『銀河で一番静かな革命』(マヒトゥ・ザ・ピーポー 2019年5月)読書日誌 5
5.死から照らし出された生のイメージ
前回触れた野呂邦暢の『落城記』に、「世界のおわり」に照らし出されて人の生きることのイメージが表現されている箇所がある。
降るような蝉しぐれである。高城がおち、本丸が炎上し、御家一統が滅びることになろうとても、蝉が絶えることはあるまい。大楠も枯れることはないであろう。わたしは青緑色の宝石のように輝く楠の枝葉を眺めた。朝日をあびて大楠はよろこばしげであった。梢はそこに強い風があたっているからか、かたときもじっとしていなかった。幹は地中に根をおろし、どっしりと動かなかった。
父上が腹を召され、左内たちが首をとられ、七郎さまとわたしがこときれ、今、高城でがつがつと焼味噌つき握り飯をむさぼり喰らっているすべての侍足軽、年寄りや女子供が死にたえようとも、蝉はなきたてるのである。大楠は朝日と夕日に輝くのである。そう思うと、日ごろやかましいだけの蝉の声が、きょうはしみじみとありがたく聞こえた。
大楠のてっぺんで、風に身をもんでいる梢がいじらしく見えた。
わたしは城が燃えさかるとき、この世を去っているだろう。七郎さまも。わたしはこと切れても生きているだろう。わたしがこの世からいなくなることはない。わたしは楠である。わたしは草である。わたしは蝉となってあの大楠にとまり、夏の朝、身をふるわせてよろこばしく鳴くだろう。わたしは死なない。死なないと思いさだめたからには、死を怖れるいわれはない。
(『落城記』P149 )
この部分は、最初からの作者のモチーフと言うよりは、この物語を書き継ぐ過程でこういうイメージの場面を生み出さざるを得ないと思った作者に湧き上がったイメージであると言ってもいいと思う。これは、輪廻転生思想の残がいが今でも残っているように、この作品にも湧き上がったのだと思われる。この物語の語り手である於梨緒(おりお)は、意志的に「死なないと思いさだめ」ている。太古の輪廻転生の考え方が主流の時代には、思い定める必要はなく、そのような生まれ変わりは自然なものと感じ考えられていたはずだ。於梨緒はもはや輪廻転生思想の残がいを拾い集めて意志的に思い定めるほかなくなっている。これは戦国時代を生きた於梨緒の世界観というよりは作者野呂邦暢の世界観であろう。もう今では通俗的になりすぎている感じがする。つまり、生命感のないものになっている。
『落城記』からおよそ40年後に書かれた 『銀河で一番静かな革命』では、世界の終わりを目前とした時、その死から照らし出された生のイメージはどのように描かれているだろうか。この間の社会の変貌が、無意識のように言葉に刻まれているように見える。作者によって選ばれた主な登場人物たちに現れた生のイメージや感受を取り出してみる。最終章(と思える)の「光太」の場面にもあるが、「いろは」と「ましろ」の場面から抜き出してみる。状況は、「いろははそんなことを独り言のように呟いているが、調べたところで、もう行くのは無理なんだよ、いろは。だって今日は十二月三十一日。時計を見ると、二十時半をさしていた。」(語り手、「ましろ」)と「世界のおわり」が目前に迫っている。
「じゃあ、ここでお別れだね。」
雪がさらさらと音もなく散り、いつもの景色を白銀に染め上げている。
「そうじゃな。」
「じゃあ、いろは、お家に帰ろう。」
大きすぎるコートに埋まっている袖からいろはの手をとり、ましろはそう言った。
「うん、おじいちゃん、またね。」
「ありがとうね。お嬢ちゃん、さようなら。」
「ううん、さようならじゃないよ。またね。」
足元の赤い花を見ると、植木鉢の端で新しい小さな青い芽が、土から顔を出していた。おわりからもちゃんとはじまりがあるのを、いろはは知っている。
できたらまた人間として生まれたいな。今みたいに不完全で、迷子のままでもいいからさ。
「あい、またね。」
そう言うとさしたままの傘をじいちゃんはましろに渡した。
(『銀河で一番静かな革命』P212)
「本当に外にいなくてよかったの?面白いものもっと見れたかもよ。」
わたしはストーブの電源を入れ、雪で濡れたいろはの髪をバスタオルで拭き取りながら言った。
・・・中略・・・
「いーの。」
いろはは短く答える。
「でもさ、いつも、」
話し始めたわたしの会話を遮るようにしていろはは言う。
「ましろ。今、目の前で起きてることも、明日この世界がどうなってるかも関係ないよ。いろはの世界をいろはが主人公のまま続けたいだけ。」
いろはは、タオルでぐしゃぐしゃにされながら言った。
壁掛けの時計を見ると、もう二十三時を回っている。じきに、NHKでやっている紅白歌合戦もフィナーレへと向かうだろう。一分一秒、きっと窓の外の世界はもっともっと不思議なことになっていくにちがいない。わたしがわたしでいられる時間はもう、そう長くはない。
「どういうこと?」
わたしはいろはの言い回しにわからないところがあった。
「いろははね、明日を信じてるんだ。今日だって花に水をあげた。英語だって勉強する、映画のスタンプだってためるよ。想像する。いつかいろはは世界中を飛び回るし、またあの小さな映画観で暗闇の中で夢を見るんだ。」
いろはは、タオルで髪を拭き取るわたしの手を止めて、わたしの顔を睨むくらい強い目で言った。そのタオルの隙間からのぞかせる目は相変わらず澄んでいて、その鋭さに明確な意志を持っていた。こういう顔をするようになったのはつい最近。子どもの成長の速さにあっけにとられ、何も返せずにいると、いろははわたしの脇腹をくすぐった。仕返しに、くすぐり返すわたし。
「本当におわるなんて信じらんないな。」
受け入れられない気持ちを持たぬよう、大人ぶって背伸びをして、この数日過ごしてきたけれど、いろはと笑いあったのは、まさにそんな時間だった。本当におわるなんて全然、信じられない。ずっと続くかのような時間。
「いろは、もう一つ、林檎剥こうか?」
「うん。あ、でもいろは、歯磨きもうしちゃった。」
「ちゃんと口ゆすげば大丈夫よ。」
「本当?」
「うん。」
(『同上』P214-P216)
世界の終わりを目前とした時、その死から照らし出された生のイメージは、野呂邦暢の『落城記』においては割と通俗的な捉え方になっていたが、この作品ではありふれた日常の生活の中にきらりと光るように埋め込まれている。例えば、「いろは」の「ううん、さようならじゃないよ。またね。」の「またね」という言葉へのこだわりのように、この世界を生きる姿勢として意志的な表現が込められている。引用部分の全体をひとつの歌と見れば、その歌のふんい気やイメージの収束していく小さな場所が浮かんでくるように感じる。その微妙さを言葉で捉える(説明する)のは難しいという気がする。
娘の「いろは」と違って、母の「ましろ」は、「(世界のおわりを)受け入れられない気持ちを持たぬよう、大人ぶって背伸びをして、この数日過ごしてきたけれど」とあるように、もう目前に迫った「世界のおわり」に心引きずられている。この「世界のおわり」を規模を小さく取って、個に訪れる病による死と考えると、人は一般に目の前の死という現実に引きずられるだろうと思う。だから、「いろは」に作者が込めた生きる哲学のようなものは普通ということをいくぶん突き抜けたものになっている。明日「世界のおわり」(死)が訪れようが、いつもと同じように、小さな夢や希望を抱きながらこの今を生きていくんだ、というイメージは、ありふれているようで貴重なものだと思う。そのイメージや考えの根柢には、書き記されてはいないけれど、この世界(人間界ではなく、宇宙レベルの世界)における人間存在の絶対的な受動性ということがある。そうして、それはこの世界でのわたしたちの生存の有り様を深く規定している。
世界の終わりを目前とした時、その死から照らし出されたこのような生のイメージと関わるものとして、吉本さんの次のような人間の生存の有り様についての言葉がある。
それからもうひとつは、教育という意味あいを、そうせざるをえなかったのだという不可避性の問題としてかんがえれば、それは教育なんでしょうけれども、しかし生きざまだから、願望だからわからないけれども、ぼくでも死ぬまではやりたいですね。死ぬまでは、じぶんの考えを深めていきたいですし、深めたいですね。それは説きたいとか、教育したいとかというのとはちょっとちがうんですよ。しかし死ぬまでは、できるならばちょっとでも先へ行きたいよ、先へ行ったからってどうするのと云われたって、どうするって何もないですよ。死ねば死に切りですよ。死ねば終わりということで、終わりというと怒られちゃうけれど、ぼくは終わりだ、死ねば死に切り、何にもないよ、ということになるわけです。それじゃ何のために、人間はそうしなくちゃならんのと云われたら、人間とは、そういうものなんだよ、そういういわば逆説的な存在なんだよ。つまり役に立たんことを、あるいは本当の意味で誰が聞いてくれるわけでもないし、誰がそれを信じてくれるわけでもないし、どこに同志がいるわけでもないし、だけど死ぬまでは一歩でも先へすすんでという、・・・・・・ものすごく人間は悲しいねえーという感じがぼくはしますね。人間とは、そういう存在じゃないんでしょうか。そういう存在じゃないんだろうかということが、親鸞に「唯信鈔文意」とか「自力他力事」とかを書き写しちゃ弟子たちに送るみたいなことをさせたモチーフじゃないでしょうか。それがぼくの理解です。いわゆる教育ではありません。誰ひとり、じぶんの考えを本当に理解してくれる人なんていなくたって、それはそうせざるをえないんですよ。つまりそうせざるをえないというのは、何の促しかわからないけれども、そうせざるをえない存在なんですよ。だから親鸞もそうしたんでしょうというのがぼくの理解の仕方ですね。
(「『最後の親鸞』以後」、『〈信〉の構造』所収 P323-P324)
※この講演は、ほぼ日の「吉本隆明の183講演」の、A040「『最後の親鸞』以後 」。
※講演日時:1977年8月5日
次は、晩年の吉本さんに身近に接した人々の外側から描写である。
糸井
見えなくって、歩けなくって、元気でいろ、って
難しいです。
吉本さんは、最後はもうご自身の感覚だけで、
いわば思考の中で、
行き来していたような感じはありました。
どんどん体がダメになってって
たのしいことが減って生きる、というのは、
ぼくは正直、ちょっとつらいところがあります。
ハルノ
うーん‥‥でも、
それが父らしいのかもしれない。
糸井
そうなんだよ。
吉本さんは、それを自分で選んでいるところがある。
ハルノ
そうですよね。
私はつくづくね、
人間は生きたなりに死ぬなぁ、と思いますよ、
母を見てても(笑)。
(「父と母と、我が家の食事。」 第6回 だめ具合を見せたふたり。 ハルノ宵子×糸井重里 2013年 「ほぼ日刊イトイ新聞」所収)
2000年代半ば頃になると、いよいよ父の眼は悪くなってきた。テーブルを挟んで目の前にいる人も、男女の区別もつかない。「常に赤黒い夕闇に中にいるようだ」とも言っていた。さらに脚もかなり悪くなっていた。以前は家の近所1周300m程を休み休みでも歩けたのに、家の中をはって歩くだけになった。耳だって齢相応に悪くなる。さながら自分の肉体に閉じ込められているようだ。"老い"とは、かくも残酷なものかと思い知らされた。
しかし相変わらず、精神の活動だけは活発だ。だが五感から入ってくる情報は限られている。
(同封の月報18「ボケるんです!」ハルノ宵子、『吉本隆明全集17』晶文社)
吉本さんの世話をしていた娘(ハルノ宵子)であっても、どこまで吉本さん本人の内を捉えきるか、こういうことは一般に難しい。外からは、「たのしいことが減って生きる」とか「自分の肉体に閉じ込められているようだ。"老い"とは、かくも残酷なものか」と感じられても、ほんとうにその通りか、そのようにすつきりと切り整えられた言葉で捉え尽くせるかは疑問だ。言葉にしても仕方がない吉本さんの老いの具体性の日々があったろう。今のわたしにはわからないとしか言いようがない。ただ、上の講演は1977年で、下の話はそれから30年近く経った2000年頃。それでも、吉本さんは「生涯現役」で、上の講演で語られたように生きたのだと思う。
物語世界では当然ながら、世界の終わりの時登場人物たちも語り手も消失する、退場する。しかし、作者は存在していてすべてが退場した後に、物語の終わりを宣告して書くことをやめる。そうして、作者のモチーフとイメージがくり広げられる物語世界として、読者の前に登場することになる。
最後に、この作品を読むわたしたち読者に照明を当ててみると、この世界の今を生きるわたしたちにとって、この作品世界の「世界のおわり」は、もっと小規模な立ち塞がる日々の困難に置き換えられる。そうして、そこでどのような生き直しを試みるかという内省の問題に変換される。
註.
この読書日誌を書いている途中で出会った「町田康×マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)、創作と人生を巡る対話」を、書き終えたので読んでみた。町田康の実作者としての経験からくる言葉が少し目新しく思われたが、わたしに付け加えることはない。ひとつ、思ったのは、作品中で「いろは」が理由もないのに涙がこぼれてくるという描写(読書日誌 3)があり、男の作者なのに女の子の微妙な感情がわかっているのだろうか、とふしぎに思ったことがあったが、これは次のような作者の固有性と関係があるのかなという印象を持った。
マヒト:感情と行動が伴わない感覚はよくあります。お腹が減ってご飯を食べるように、気持ちと行動が連動するのが普通の感覚、普通の人間だと思いますが、そうじゃないことがたまにある気がします。その度合いが酷過ぎると、いわゆる「マトモじゃない人」になるんでしょうけど。自分で決めているはずなのに、実は決められている現実が多い世の中で、最近鏡を見ることにハマってまして……。鏡に映った自分が他人に見えてしまうんですよね。ナルシストという感覚ではなくて、「何者だろう、こいつは。」という気持ちで鏡を見ています。
マヒト:気持ちと行動が綺麗に合わさって上手く回るのは効率的かもしれないけど、そうじゃない場合もあるよな、という感覚は大事にしたくて。明確な答えではなく、気持ちと行動の間にある曖昧な「揺れ」に興味があるんだと思います。
(「町田康×マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)、創作と人生を巡る対話」)
5.死から照らし出された生のイメージ
前回触れた野呂邦暢の『落城記』に、「世界のおわり」に照らし出されて人の生きることのイメージが表現されている箇所がある。
降るような蝉しぐれである。高城がおち、本丸が炎上し、御家一統が滅びることになろうとても、蝉が絶えることはあるまい。大楠も枯れることはないであろう。わたしは青緑色の宝石のように輝く楠の枝葉を眺めた。朝日をあびて大楠はよろこばしげであった。梢はそこに強い風があたっているからか、かたときもじっとしていなかった。幹は地中に根をおろし、どっしりと動かなかった。
父上が腹を召され、左内たちが首をとられ、七郎さまとわたしがこときれ、今、高城でがつがつと焼味噌つき握り飯をむさぼり喰らっているすべての侍足軽、年寄りや女子供が死にたえようとも、蝉はなきたてるのである。大楠は朝日と夕日に輝くのである。そう思うと、日ごろやかましいだけの蝉の声が、きょうはしみじみとありがたく聞こえた。
大楠のてっぺんで、風に身をもんでいる梢がいじらしく見えた。
わたしは城が燃えさかるとき、この世を去っているだろう。七郎さまも。わたしはこと切れても生きているだろう。わたしがこの世からいなくなることはない。わたしは楠である。わたしは草である。わたしは蝉となってあの大楠にとまり、夏の朝、身をふるわせてよろこばしく鳴くだろう。わたしは死なない。死なないと思いさだめたからには、死を怖れるいわれはない。
(『落城記』P149 )
この部分は、最初からの作者のモチーフと言うよりは、この物語を書き継ぐ過程でこういうイメージの場面を生み出さざるを得ないと思った作者に湧き上がったイメージであると言ってもいいと思う。これは、輪廻転生思想の残がいが今でも残っているように、この作品にも湧き上がったのだと思われる。この物語の語り手である於梨緒(おりお)は、意志的に「死なないと思いさだめ」ている。太古の輪廻転生の考え方が主流の時代には、思い定める必要はなく、そのような生まれ変わりは自然なものと感じ考えられていたはずだ。於梨緒はもはや輪廻転生思想の残がいを拾い集めて意志的に思い定めるほかなくなっている。これは戦国時代を生きた於梨緒の世界観というよりは作者野呂邦暢の世界観であろう。もう今では通俗的になりすぎている感じがする。つまり、生命感のないものになっている。
『落城記』からおよそ40年後に書かれた 『銀河で一番静かな革命』では、世界の終わりを目前とした時、その死から照らし出された生のイメージはどのように描かれているだろうか。この間の社会の変貌が、無意識のように言葉に刻まれているように見える。作者によって選ばれた主な登場人物たちに現れた生のイメージや感受を取り出してみる。最終章(と思える)の「光太」の場面にもあるが、「いろは」と「ましろ」の場面から抜き出してみる。状況は、「いろははそんなことを独り言のように呟いているが、調べたところで、もう行くのは無理なんだよ、いろは。だって今日は十二月三十一日。時計を見ると、二十時半をさしていた。」(語り手、「ましろ」)と「世界のおわり」が目前に迫っている。
「じゃあ、ここでお別れだね。」
雪がさらさらと音もなく散り、いつもの景色を白銀に染め上げている。
「そうじゃな。」
「じゃあ、いろは、お家に帰ろう。」
大きすぎるコートに埋まっている袖からいろはの手をとり、ましろはそう言った。
「うん、おじいちゃん、またね。」
「ありがとうね。お嬢ちゃん、さようなら。」
「ううん、さようならじゃないよ。またね。」
足元の赤い花を見ると、植木鉢の端で新しい小さな青い芽が、土から顔を出していた。おわりからもちゃんとはじまりがあるのを、いろはは知っている。
できたらまた人間として生まれたいな。今みたいに不完全で、迷子のままでもいいからさ。
「あい、またね。」
そう言うとさしたままの傘をじいちゃんはましろに渡した。
(『銀河で一番静かな革命』P212)
「本当に外にいなくてよかったの?面白いものもっと見れたかもよ。」
わたしはストーブの電源を入れ、雪で濡れたいろはの髪をバスタオルで拭き取りながら言った。
・・・中略・・・
「いーの。」
いろはは短く答える。
「でもさ、いつも、」
話し始めたわたしの会話を遮るようにしていろはは言う。
「ましろ。今、目の前で起きてることも、明日この世界がどうなってるかも関係ないよ。いろはの世界をいろはが主人公のまま続けたいだけ。」
いろはは、タオルでぐしゃぐしゃにされながら言った。
壁掛けの時計を見ると、もう二十三時を回っている。じきに、NHKでやっている紅白歌合戦もフィナーレへと向かうだろう。一分一秒、きっと窓の外の世界はもっともっと不思議なことになっていくにちがいない。わたしがわたしでいられる時間はもう、そう長くはない。
「どういうこと?」
わたしはいろはの言い回しにわからないところがあった。
「いろははね、明日を信じてるんだ。今日だって花に水をあげた。英語だって勉強する、映画のスタンプだってためるよ。想像する。いつかいろはは世界中を飛び回るし、またあの小さな映画観で暗闇の中で夢を見るんだ。」
いろはは、タオルで髪を拭き取るわたしの手を止めて、わたしの顔を睨むくらい強い目で言った。そのタオルの隙間からのぞかせる目は相変わらず澄んでいて、その鋭さに明確な意志を持っていた。こういう顔をするようになったのはつい最近。子どもの成長の速さにあっけにとられ、何も返せずにいると、いろははわたしの脇腹をくすぐった。仕返しに、くすぐり返すわたし。
「本当におわるなんて信じらんないな。」
受け入れられない気持ちを持たぬよう、大人ぶって背伸びをして、この数日過ごしてきたけれど、いろはと笑いあったのは、まさにそんな時間だった。本当におわるなんて全然、信じられない。ずっと続くかのような時間。
「いろは、もう一つ、林檎剥こうか?」
「うん。あ、でもいろは、歯磨きもうしちゃった。」
「ちゃんと口ゆすげば大丈夫よ。」
「本当?」
「うん。」
(『同上』P214-P216)
世界の終わりを目前とした時、その死から照らし出された生のイメージは、野呂邦暢の『落城記』においては割と通俗的な捉え方になっていたが、この作品ではありふれた日常の生活の中にきらりと光るように埋め込まれている。例えば、「いろは」の「ううん、さようならじゃないよ。またね。」の「またね」という言葉へのこだわりのように、この世界を生きる姿勢として意志的な表現が込められている。引用部分の全体をひとつの歌と見れば、その歌のふんい気やイメージの収束していく小さな場所が浮かんでくるように感じる。その微妙さを言葉で捉える(説明する)のは難しいという気がする。
娘の「いろは」と違って、母の「ましろ」は、「(世界のおわりを)受け入れられない気持ちを持たぬよう、大人ぶって背伸びをして、この数日過ごしてきたけれど」とあるように、もう目前に迫った「世界のおわり」に心引きずられている。この「世界のおわり」を規模を小さく取って、個に訪れる病による死と考えると、人は一般に目の前の死という現実に引きずられるだろうと思う。だから、「いろは」に作者が込めた生きる哲学のようなものは普通ということをいくぶん突き抜けたものになっている。明日「世界のおわり」(死)が訪れようが、いつもと同じように、小さな夢や希望を抱きながらこの今を生きていくんだ、というイメージは、ありふれているようで貴重なものだと思う。そのイメージや考えの根柢には、書き記されてはいないけれど、この世界(人間界ではなく、宇宙レベルの世界)における人間存在の絶対的な受動性ということがある。そうして、それはこの世界でのわたしたちの生存の有り様を深く規定している。
世界の終わりを目前とした時、その死から照らし出されたこのような生のイメージと関わるものとして、吉本さんの次のような人間の生存の有り様についての言葉がある。
それからもうひとつは、教育という意味あいを、そうせざるをえなかったのだという不可避性の問題としてかんがえれば、それは教育なんでしょうけれども、しかし生きざまだから、願望だからわからないけれども、ぼくでも死ぬまではやりたいですね。死ぬまでは、じぶんの考えを深めていきたいですし、深めたいですね。それは説きたいとか、教育したいとかというのとはちょっとちがうんですよ。しかし死ぬまでは、できるならばちょっとでも先へ行きたいよ、先へ行ったからってどうするのと云われたって、どうするって何もないですよ。死ねば死に切りですよ。死ねば終わりということで、終わりというと怒られちゃうけれど、ぼくは終わりだ、死ねば死に切り、何にもないよ、ということになるわけです。それじゃ何のために、人間はそうしなくちゃならんのと云われたら、人間とは、そういうものなんだよ、そういういわば逆説的な存在なんだよ。つまり役に立たんことを、あるいは本当の意味で誰が聞いてくれるわけでもないし、誰がそれを信じてくれるわけでもないし、どこに同志がいるわけでもないし、だけど死ぬまでは一歩でも先へすすんでという、・・・・・・ものすごく人間は悲しいねえーという感じがぼくはしますね。人間とは、そういう存在じゃないんでしょうか。そういう存在じゃないんだろうかということが、親鸞に「唯信鈔文意」とか「自力他力事」とかを書き写しちゃ弟子たちに送るみたいなことをさせたモチーフじゃないでしょうか。それがぼくの理解です。いわゆる教育ではありません。誰ひとり、じぶんの考えを本当に理解してくれる人なんていなくたって、それはそうせざるをえないんですよ。つまりそうせざるをえないというのは、何の促しかわからないけれども、そうせざるをえない存在なんですよ。だから親鸞もそうしたんでしょうというのがぼくの理解の仕方ですね。
(「『最後の親鸞』以後」、『〈信〉の構造』所収 P323-P324)
※この講演は、ほぼ日の「吉本隆明の183講演」の、A040「『最後の親鸞』以後 」。
※講演日時:1977年8月5日
次は、晩年の吉本さんに身近に接した人々の外側から描写である。
糸井
見えなくって、歩けなくって、元気でいろ、って
難しいです。
吉本さんは、最後はもうご自身の感覚だけで、
いわば思考の中で、
行き来していたような感じはありました。
どんどん体がダメになってって
たのしいことが減って生きる、というのは、
ぼくは正直、ちょっとつらいところがあります。
ハルノ
うーん‥‥でも、
それが父らしいのかもしれない。
糸井
そうなんだよ。
吉本さんは、それを自分で選んでいるところがある。
ハルノ
そうですよね。
私はつくづくね、
人間は生きたなりに死ぬなぁ、と思いますよ、
母を見てても(笑)。
(「父と母と、我が家の食事。」 第6回 だめ具合を見せたふたり。 ハルノ宵子×糸井重里 2013年 「ほぼ日刊イトイ新聞」所収)
2000年代半ば頃になると、いよいよ父の眼は悪くなってきた。テーブルを挟んで目の前にいる人も、男女の区別もつかない。「常に赤黒い夕闇に中にいるようだ」とも言っていた。さらに脚もかなり悪くなっていた。以前は家の近所1周300m程を休み休みでも歩けたのに、家の中をはって歩くだけになった。耳だって齢相応に悪くなる。さながら自分の肉体に閉じ込められているようだ。"老い"とは、かくも残酷なものかと思い知らされた。
しかし相変わらず、精神の活動だけは活発だ。だが五感から入ってくる情報は限られている。
(同封の月報18「ボケるんです!」ハルノ宵子、『吉本隆明全集17』晶文社)
吉本さんの世話をしていた娘(ハルノ宵子)であっても、どこまで吉本さん本人の内を捉えきるか、こういうことは一般に難しい。外からは、「たのしいことが減って生きる」とか「自分の肉体に閉じ込められているようだ。"老い"とは、かくも残酷なものか」と感じられても、ほんとうにその通りか、そのようにすつきりと切り整えられた言葉で捉え尽くせるかは疑問だ。言葉にしても仕方がない吉本さんの老いの具体性の日々があったろう。今のわたしにはわからないとしか言いようがない。ただ、上の講演は1977年で、下の話はそれから30年近く経った2000年頃。それでも、吉本さんは「生涯現役」で、上の講演で語られたように生きたのだと思う。
物語世界では当然ながら、世界の終わりの時登場人物たちも語り手も消失する、退場する。しかし、作者は存在していてすべてが退場した後に、物語の終わりを宣告して書くことをやめる。そうして、作者のモチーフとイメージがくり広げられる物語世界として、読者の前に登場することになる。
最後に、この作品を読むわたしたち読者に照明を当ててみると、この世界の今を生きるわたしたちにとって、この作品世界の「世界のおわり」は、もっと小規模な立ち塞がる日々の困難に置き換えられる。そうして、そこでどのような生き直しを試みるかという内省の問題に変換される。
註.
この読書日誌を書いている途中で出会った「町田康×マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)、創作と人生を巡る対話」を、書き終えたので読んでみた。町田康の実作者としての経験からくる言葉が少し目新しく思われたが、わたしに付け加えることはない。ひとつ、思ったのは、作品中で「いろは」が理由もないのに涙がこぼれてくるという描写(読書日誌 3)があり、男の作者なのに女の子の微妙な感情がわかっているのだろうか、とふしぎに思ったことがあったが、これは次のような作者の固有性と関係があるのかなという印象を持った。
マヒト:感情と行動が伴わない感覚はよくあります。お腹が減ってご飯を食べるように、気持ちと行動が連動するのが普通の感覚、普通の人間だと思いますが、そうじゃないことがたまにある気がします。その度合いが酷過ぎると、いわゆる「マトモじゃない人」になるんでしょうけど。自分で決めているはずなのに、実は決められている現実が多い世の中で、最近鏡を見ることにハマってまして……。鏡に映った自分が他人に見えてしまうんですよね。ナルシストという感覚ではなくて、「何者だろう、こいつは。」という気持ちで鏡を見ています。
マヒト:気持ちと行動が綺麗に合わさって上手く回るのは効率的かもしれないけど、そうじゃない場合もあるよな、という感覚は大事にしたくて。明確な答えではなく、気持ちと行動の間にある曖昧な「揺れ」に興味があるんだと思います。
(「町田康×マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)、創作と人生を巡る対話」)