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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 529-532

2020年05月31日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



529
打ち上げられた同じ言葉でも
美しく
発火しない空白の空がある



530
背後の心模様が
言葉を
絶対的に染め上げてしまう



531
面々の計らい超えて
虚も充も
むせるような人の道がある



532
青空に緑が映える
ことがある
いのちあるものの震える 深滲(シンシン)

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 525-528

2020年05月30日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



525
手練手管で言葉を捕縛
次々に
中空に放つ日もあるが



526
ふと浮上して心に懸かった
言葉が
メモも取られず海に帰ってしまった



527
またいつか大きなひれが
波打つように
新しい姿で現前するか



528
意図合理効率を超えた
頭脳の外から
不随意に湧き出るものがある

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 521-524

2020年05月29日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



521
耐えに耐えゆっくりと覆(くつがえ)る
小舟が見える
もう後は闇深々と



522
(あっ そこを越えてしまったら)
しまった
閉まった もう元には戻れない



523
ビミョウな境界線
を投げやりに
跨(また)いだらそこはもう暗黒面



524
ハッピーエンドがいい
に決まってるのに
ダークサイドにズルズルと人の道は

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 517-520

2020年05月28日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



517
虐待もねこっかわいがりも
同じ人の道
荒れた心模様にズンズズンと爪立てもする



518
人の道からハズレようもない
誰にでも
アリエール落ちない汚れ よごれ?



519
「とてもいい感じの人だったのに」
隣からは
見えない関わりの濃度曲線がある



520
ふいと振り向いてみる
遅れたひかり
がある限りは悲しみの中の一滴

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 513-516

2020年05月27日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



513
時間の上層は
ビビッド顔で
フレキシブルにサラリーとカッコ付けてる



514
流れ流るるイミテーション
中空の
模倣のエロスだけは遺伝子だろ



515
少し下った時の岸辺には
逢坂や
伏見坂の女衆が歌い踊る



516
ここはどこ?いまはいつ?
時間の
苦い流れの中に浸かっているぜ

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 506-509

2020年05月25日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



506
耳にした〈い〉に引っかかり
イメージの
裏街道をひとり進んでゆく



507
表ではあったかい朝ごはん
急いで
食べては各々方散っていく



508
簡素な旅装で走る
走る裏街道
 忘れられた時間のなか遠めがねもなく走る



509
闇の中耳を澄ませば
いろんな
つぶやきが寄せて来る気配する

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 503-505

2020年05月24日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



503
自分の言葉のようで
自分の言葉じゃない
みんなの言葉のようで我が家から言葉は出て行く



504
言葉は時代のイメージ
のベッドに眠り
同床異夢、ひとりひとり飛び散っていく



505
言葉は個と時代の
あわいに座り
イメージ群を燃やし燃やす燃やしたろか

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 499-502

2020年05月23日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



499
他人の詩を読むのは
他人を理解する
と同じく難しい 数十年の年輪の



500
言葉の選択と連結
喩の飛行
言葉の手がよく見えないな



501
でもね、どんな手も同時代
の匂いや味や好みの
マス・イメージの海からはい上がってくる



502
肌合いの感じでわかる
だけでいいんだよ
と思っても靄の中突き進む

覚書2020.5.22 ―現在的な表現の場所

2020年05月22日 | 覚書
覚書2020.5.22 ―現在的な表現の場所
 
 
 まず、歴史的に見て、歌は集団的なものであり同時に個的なものであった。集落の人々が白熱した巫女やシャーマンの語りや歌を聞くとする。この場合、巫女やシャーマンは、話者としての脚色を加えながらも集落のほとんどみんながそうだと思うような神々やその振る舞いやこの世界の有り様を、より鋭く深く語る。集落の人々は、そうだそうだよとほとんどみんなが同じように共鳴しながらも、一人一人の内面ではその心情にそれぞれ固有のものとつながっている。この事情は、わたしは経験がないけれど、コンサート会場でのミュージシャンと観客の関係として、現在でも同型の構造を持つのではないかと思われる。
 
 社会や産業構造の変貌とともに、太古の宗教性、濃密な世界観が薄れていくと、宗教性や集団性に仕える巫女やシャーマンから、語りの者が分化してきた。神社の創設などに象徴されるように巫女やシャーマンはより宗教性に純化し、語りの者は物語りに仕え、人々の意識も宗教性と物語りの分化に対応する意識になっていく。
 
 社会や産業構造の変貌とともに、集落の人々の宗教性や濃密な世界観は薄れ形骸化し、その隙間を埋めるように語りの者の物語りが受け入れられていく。つまり、集団性の中に埋もれた個としての人間から、個が集団性がら抜け出ていこうとする過程である。これは、個的な表現者や芸術のはじまる道筋であると思う。そうして、このような道行きはとても大きな時間スケールの中でたどられてきている。
 
 そのような歴史の歩みから現在でも、歌(に限らず芸術全般も)や歌い手には、巫女性と個性、集団性と個性が二重性として内包されている。したがって、先の戦争中の戦争詩に限らず、現在でもなお時の政権や政治や現在の中心的な社会の考え方(マス・イメージやイデオロギー)に同調する歌もやすやすと生まれてくる。ただ、そのような「儀式歌」やイデオロギー的な歌は、個々人の切実な内面をすくい上げたり触れたりすることができないから、歴史的な現在の文学的水準から見れば白々しい歌、死の文学というほかない。しかし、例えば毎年放送されているチャリティーの24時間テレビの「愛は地球を救う」というスローガンやそれに基づく番組構成に大衆受けする面があるように、「儀式歌」や儀式的な物語は存在し続けている。それらは、巫女性や集団性の伝統に連なるものであろう。
 
 現在、テレビ(ネットも含めて)の位置は、わたしたち生活者にとっても、またわたしたちを突き動かそうとする層にとっても、重要な位置を占めているように見える。私たちにとっては、テレビは娯楽や自己慰安であり、企業や政治にとってはテレビは商品を購入させたり、ある政治的なイメージを流したりわたしたちをある方向へ操作しようとしたりするものとしてあるようだ。もちろん、わたしたちは観る自由と観ない自由の意志と選択を持ってはいる。
 
 太古から眺めれば、人間は集団性に埋もれた個から、そこから抜け出して個の先鋭化の時代に至っている。このことは、現政権やそれを支える宗教グループのように過去の段階への退行や復古主義の考え方で押し止めようとしてもどうにかなるものではない。ラジオやテレビ、パソコンやケイタイなど新しいものや新しい事態が社会に登場したときには、必ずと言っていいほど二種の対立傾向がわたしたちの意識に現れる。親和と退行である。一般には、新しいものに若い層が受容的であり、老年世代が反発的、退行的である。しかし、現在を見ればわかるように、幾多の試練を乗り越えてそれらの新しいものや事態は、わりと自然ものとして着地しているし、着地していくのである。
 
 太古はいざ知らず、現在における芸人の芸や歌や文学は、現在を生きる人々の心や意識の有り様の現在的な水準によって生み出され、その水脈を無視しては成り立たない。もし、ある芸や歌や文学が「白々しい」と大多数の読者や観客に感じられたなら、それらの作品は現在的な水準や水脈からズレているのである。すなわち、わたしたちが生きて呼吸している〈現在〉からズレているということになる。