」や「生々しいキスマークが/君の人生だ」など)、「僕」を抜け出した作者の上から目線も混じっていると思う。
まあ、それにしても若者世界を〈歌い〉続けるのもたいへんだろうな、と思う。


2021/11/25
「オスプレイは扉を開けて飛行することがあり」としても、どうやったら上空から水筒が落ちるのだろうか?ふざけていた?遊んでいた?みらこーみらこー?防衛省@ModJapan_jp などは、毅然として、アメリカ軍の弁明を獲得し私たちに公開すべし。弱腰やムニャムニャばかりではため息しか出ない。


2021/11/26
「地位協定は第1次裁判権が米国側にあると定める」って、「地位協定」も日本側担当者もクソッタレじゃないか。「普天間のオスプレイは13年2月にも」水筒を落下させていたとは、オスプレイは水筒を落下させやすい構造なのか?米軍はアフガニスタンにおけると同様に日本人に対しても上から目線を感じる。


それと、外から島に来た者たちに対する恥ずかしいまでの担当部署や官僚・政治家たち(よく知らないが、外務省や防衛省か)の屈従ぶり。まるで、太古の南洋の島々に見られたようなマレビト信仰。何が軍事だ、力の政治だ、世界戦略だ。外交や軍事や人間社会に対する見識の欠片もない。


2021/11/28
詩はお金にならないとよく言われる。これをしょんぼりではなくてアクティブに理解すると、詩はどこにも遠慮せずに自由に言葉を行使できるということを意味する。おうおう、やってやろうじゃないか。この世界を、そして自分自身をも、白日の下に晒すんだ。みちのイメージが点るまで。


文学では、純文学と大衆文学の無用な垣根が壊れて久しい。「無用な」ということは現在から眺めて言えることである。思想では、知識人・学者などと私たち素人の垣根。・・・たくさんの垣根があったのが、壊れ果てているが、これは産業社会(消費資本主義)がもたらした自然な過程であって、自覚的な捉え返しというわけではない。

人間はもたらされた新たな自然(人工的な自然)との出会いの中で、今までにない深い自然のレイヤと出会っている。コロナワクチンの開発もそのひとつだろう。その過程で、自然とは何か、人間とは何かが新たな表情で浮上し、私たちに問いかけてくる。文学や思想においてもまた。


2021/11/29
創価学会の「財務 」という言葉は「お布施」のことなのか。宗教団体が、政治集団や政党を作って社会も改革してやろうという野心・野望を持たなければ、メンバーの人々は心穏やかにお茶のみ友達みたいにハッピーになれるのかもしれない。生長の家は、前者みたいな日本会議系とそうでないのに分裂しているという。


●連合会長発言に
宗教が、経済団体が、労働団体が、社会改造しないとどうにもならないと政治にしゃしゃり出いる。しかし、それはろくなことはない。それぞれが圏内で自己解決できるよう団体としてメンバーを可能なかぎり支援するのが団体の本質だろう。それがとても難しいから、他力本願で政府に頼りすがり、大口を叩くってか?


2021/11/30
米軍側からは「水筒は本来固定すべきだったが固定されていなかった」と説明があり、・・・・・・って、意味わからんね。「固定」は人に?それとも機体に?図解入りで、素人にもわかるように説明してもらわないと。しかも、同様の事故が前回もあったというし。


2021/12/05
オリバーサックスの『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』(1997年3月)を読んでいたら、何十年も盲目の生活をしていた男が白内障手術でだいぶん目が見えるようになったという話があった。ドラマとかでは、目が見えるようになったら感動的な場面だが、そうでもないという。

今までの盲目の自分に合わせて世界を了解していた自分のシステムを、新たに作り替えなくてはならないから、とても大変なことだと記されている。目で見えるからちゃんと物の配置などがすぐに理解できるわけではないという。だから、目が見えるようになって不幸になる人も居たという。


覚書2021.12.08

例えば、現在の糸が絡まりすぎたような複雑な教育の問題や経済の問題を考える時、遙か太古の教育や経済が小さな集落レベルだった頃―それは近代以前まで尾を引いていた―をあれこれ想像してみることは、とても大切だと思われる。現状に凝り固まった頭を少しほぐしてくれると思う。



今、『内藤礼〈母型〉 (神戸芸術工科大学レクチャーブックス)』(内藤礼 、 中村鐵太郎(聞き手) )を読んでいる。作者が自分の作品を設けることで何を考え感じようとしているのか、内からのモチーフが語られていて興味深い。ただ、掲載されている作品の図が少々わかりづらい。現地を見る必要ありか。


2021/12/24
『「ことば」の課外授業』(西江雅之 洋泉社新書)を読んでいたら、ほとんど誰もが遭遇するようなことが2つ書いてあった。

1.たとえば、ロシア語を聞いても、多くの日本人はわからないわけです。ところが、ロシア人がことばで「ナントカナントカ!(どうしてわかんないのかーっ!)」と怒鳴ったら、少しはわかる。パラ・ランゲージの部分は、共通したところがありますから。「怒鳴ってるから、なんかイライラしてるんじゃないか」というように、これは通じますよね。
 でも、書かれた言語の場合はわかりません。言語だけでは理解不可能です。(P160 )


(辞書から)
パラ・ランゲージ:話し手から聞き手に伝達される情報のうち、言語以外の情報。話すときの声の強弱や高低、イントネーション、身振りなど。パラ言語。

2.言語とは違って、ことばにはパラ・ランゲージが必ず付きまとう。ですから、たとえばシャンソンを聴いていて、フランス語が一言もわからなくても、通じる部分はいっぱいあります。ヴォーカル音楽というのはそもそも、音色、スピード、声の特徴などといったパラ・ランゲージ中心ですから。
「あれはロシア語で歌っているのだ」とか「わー、英語のジャズは歌もいいなあ」というように、それが言語で歌われているものだということまではわかるものの、その言語的な意味はまったくわからないという場合でも、心に通じてくるものは多いんです。(P161-P162)


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 2968-2971

2022年02月22日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



2968
もやもやからなだめられることなく
鋭角の言葉が
カクカクガシャン飛んでは墜ちる



2969
くり返しくり返す心の内は
(だからあ・・・)
の無言が冷たく積み重なっていく



2970
越境した者はカクカクシカジカ
に背を向けて
例えばそれぞれのモーヤモーヤ教をキツく打ち立てる



2971
目はあれども眼は見えぬ
耳はあれども何も耳に入らぬ
閉・じ・ら・れ・た おおサンタ・ルチアよ


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 2964-2967

2022年02月21日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



2964
時代の表層の重力を
感知して 街は
アクセクカタカナ語に塗(まみ)れている



2965
時代の表層の重力場を
察知して あちこちで
アクセルはググんと踏まれていく



2966
大都市の交差点を行き交う
見慣れた光景 人 人 人
の深層では途方に暮れる無言が響いてくる



2967
あらゆる牧歌が墓地に沈んでいる
深みで感じながら
もやもやの中前に進むほかないか