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[短歌味体 Ⅲ] 3150-3152 ネット海シリーズ・続

2019年03月31日 | 短歌味体Ⅲ-5
[短歌味体 Ⅲ] ネット海シリーズ・続


3150
顔立ちも表情も
見えない
ブラインドのすき間から触れる


3151
顔がないせいだろうか
もじもじと
くり出す言葉は少ないなあ


3152
ヤナギタの「正視」かき分け
語り出す
青い種族の伏し目がちはも

註.柳田国男によると、この列島の民の精神の遺伝子では、
正視するのではなく目を合わせないのが常態だったという。

作品を読む ⑤ (加藤治郎)

2019年03月30日 | 作品を読む
 作品を読む ⑤ (加藤治郎)
 



 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。


44.夜の霧ってあるものね、あるものさ 代々木競技場の屋根がひかってる 加藤治郎『マイ・ロマンサー』

★(私のひと言評 3/24)
現実でも虚構でもいいけど、代々木競技場近くにふたりがいる。「夜の霧ってあるものね、あるものさ」、たったこれだけで場面を強力に形成する。二人が偶然のようないい感じの光景を共有している。下の句の描写からすると作者のその場の現実体験が基になっているように感じられる。しかし、作者が映像で下の句の場面を偶然に観たということも考えられる。いずれにしても、作者は言葉と音数律によって場面を選択・構成し、表現世界に表現として織り上げる。そのきっかけや素材が、実体験か間接経験かにさして意味はない。



45.ぴりんぱらん、ぴりんぱらんと雨がふる あなたにほしいものを言わせた 加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 3/25)
人の心は不可思議なもの。その場のふんい気で言いたいことが思いきって言えたり、引っ込めてしまったりすることがある。「あなた」がほしいと言ったことの促しの雨のように、〈私〉は「ぴりんぱらん」と降る慈雨の雨を感じた。雨ひとつとっても感受はさまざま。「ぴりんぱらん」の音感が独特。

〈私〉の自身のストローか(相手のものの可能性もあるが)、深刻な心理状況にありつつも、そういう自分を客観視するような、ぼんやりとした視線を感じさせる。類似の表現として。
そして切り出すほかなくてストローを赤いソーダがもどっていった 加藤治郎『昏睡のパラダイス』



46.親指で打つ文字たちはおやゆびの(わ)(わた)(わたし)(私)暗がりにある 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 3/25)
「親指で打つ」は、わたしは名前くらいしか知らないけど「親指シフト」という日本語入力方法のことか。書き言葉であれば、心は文字として書き記さなければ言葉として現前しない。「おやゆび」は、心から言葉へ渡ってゆく固有の〈私〉の親指で、〈私〉の心の走者となった者ということ。画面には、文字一般が(現れ並んで見える。) しかし、その背後(「暗がり」)には、(わ)→(わた)→(わたし)→(私)という、言葉にうねり上る〈私〉の時間の劇がある。



47.もこもこと頭の動くペコちゃんを横抱きにして月夜を駆ける 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 3/25)
歌集『環状線のモンスター』は、2006年刊行とある。この歌は、その頃作られたものだろう。検索してみると2004年から2009年にかけて店頭からのペコちゃん人形盗難事件がいくつかヒットした。わたしはテレビのニュースで聞いたことがある。これが作者のイメージを刺激したのかもしれない。首が可動式なため「もこもこと頭の動く」ペコちゃんを横抱きにして月夜を駆けるイメージは、盗難という次元を超えて、どこか童話的なイメージに映る。ちなみに、私の学生時代、一時寮生活(天井の高い古い木造の建物)をしていたが、先輩の部屋で重いコンクリートの台の付いたバス停の標識を見かけてびっくりしたことがある。おそらく、夜中に酔いに任せて何人かで近くのバス停から颯爽と運んできたものだろう。世間から半ば許されたような大学生の世界では昔はこんなこともちらちらあったようだ。今の大学生は、どうか知らないが、最近の職場での悪ふざけをSNSへUPして、それが拡散して事件化している。余裕なき社会の象徴か。



48.十年後って岬のようにぼんやりとねむりのなかに砂粒となる 加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 3/26)
これは、岬を実景として見ているイメージではなく、〈私〉は「十年後」を思いながら岬をイメージしている、あるいは岬からの眺めをイメージしている。いずれにしても、クリアーではなくぼんやりしている、そうしたぼんやりとした心の状態で眠ってしまい、見分けのつかない小さな砂粒となってしまう。ファイナンシャルプランナーは自信を持って未来を描いてみせるだろうが、「十年後」なんて、そんなものさ。



49.背を裂いて取り出すディスクにあたらしい感情が立ち上がろうとして 加藤治郎『マイ・ロマンサー』

★(私のひと言評 3/26)
これはたぶんドラマではなく音楽のディスク。レコード盤の昔ならシンプルで想像しやすいが、現在は音楽の媒体も聴く形態も多様化している。新旧が入り交じっている。だから、場面が想像しにくい。これは他のことにも言えそうな気がする。

最初、早合点して「取り出す」を聴き終わってと取った。だから、音楽を聴くプレーヤーから聴き終わって取り出すところを「背を裂いて」とよく考えずに通り過ぎたが、現在のところCDプレイヤーは、「背を裂いて」取り出すようにはなっていないように思う。パソコンのDVDプレーヤーでも音楽のディスクが聴けるというが、「背を裂いて」というイメージには少し無理があるような気がする。
とすれば、これはディスクケースのジッパーを下げてディスクを取り出し今から音楽を聴こうとするところか。その「背を裂いて」という取り出す生々しさと音楽を聴くことによって立ち上がろうとする〈私〉の「あたらしい感情」の肌感覚が対応している。この場合、「ディスクに」の助詞「に」は、「~に対して」の意味になる。

ところで、「ディスクに」の助詞「に」は、場所を表す意味の「に」もある。この場合は、音楽のディスクが今から演奏されるぞ(そこに「あたらしい感情が立ち上がろうとして」いるぞ)ということになるだろうが、「感情」は違うかとしてこの理解は取らなかった。

作品をはっきりした像として確定することはむずかしい。わたしの表現を追う詰めが甘いのか、今のところあいまいさの感情も少し残っている。いずれにしても、日常生活の中、誰にでもあるような沈黙の中で起こっているだろう心の劇が、〈私〉の振る舞いの一瞬として、表現の価値あるものとして取り出されている。



50.ねえ?(ちゃんと聞いているのというふうに)ん?(なんとなく)煙はうたう 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 3/26)
( )の中は、戯曲のト書きに見える戯曲風の表現。短歌における表現の拡張に当たっている。しかし、「ねえ?(ちゃんと/聞いているのと/いうふうに)/ん?(なんとなく)/煙はうたう」というふうに、5・7・5・7・7の音数は維持されている、意識されている。
「煙はうたう」が不明だが、女と男の場面で、男はタバコを吸っていて、その吐き出した煙が女への返答のように見えるということか。



51.母の手が青雲香の束をとく東別院ひがしべついん 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 3/27)
わたしたちが、同じ言葉をくり返す場合には、大事だから相手が忘れないように念押しとしてくり返すという場合の、最初と二度目とはほとんど同じ意味の場合もあるが、相手の反応によっては二度目は苛立ちを込めて言うとかもあり得る。「東別院」は、初めて聞く名前だったので調べてみると、ウィキペディアには真宗大谷派名古屋別院、通称が東別院とある。信徒の遺骨を納める納骨堂もあると言うから、そこに訪れた場面であろう。この場合は、一度目は客観的な地名や場所を指示するもので、二度目のは同じ場所という客観性を示しているように見えるかもしれないが、母や〈私〉に固有の思い出や思いを喚起しそういうイメージの地名や場所を表出しているように見える。ひらがな書きの「ひがしべついん」という言葉が一度目の客観的な場所との違いを表現している。この「ひがしべついん」がこの歌の重心と思われる。

わたしも、漢字とひらがなやカタカナを意識的に使い分けることがある。指示性は同じように見えても、微妙なニュアンスを違いとして表出できると思う。


短歌味体Ⅲ 3144-3146 ネット海シリーズ・続

2019年03月29日 | 作品を読む

[短歌味体 Ⅲ] ネット海シリーズ・続

 

 

3144

菜の花の列を過ぎると

誰かな?

ふいと微かに匂い流れる

 

 

3145

春。色鮮やかなのに

しっとりと

生の香りがしない ネット海。

 

 

3146

イメージの水に浸かった

目を上げる

やっぱり春だねえ 新春(シンシュン)。

 


短歌味体Ⅲ 3138-3140ネット海シリーズ・続

2019年03月27日 | 短歌味体Ⅲ-5

[短歌味体 Ⅲ] ネット海シリーズ・続

 

 3138

走法がむずかしくても

ただただ

いい感じに流れに乗ることさ

 

3139

イメージがすずずんと肌を

流れる

もうそれだけで言葉は要らないのさ

 

3140

あれこれと操りながら

心内(こころうち)に

未来の種も小さくつぶやく

 


短歌味体Ⅲ 3126-3128ネット海シリーズ・続

2019年03月23日 | 短歌味体Ⅲ-5

[短歌味体 Ⅲ] ネット海シリーズ・続

 


3126
デラシネも死語となった
古書店
ばかりは名にし負いさらばえているか

 


3127
始まりは新しいぞ!
ばかりでない
デラシネの影終終(シュウシュウ)してる

 


3128
確かに父母(ちちはは)から
生まれたが
死語中空に終終終(シュウシュウシュウ)