最近のツイートや覚書など2022年12月 ①
2022/12/02
現代短歌bot@gendai_tanka
うずく、まるわたしはあらゆるまるになる月のひかりの信号機前 中家菜津子『うずく、まる』
うずく、まる/わたしはあらゆる/まるになる/月のひかりの/信号機前
音数律を少し乱してわざわざ打たれているこの読点「、」は、疼く「まる」と「うずくまる」を一種の掛詞にしているか。何か巫女的な印象さえ与える全円的な感覚の表現。月に帰るかぐや姫も連想させる。
2022/12/03
現代短歌bot@gendai_tanka
まいちゃんのたてぶえなめたかさいくん
谷町線でぐうぐうねてた 今橋愛『O脚の膝』
情景がよくわからなくて調べてみたら、別のものでは以下のようになっている。些細な異同に当たるが、「かさいくん」が「さかいくん」になっている。平安期などの書き写しでもこんなことがあったろう。
短歌あつめました@tanka_atsume
まいちゃんの/たてぶえなめた/さかいくん/谷町線で/ぐうぐうねてた
調べてみると、「まいちゃんの日常」というヘンな漫画や女子の縦笛を舐めるゲームまであるようだ。作者のイメージの出所はわからない。つまり、現実の具体性かイメージ上のことかもわからないが、たぶんひとりの青年を見つめる〈わたし〉の視線は確かに存在している。
2022/12/04
現代短歌bot@gendai_tanka
忘れ物しても取りには戻らない言い残した言葉も言いに行かない 松村正直『駅へ』
作者は、プロフィールに「石川啄木の歌集を読んで短歌を始める」と書いているそうだ。そして、石川啄木の次の歌との関連を取り上げている人がいた。
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸に残れど
誰でもこの世界での身の処し方を意識的、無意識的にしている。「・・・ない」の繰り返しは、この生活世界の通り過ぎ方、生き方として〈わたし〉の強めの意志を表している。しかし、啄木の歌は人間の織り成す複雑社会での複雑な心の場所をそのまま歌っていて、わたしには啄木の歌の方がすぐれているように感じられる。
2022/12/05
現代短歌bot@gendai_tanka
動こうとしないおまえのずぶ濡れの髪ずぶ濡れの肩 いじっぱり! 永田和宏『メビウスの地平』
昔、NHKの番組で中国の辺境に住む人々を取り上げていた。父と同じように純朴な青年が遠くお嫁さん探しの出会いの場に出かけて行って、やっと見つけて女性を連れ帰る。途中で、その女性が青年に向けた歌を歌っている場面があった。芸術化する以前の歌はこんな相聞の歌が多かったのだろう。
この歌の表現から、〈わたし〉の心的な動きをたどってみる。おまえが心解いて「動こう」とするかと期待するが「しない」。気づけばずぶ濡れの髪、ずぶ濡れの肩じゃないか。そんなにまで、ずぶ濡れで、ほんとにもういじっぱり。(12/06)
若い男と女のちょっとした行き違い。(12/06)
2022/12/06
わたしたちは、現在の有り様が全てあるいは中心と見なしている。それはある意味当然のことで、もう赤ちゃん時代ではなく大人になった現在を生きているからである。二昔前までは川などで洗濯していたとしても、現在は、全自動洗濯機で洗濯しているからである。
しかし、その現在の時間の層には過去が埋もれているあるいは浸透しているようだ。例えば、赤ちゃん時代の感覚や意識は現在の年輪のどこかに保存されなんらかの発動をしている。また、現在の詩も小説も黙読中心になってしまっているが、たぶんどこかに声に出して読む(暗唱)時代の母斑が今なお影響しているかもしれない。
江戸期に日本に捕らえられたロシアのゴロウニンの『日本俘虜実記』が、見張りの兵卒が声に出して読む読書の様を書き留めている。この風習は、遙か無文字時代の風習にまで遡れるのじゃないかと思う。
メモ2019.3.22 ―ゴロウニン『日本俘虜実記』より
https://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/e6b3dd4892cc3ca342c1f644d8e811d9
2022/12/08
現代短歌bot@gendai_tanka
今日こそは言わねばならぬ一行のような電車が駅を出てゆく 奥田亡羊『亡羊』
「言わねばならぬ」は話し言葉だが、まず歌の形式自体が今では書き言葉である。さらに電車のイメージに引かれて書き言葉の「一行」という言葉が選択されている。あるいはその逆か。いずれにしても、これらのことは作者の無意識的なさざ波に属している。
静から動へ駆動しはじめる電車の自然さも人によりさまざまな固有色として感じ取られる。ここでは、何か重たい決意を持った〈わたし〉の視線がクローズアップされている。
いつの頃からか「有名人」なる者たちがいる。遡れば、村や各お国の有力者→貴人→大いなる自然(神々)と人間界から自然界へ収束していく。現在でも人々の有名人に魅(ひ)かれる心性は、「ひとり」を超えたものをすごいなと価値化する〈自然な感性〉である。しかし、そこには〈内省〉は参加していない。
だから例えば、黒柳徹子の自伝的物語である『窓ぎわのトットちゃん』が、「日本国内での累計発行部数は800万部を突破し、日本国内において「戦後最大のベストセラー」と称される」という風に有名なものとして受け取られ読まれても、そのこと自体が作品が優れていることを意味しはしない。
わたしの場合は、有名人はこちらに突っかかってこない限り「ふうん」とやり過ごしている。
2022/12/09
石川啄木BOT@VNAROD_SERIES
なつかしき冬の朝かな。
湯をのめば、
湯気がやはらかに、顔にかかれり。
あれ、と思った。啄木の三行詩(歌)には句読点がなかったような気がしたからだ。青空文庫で確認してみたら、第一歌集の『一握の砂』にはない。この歌が収められている『悲しき玩具』には句読点や「!」がある。ここでは問わないが、ささいなことに見えてなんらかの詩意識の変位があったものと思われる。
歌集『一握の砂』1910年(明治43年)
歌集『悲しき玩具』1912年(明治45年)
この歌は、表現の世界でのよろいを脱いでほっと一息ついたような歌に見える。
ところで、この歌は〈わたし〉が想像しているのか、〈わたし〉が今湯を飲んでいるのか不分明である。
というのは「なつかしき」にも「自然」と同じように意味の新旧の層が二つほどあるからである。
なつか・し 【懐かし】
①心が引かれる。親しみが持てる。好ましい。なじみやすい。
②思い出に心引かれる。昔が思い出されて慕わしい。
(ネットの『学研全訳古語辞典』より)
②の意味とすれば、少しねじれを感じるが「顔にかかれり」の完了または存続の「り」は今現在感での想像ということになる。当時の「なつかし」の主な使われ方はわからないけど、わたしとしては、①の「このましい」の意味の方がすっきりとくるような気がする。
ちなみに、わたしが文章を書いたりコピーしたりして愛用している「秀丸エディター」に青空文庫の歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』をコピーして「なつかし」という語で検索をかけたら、『一握の砂』で12例、『悲しき玩具』で4例ヒットした。
「なつかし」の②の現在的な意味のが多い中、『一握の砂』の次のものは①の意味(に近い)だろう。
旅七日
かへり来ぬれば
わが窓の赤きインクの染みもなつかし
汽車の旅
とある野中の停車場の
夏草の香のなつかしかりき
2022/12/10
RT
「TANTANの雑学と哲学の小部屋」
宇宙が「等方的」であるとは具体的にどういう意味か?ビッグバン理論に基づく宇宙の等方性の説明
2018年11月11日 [宇宙論, 物理学] より
物理学においては、一般的に、「等方性」という概念は、物体や空間における性質が方向によって異ならないことを意味する概念として捉えられていくことになります。
したがって、
宇宙における「等方性」という概念についても、それは、宇宙空間の性質や宇宙全体の大局的な構造が観測する地点や方向の違いによって異なることがなく、
観測可能な宇宙のうちのどの地点からどの方向を見ても互いにほぼ同じような性質と関係を保った宇宙の姿を観測することができるということを意味する概念として捉えることができると考えられることになります。
そして、さらに言うならば、
こうした宇宙が「等方的」であるという考え方からは、観測可能な宇宙の内部においては、特別な位置や方向といったものはどこにも存在しない、
すなわち、宇宙そのものには中心とか端とか区別はなく、どの地点においても互いに同じような位置関係にある宇宙空間が広がっているという主張が導かれていくことになると考えられることになるのです。
宇宙の「等方性」という性格(の想定)から、小さな局所系からでも宇宙の構造を探査できるように、人間や人間社会の振る舞いについて、どんな局所的なもの(家族の制度的な性格類型)からでも人間や人間社会の構造を突き止めることができるのだろう。しかし、これは上空からの視線(抽象性や論理)に属している。
わたしが、E.トッドに感じる疑念は、吉本さんの概念を借りれば、この上空からの視線に加えて人の高さの水平な視線(生活者の感覚や大衆という概念)が希薄か不在であるということから来るような気がしている。人間や人間社会の振る舞いの考察にはその二つの視線は必須のものと思う。
2022/12/11
いつ頃から正月があんまり特別でもなく、それほどうれしくもないものになってしまったか。青年期近くだったか。これは昔も今もそうなのか、つまり、個の精神年代によるものなのか、それとも時代的なものなのか、よくわからない。なんでもフツー化する現在的なものの影響が大きいような気はしている。
2022/12/12
現代短歌bot@gendai_tanka
カップ麺の蓋押さへつつ思ひをりこの部屋に火と水のあること 栗木京子『水仙の章』
「カップ麺」は現在的なものであり、「火と水」のあり方も現在的である。しかしそれらの形が変わっても、人には火と水と食べ物と住処が要る。また、社会も生み出し、人と人とのネットワークも築いてきた。さらに、幻想の食べ物である物語やドラマなども生み出した。人間は欲張りなのかな。
単行本も買ってはいるが、note連載の坂口恭平「お金の学校」1~11をひと月くらいかけて読み終えた。お金は流れるものであり、楽しいもの、ひとりひとりの生きる魂と関わるもの、合い言葉は「大丈夫、きっとうまくいくよ。」お金に関わってめずらしくも肯定のにんげんがくであり肯定のてつがくである。
2022/12/13
覚書2022.12.13
信じるということがある。その内側では、少しは疑念が湧くことがあってもそれが自然なものとなっていく。この信じることの起源は、吉本さんの『母型論』によれば胎内生活での母子関係(根源的な関係)にある。大きな波風の立たない良い育ち方をした者は信じやすいということがありそうだ。
しかし、どんな育ち方をしても寄せて来る現実との関わりでは紆余曲折があり、人について一概には言えない。信じるという信仰の内側から見たら宝石の言葉に見えることが、信仰の外側から見たらイワシの頭にしか見えないということがある。両者は、向かい合えば対立的な様相を呈することになる。
ここで、両者の真を判定するものはあるか。それは、大多数の普通の人々の経験からくる普通の言葉の内包する喜びや苦難に対して開かれているかどうかということ。それに対して、上から人々を啓蒙したり引き上げようとするのではなく、普通の人々のあり方を丸ごと掬い取ろうとしているかどうかにあると思える。
そして、そのような宗教組織は稀少な気がする。親族や家族の関係も希薄になっている現在の社会で、人々がお互いに気楽に話ができる穏やかな関係の場を目指す(提供する)のが中心の宗教組織なら申し分ない気がする。そこでは、組織拡大と社会革命を目指すための「献金」は不要である。
ところで、わたしたちは、頭の隅ではこれは作りものだという意識があっても、物語やドラマの世界にのめり込んでいく。このことは、作者や役者が、ひとつの作りものの世界に入り込み、そこでの描写や振る舞いを迫真のものとしていくことと対応している。端から見たら作りものの世界ではある。
これを一般化すると、わたしたちは、〈幻想〉の舞台に上り、その世界を信じて自然なものと感じ行動するということ。これは宗教(信仰)でも物語やドラマでも仕事でも共通する人間的な特質のように思われる。
2022/12/15
現代短歌bot@gendai_tanka
白き傘細く巻き締めたたむとき少年たりしわが前世恋ふ 栗木京子『綺羅』
自宅で座って日傘を畳んでいるのか。上の句と下の句の接続・関連がわからない。「前世」などというものを信じられもせず何とも思わないせいだろう。しかし、人の視線と湧き上がる想念は、外からはうかがい知れない、また本人自身でさえよくわからない所がある。「巻き締め」がこんな想念の扉を開いたか。
2022/12/02
現代短歌bot@gendai_tanka
うずく、まるわたしはあらゆるまるになる月のひかりの信号機前 中家菜津子『うずく、まる』
うずく、まる/わたしはあらゆる/まるになる/月のひかりの/信号機前
音数律を少し乱してわざわざ打たれているこの読点「、」は、疼く「まる」と「うずくまる」を一種の掛詞にしているか。何か巫女的な印象さえ与える全円的な感覚の表現。月に帰るかぐや姫も連想させる。
2022/12/03
現代短歌bot@gendai_tanka
まいちゃんのたてぶえなめたかさいくん
谷町線でぐうぐうねてた 今橋愛『O脚の膝』
情景がよくわからなくて調べてみたら、別のものでは以下のようになっている。些細な異同に当たるが、「かさいくん」が「さかいくん」になっている。平安期などの書き写しでもこんなことがあったろう。
短歌あつめました@tanka_atsume
まいちゃんの/たてぶえなめた/さかいくん/谷町線で/ぐうぐうねてた
調べてみると、「まいちゃんの日常」というヘンな漫画や女子の縦笛を舐めるゲームまであるようだ。作者のイメージの出所はわからない。つまり、現実の具体性かイメージ上のことかもわからないが、たぶんひとりの青年を見つめる〈わたし〉の視線は確かに存在している。
2022/12/04
現代短歌bot@gendai_tanka
忘れ物しても取りには戻らない言い残した言葉も言いに行かない 松村正直『駅へ』
作者は、プロフィールに「石川啄木の歌集を読んで短歌を始める」と書いているそうだ。そして、石川啄木の次の歌との関連を取り上げている人がいた。
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸に残れど
誰でもこの世界での身の処し方を意識的、無意識的にしている。「・・・ない」の繰り返しは、この生活世界の通り過ぎ方、生き方として〈わたし〉の強めの意志を表している。しかし、啄木の歌は人間の織り成す複雑社会での複雑な心の場所をそのまま歌っていて、わたしには啄木の歌の方がすぐれているように感じられる。
2022/12/05
現代短歌bot@gendai_tanka
動こうとしないおまえのずぶ濡れの髪ずぶ濡れの肩 いじっぱり! 永田和宏『メビウスの地平』
昔、NHKの番組で中国の辺境に住む人々を取り上げていた。父と同じように純朴な青年が遠くお嫁さん探しの出会いの場に出かけて行って、やっと見つけて女性を連れ帰る。途中で、その女性が青年に向けた歌を歌っている場面があった。芸術化する以前の歌はこんな相聞の歌が多かったのだろう。
この歌の表現から、〈わたし〉の心的な動きをたどってみる。おまえが心解いて「動こう」とするかと期待するが「しない」。気づけばずぶ濡れの髪、ずぶ濡れの肩じゃないか。そんなにまで、ずぶ濡れで、ほんとにもういじっぱり。(12/06)
若い男と女のちょっとした行き違い。(12/06)
2022/12/06
わたしたちは、現在の有り様が全てあるいは中心と見なしている。それはある意味当然のことで、もう赤ちゃん時代ではなく大人になった現在を生きているからである。二昔前までは川などで洗濯していたとしても、現在は、全自動洗濯機で洗濯しているからである。
しかし、その現在の時間の層には過去が埋もれているあるいは浸透しているようだ。例えば、赤ちゃん時代の感覚や意識は現在の年輪のどこかに保存されなんらかの発動をしている。また、現在の詩も小説も黙読中心になってしまっているが、たぶんどこかに声に出して読む(暗唱)時代の母斑が今なお影響しているかもしれない。
江戸期に日本に捕らえられたロシアのゴロウニンの『日本俘虜実記』が、見張りの兵卒が声に出して読む読書の様を書き留めている。この風習は、遙か無文字時代の風習にまで遡れるのじゃないかと思う。
メモ2019.3.22 ―ゴロウニン『日本俘虜実記』より
https://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/e6b3dd4892cc3ca342c1f644d8e811d9
2022/12/08
現代短歌bot@gendai_tanka
今日こそは言わねばならぬ一行のような電車が駅を出てゆく 奥田亡羊『亡羊』
「言わねばならぬ」は話し言葉だが、まず歌の形式自体が今では書き言葉である。さらに電車のイメージに引かれて書き言葉の「一行」という言葉が選択されている。あるいはその逆か。いずれにしても、これらのことは作者の無意識的なさざ波に属している。
静から動へ駆動しはじめる電車の自然さも人によりさまざまな固有色として感じ取られる。ここでは、何か重たい決意を持った〈わたし〉の視線がクローズアップされている。
いつの頃からか「有名人」なる者たちがいる。遡れば、村や各お国の有力者→貴人→大いなる自然(神々)と人間界から自然界へ収束していく。現在でも人々の有名人に魅(ひ)かれる心性は、「ひとり」を超えたものをすごいなと価値化する〈自然な感性〉である。しかし、そこには〈内省〉は参加していない。
だから例えば、黒柳徹子の自伝的物語である『窓ぎわのトットちゃん』が、「日本国内での累計発行部数は800万部を突破し、日本国内において「戦後最大のベストセラー」と称される」という風に有名なものとして受け取られ読まれても、そのこと自体が作品が優れていることを意味しはしない。
わたしの場合は、有名人はこちらに突っかかってこない限り「ふうん」とやり過ごしている。
2022/12/09
石川啄木BOT@VNAROD_SERIES
なつかしき冬の朝かな。
湯をのめば、
湯気がやはらかに、顔にかかれり。
あれ、と思った。啄木の三行詩(歌)には句読点がなかったような気がしたからだ。青空文庫で確認してみたら、第一歌集の『一握の砂』にはない。この歌が収められている『悲しき玩具』には句読点や「!」がある。ここでは問わないが、ささいなことに見えてなんらかの詩意識の変位があったものと思われる。
歌集『一握の砂』1910年(明治43年)
歌集『悲しき玩具』1912年(明治45年)
この歌は、表現の世界でのよろいを脱いでほっと一息ついたような歌に見える。
ところで、この歌は〈わたし〉が想像しているのか、〈わたし〉が今湯を飲んでいるのか不分明である。
というのは「なつかしき」にも「自然」と同じように意味の新旧の層が二つほどあるからである。
なつか・し 【懐かし】
①心が引かれる。親しみが持てる。好ましい。なじみやすい。
②思い出に心引かれる。昔が思い出されて慕わしい。
(ネットの『学研全訳古語辞典』より)
②の意味とすれば、少しねじれを感じるが「顔にかかれり」の完了または存続の「り」は今現在感での想像ということになる。当時の「なつかし」の主な使われ方はわからないけど、わたしとしては、①の「このましい」の意味の方がすっきりとくるような気がする。
ちなみに、わたしが文章を書いたりコピーしたりして愛用している「秀丸エディター」に青空文庫の歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』をコピーして「なつかし」という語で検索をかけたら、『一握の砂』で12例、『悲しき玩具』で4例ヒットした。
「なつかし」の②の現在的な意味のが多い中、『一握の砂』の次のものは①の意味(に近い)だろう。
旅七日
かへり来ぬれば
わが窓の赤きインクの染みもなつかし
汽車の旅
とある野中の停車場の
夏草の香のなつかしかりき
2022/12/10
RT
「TANTANの雑学と哲学の小部屋」
宇宙が「等方的」であるとは具体的にどういう意味か?ビッグバン理論に基づく宇宙の等方性の説明
2018年11月11日 [宇宙論, 物理学] より
物理学においては、一般的に、「等方性」という概念は、物体や空間における性質が方向によって異ならないことを意味する概念として捉えられていくことになります。
したがって、
宇宙における「等方性」という概念についても、それは、宇宙空間の性質や宇宙全体の大局的な構造が観測する地点や方向の違いによって異なることがなく、
観測可能な宇宙のうちのどの地点からどの方向を見ても互いにほぼ同じような性質と関係を保った宇宙の姿を観測することができるということを意味する概念として捉えることができると考えられることになります。
そして、さらに言うならば、
こうした宇宙が「等方的」であるという考え方からは、観測可能な宇宙の内部においては、特別な位置や方向といったものはどこにも存在しない、
すなわち、宇宙そのものには中心とか端とか区別はなく、どの地点においても互いに同じような位置関係にある宇宙空間が広がっているという主張が導かれていくことになると考えられることになるのです。
宇宙の「等方性」という性格(の想定)から、小さな局所系からでも宇宙の構造を探査できるように、人間や人間社会の振る舞いについて、どんな局所的なもの(家族の制度的な性格類型)からでも人間や人間社会の構造を突き止めることができるのだろう。しかし、これは上空からの視線(抽象性や論理)に属している。
わたしが、E.トッドに感じる疑念は、吉本さんの概念を借りれば、この上空からの視線に加えて人の高さの水平な視線(生活者の感覚や大衆という概念)が希薄か不在であるということから来るような気がしている。人間や人間社会の振る舞いの考察にはその二つの視線は必須のものと思う。
2022/12/11
いつ頃から正月があんまり特別でもなく、それほどうれしくもないものになってしまったか。青年期近くだったか。これは昔も今もそうなのか、つまり、個の精神年代によるものなのか、それとも時代的なものなのか、よくわからない。なんでもフツー化する現在的なものの影響が大きいような気はしている。
2022/12/12
現代短歌bot@gendai_tanka
カップ麺の蓋押さへつつ思ひをりこの部屋に火と水のあること 栗木京子『水仙の章』
「カップ麺」は現在的なものであり、「火と水」のあり方も現在的である。しかしそれらの形が変わっても、人には火と水と食べ物と住処が要る。また、社会も生み出し、人と人とのネットワークも築いてきた。さらに、幻想の食べ物である物語やドラマなども生み出した。人間は欲張りなのかな。
単行本も買ってはいるが、note連載の坂口恭平「お金の学校」1~11をひと月くらいかけて読み終えた。お金は流れるものであり、楽しいもの、ひとりひとりの生きる魂と関わるもの、合い言葉は「大丈夫、きっとうまくいくよ。」お金に関わってめずらしくも肯定のにんげんがくであり肯定のてつがくである。
2022/12/13
覚書2022.12.13
信じるということがある。その内側では、少しは疑念が湧くことがあってもそれが自然なものとなっていく。この信じることの起源は、吉本さんの『母型論』によれば胎内生活での母子関係(根源的な関係)にある。大きな波風の立たない良い育ち方をした者は信じやすいということがありそうだ。
しかし、どんな育ち方をしても寄せて来る現実との関わりでは紆余曲折があり、人について一概には言えない。信じるという信仰の内側から見たら宝石の言葉に見えることが、信仰の外側から見たらイワシの頭にしか見えないということがある。両者は、向かい合えば対立的な様相を呈することになる。
ここで、両者の真を判定するものはあるか。それは、大多数の普通の人々の経験からくる普通の言葉の内包する喜びや苦難に対して開かれているかどうかということ。それに対して、上から人々を啓蒙したり引き上げようとするのではなく、普通の人々のあり方を丸ごと掬い取ろうとしているかどうかにあると思える。
そして、そのような宗教組織は稀少な気がする。親族や家族の関係も希薄になっている現在の社会で、人々がお互いに気楽に話ができる穏やかな関係の場を目指す(提供する)のが中心の宗教組織なら申し分ない気がする。そこでは、組織拡大と社会革命を目指すための「献金」は不要である。
ところで、わたしたちは、頭の隅ではこれは作りものだという意識があっても、物語やドラマの世界にのめり込んでいく。このことは、作者や役者が、ひとつの作りものの世界に入り込み、そこでの描写や振る舞いを迫真のものとしていくことと対応している。端から見たら作りものの世界ではある。
これを一般化すると、わたしたちは、〈幻想〉の舞台に上り、その世界を信じて自然なものと感じ行動するということ。これは宗教(信仰)でも物語やドラマでも仕事でも共通する人間的な特質のように思われる。
2022/12/15
現代短歌bot@gendai_tanka
白き傘細く巻き締めたたむとき少年たりしわが前世恋ふ 栗木京子『綺羅』
自宅で座って日傘を畳んでいるのか。上の句と下の句の接続・関連がわからない。「前世」などというものを信じられもせず何とも思わないせいだろう。しかし、人の視線と湧き上がる想念は、外からはうかがい知れない、また本人自身でさえよくわからない所がある。「巻き締め」がこんな想念の扉を開いたか。