最近のツイートや覚書など2023年5月 ②
2023/05/16
録画していた坂本龍一の番組少し観てもういいや消してしまおうかと思ったが、消さずに少しずつ観ている。先ほど観ていてふと思った。音符や音譜が生み出されて音楽は、従来とは別次元のものとなったのではないか。個が割と自由に音楽創造でき、同時にどんな者でもそれを共有することを可能にしたか。
音符や音譜は、言葉の表現ではあいうえおや文章に相当するもので、それらを用いた音楽は書き言葉の次元の言葉に相当するのではないか。また、音楽への電子楽器の導入は、肉質の運動性や質感を離脱し内蔵化してしまったキーボード入力の文字(言葉)に相当するのでは。ちょっとした素人考え。
私は使わないけど、「推し」という言葉はいつ頃からはやり始めたものか。誰々を「推す」(推薦する)という意味の用法は昔からあったようだが、「推し」(人に薦めたいと思うほどに好感を持っている)は最近芽ばえた言葉のような気がする。私はいつも流行に一歩二歩遅れる。
流行に浮かれはしゃぐのって、別にいいんだけど、なんか気恥ずかしさが先に立つ。なぜだろう。流行の無邪気な自然さ以外に、なんか作為のようなもの、わざとらしさを感じ取ってしまうからだろうか。
2023/05/18
佐伯泰英『奔(はし)れ、空也 空也十番勝負(十) 』(文春文庫 2023.5.10)を読んでしまった。わたしが初めて知った「室生寺」の描写がある。ささいなことに見えるかもしれないが少し立ち止まってしまった。
室生川に架かる大橋ひとつ渡っただけで一変した寺領の厳粛整然とした佇まいに、空也は思わず身が引き締まった。
「空也はん、あんたはんの生地に所縁(ゆかり)の弘法大師様が修行なされた室生山どすがな」
と説明する又兵衛の言葉つきも心なしか厳しかった。
深山幽谷、杉の巨木に囲まれた室生寺の山を仰ぎ見た瞬間、空也は即座に、
(この地で修行しよう)
と決意した。
おそらく作者は、現在の室生寺を訪れ、体験している。舞台は江戸後期だが、奈良時代末期の創建と言われる室生寺の江戸期の様子はほぼ知りようがない。現在は、「杉の巨木」がいくつもあるらしいが、江戸期もそうだったという確証はない。ちなみに、「スギは150歳で直径1.5メートル、高さ50メートルの巨木になる。」(藤井一至『大地の五億年』P102)という。だから、作者は、現在の室生寺の様子を参考にして、江戸期のものとイメージする室生寺を描きそこに主人公坂崎空也を歩かせたのだろう。
2023/05/20
覚書2023.5.20―人間性のスペクトル
自分が生徒として見聞きしてきた中で、学校の先生の中には、ある問題が起こってクラスの生徒全体あるいは学校全体の生徒に向かってみんなはダメだという話し方がある。体育系や生活指導の先生に多かった。論理化の言葉も未熟な大多数の生徒は自分が立派な行動をしているという思いはないから、恐縮したようにそれを受けとめるほかない。
何が問題なのか。その先生が自分を棚に上げていることか、もちろんそれもあるが、要はその先生の「人間認識」の問題だと思われる。人間性の有り様をスペクトルの分布と見れば、極端な善悪を両端として、それぞれからヘンな人を通り、割とまともな思慮のある多数の普通の人々という真ん中辺りに来る。
この人の有り様のスペクトル全体を人間の有り様と捉えるのではなく、その局所の帯域やあるべき像や理想像を基に他者の行動を眺めたり、判定したりすると、他者にとっては受け入れがたいものとなる。現在は、政治家でも有名人でも、その行状がネットやSNSなどを通して瞬く間に伝わってしまう。
しかも、割と正確な情報と言うより、切り取られた断片的な情報となりやすい。現在の人間が特にヘンな人が多くなったとか、人間性が劣化したとか見なしやすいが、それは昔ならよく知られなかったことがネット社会の深まりによって、いわば開けっぴろげの部屋みたいになってしまったからではないかと思う。
昔なら沈黙で耐えていた不満や感情などが、ネットという仮想空間が生み出されて、匿名性もあってそれらを割と自由に配慮もなく吐き出すことができるようになったとかの個や社会の変貌がある。そこはゲームやスマホ中毒と呼ばれるものと同様に、時間をかけてネット社会での振る舞い方(新たな倫理)を生み出していくほかないだろう。
しかし、人間性の根っこの部分、すなわち人間の有り様のスペクトルは、昔も今も割と不変であると感じている。また、個の上述した人間性のスペクトルは、穏やかな人だったのが切迫した悪状況などで犯罪を犯してしまうなど、誰にもあり得るように、変位することもあり得る。
2023/05/21
覚書2023.5.21―人間性のスペクトル・続
人間の有り様が配列される人間性のスペクトルといっても、人類普遍の面もあれば、地域性(種族や民族や国家など)によってもそのスペクトルの様相は違ってくる。また、地域性の同一性の中でもそれに規制されつつも個々の家族の生い立ちによってスペクトルの分布は左右されるだろう。
吉本さんは『母型論』(1995.11)中で、子どもは母胎の中の〈大洋〉期に母の全てを刷り込まれると述べている。そうして、その母は、具体的な固有の人であると同時にその地域の子育ての仕方の風習の中に育ち生きている。こうして、人はその地域性と固有の母との影響下からひとり歩き出していく。
例えば、粗暴な振る舞いをする子どもや心がこもっていないような話し方をする者を目にしたら、誰もが自分のことは棚上げして育つ過程でなんかあったんじゃないかと思うだろう。母になった人ならもっと実感的にその「なんか」がわかりそうな気がする。
2023/05/22
農事メモ2023.5.20
小山の竹の子が二日おきぐらいで、1本、2本、そしてやっと6本採れた。これでタケノコごはんができる。それに加えるフキも採った。
池波正太郎原作の『剣客商売』では、田沼意次は割と「良い人」として描かれている。主人公は剣客、秋山小兵衛。その息子の大治郎は田沼意次の娘三冬と結婚する。いわば、田沼意次と近しい位置からその権力者の日常の具体的な振る舞いの姿が好意的に捉えられている。
一方、佐伯泰英の『居眠り磐音 江戸双紙』では、主人公の坂崎磐音(佐々木磐音)は権力者の田沼意次とは遠い位置にあり、田沼意次は対立していろんな策謀を巡らせ暗殺者を送り込む存在として描かれている。公人はその見え方の対立的な二重性を不可避なものとしている。
もしも、吉本さんが構想したように政治が単なる当番制のようになれば、権力臭を放つ政治家への関心も薄れお近づきもなくなりその二重性は解消し始めるだろう。
これで思い出すのが、安倍晋三(政権)の話である。
様々な動機でお近づきになった有名人やネトウヨなどは安倍晋三をとっても「良い人」として語り、描く。わたしからは、ろくでもなかった存在にしか見えなかった。個人や公人にいたるまで、人によって見え方がそんなにも違う、そんなことってあるんだなと改めて思った。
まあ逆に言えば、個人として考えれば、一色で見られることなく、そんなことがあるから、どんな人でも救いがあるということにもなるだろうか。
「サブスク」というのが流行っているらしいと最近知った。言われてみれば、毎月とか毎年定期的にお金が入ってくる経営システムって、いいなとずいぶん前に思ったことがある。昔は、会計ソフトは買い切りでバージョンアップのフロッピーなんかも無償で送ってくれてありがたいなと思ったことがある。
それが、最近では付属の確定申告はその年度しか使えない仕組みになってしまって、毎年お金を払わなければならない、実質「サブスク」になってしまった。サブスクはいろんな分野で流行っているようだが、昔の現金買いから月賦が生み出された時のような大きな変貌のような気がしている。
サブスクリプション(英語: subscription)は、月単位または年単位で定期的に料金を支払い利用するコンテンツやサービスのこと。商品を「所有」ではなく、一定期間「利用」するビジネスモデル。日本ではサブスクとも略される。(wikiより)
2023/05/25
今日、以下の二つを読んだ。私にはリーダーとか関係ないが、別の関心から読んだ。
1.米国で東アジア系がインド人より出世できない理由 日経BP
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00030/071300115/
2.似た者同士で群れる日本人 リーダー量産するインド人とどう違う?
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00351/042600027/
これと関わる覚書を最近書いていた。↓
覚書2023.5.25―沈黙の存在感
各自の本意は棚上げしてある主題について異なる立場に分かれ議論するディベート(debate)がある欧米流なら、沈黙は価値以前の存在とみなされ、いかに論理を効果的に駆使するかに価値が置かれているのだろう。黙想や沈思黙考等の言葉(アジア中国由来かどうかは知らないが)を持つ
わが国では、その欧米流の浸透をずいぶん受けても、その欧米流が生み出された地域性と同様にわが国の精神の遺伝子とも言うべき沈黙を無価値とは見なさない地域性がまだ残っているような気がする。もちろん、言葉にして外に表現するには見聞きする他人を想定しているから表現の筋道や工夫が必要である。
だからといって、沈黙の内で感じ考えていることがそれより劣るとか外に表現されないかぎり無価値であるとかいうわけではない。だから、話し合いで議長をする者から色んな組織の指導者や会社の管理職、政治家などにおいては、沈黙の声に耳を傾けることがもっとも大切である。
沈黙というのを本格的に考察したのは、わたしの知る限り吉本さんのみである。「沈黙の有意味性について」(1967.12)、「芸術言語論――沈黙から芸術まで」(2008年7月19日講演)しかも、生涯に渡って沈黙と言葉の存在である人間を考察してきた。
吉本さんは後者において、言語の本当に幹と根になるものは、沈黙であり、他人とコミュニケーションを交わすための言語は枝葉に相当する。仕事や社会生活や経済では、後者の枝葉が言葉の主人公のように大切に見なされがちだが、人間にとってほんとうに大切なのは幹である沈黙であると考えていた。
西欧も、理性を重視し論理や概念が盛んに立ち上がって来るギリシア時代、それ以前は(例えばケルト人の文化などには)、霊性と共に沈黙を重視する段階があったのかもしれない。依然としてその西欧の言葉や論理の価値化が世界制覇しているが、沈黙の無視は世界の半分しか捉え尽くせないのは自明だ。
2023/05/27
今日の朝のニュースで「内戦なしでは乗り切れない」という言葉に目が留まった。そんなふんいきは感じていたが、わたしは初めて耳にしたような気がする。「ローズ被告が『内戦なしでは乗り切れない』などと支持者らにメッセージを送ったうえで武器などを購入し、議会議事堂を占拠しようとした」
アメリカもわが国も最上級の閉塞感が、トランプや維新やN党や参政党などの「ヘンな人(集団)」を生み出しているのだろう。理想の社会の構想や政治の構想など口からでまかせに過ぎないが、扇動性の言葉だけは持っている。全体がなんかひちゃかちゃのまさしく沼状況で、うっとうしいな。
2023/05/28
テレQで韓国ドラマを観ているが、宮廷ドラマでは何か失敗を犯したらよく「わたしを殺してください」というセリフがある。これは罰してください位のニュアンスなんだろうか。上の者はほとんどそれをスルーしている。日本なら、切腹させてくださいは、そんなわけにはいかないだろう。無意識的な伝統か。
2023/05/29
今月読んだ本 2023年5月号(松本孝幸さんより)
・『吉本隆明全質疑応答Ⅴ』
現在を遙かに超えていた日本国憲法のこと。
http://matumoto-t.blue.coocan.jp/23yonhon05.html