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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 314-316

2020年03月31日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



314
たったひとりの読者
しかいなくても
詩は書かれるさ 言葉の十八願を超えて



315
生きてるかぎりつぶやき
語るように
詩もまたつぶやき語る 言葉の十八願を超えて



316
言葉たちの無意識の
ふるまいに
人も詩も生きて在る 言葉の十八願を超えて

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 311-313

2020年03月30日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



311
言葉にはクソッタレもあれば
小さな明かりもある
だから詩を書く 言葉の「第十八願」



312
どんな言葉でも自由さ
制限スピード超えて
詩は疾走する 言葉の「第十八願」



313
言葉にいのち流れて
いるかぎり
ぼくも歌うさ 言葉の「第十八願」

註.
第十八願「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。」(Wikipedia「四十八願」より)

覚書2020.3.29 ―「病院化社会」についての素人の考察

2020年03月29日 | 覚書
 覚書2020.3.29 ―「病院化社会」についての素人の考察
 
 
 現在では病院に行くのは普通の自然なことになっている。そのことによって、苦痛が軽減されたり、また、助かる命が増加し平均寿命の押し上げにも貢献しているのかもしれない。しかし、表面化することが滅多になくても、医者は命を巡ってわたしたち(患者)とは非対称な権力性の中に置かれている。言いかえると、病院ではわたしたち(患者)は受動的な存在を強いられている。もしその権力性が犯罪として発動されれば、近年病院や老人ホームで起こったような看護師による殺人事件ともなり得る。
 
 病院と言えば、わたしは若い頃から何十年もの間に二、三度病院にかかったことしかない程度だったが、最近大病して助かり、今では毎月通院している。大雑把に言って、薬は別にして、二、三ヵ月通院しなくても大丈夫な感じはしている。たぶん通院者の大半はそんな人々ではないかと思う。これが、「病院化社会」の現在の普通の光景なのかもしれない。
 
 ところで、増大する新型コロナウィルス感染問題の中、現在なお「検査」(主にPCR検査)が問題になっている。「検査」は、一般に医者にとっても患者にとっても、医療(治癒へ)の過程の一場面に過ぎないはずである。しかも、それ以降の医療(治癒へ)の過程へ向かう両者にとって何気ないあるいは切実な一場面である。今回のいろんな医者の発言に、学校では患者との関係の問題を習ったことがあるんだろうけど、わたしたち(患者)の内面を繰り込んだ発言が稀薄な印象がした。それは、具体的に言えば症状の苦しさや新型コロナウィルスに罹ったのではないかとかの不安やたらい回しにされることの苦痛などへの配慮のことである。
 
 例えばある医者は、「結局、どういう時に検査をすればいいのかは2つだけです。1つめは、医者が患者の治療のために必要だと思ったとき。もう1つは、行政が感染者の把握のために必要だと思ったとき。それしかありません。」とツイッターで力こぶを入れたように語っている。患者は医療の主体の一方としてではなく、主体は医者や看護師で、わたしたちは単に医療の対象としか見なされていないように思える。これは「病院化社会」の現在の乾いた精神風景ではないのか。
 
 今回のような未知の感染症の場合、ふだんおそらく自然に行われている一つの医療過程の「検査」が、別の問題に遭遇している。新型コロナウィルスは、正式の治療薬もできていない未知の感染症をもたらすゆえに、普通の医者や看護師とひとりの患者の関係を超えた場面をわたしたちやその社会に強いている。未知の感染症が、〈感染〉ということで社会性を引き寄せ、個別性を超えた社会性(医療チームや行政や国の対応)をも強いるから、ふだんの医療と政治的な医療との二重の医療になっている、ならざるを得ない。
 
 政治や医療は、こんな感染症の場合には、専門的に医療システムを構築し、状況に合わせて流動的にそのシステムを再構築していくのだろう。しかし、オリンピック問題もあり、政府や行政主導のそのシステム構築がきちんと準備され、なされてきたのか大いに疑問である。ささいな例を挙げれば、官房長官がマスクは調達するとひと月前に公式に語っていたのに、ひと月以上経った現在でも依然としてマスクが手に入らない状態が続いている。これ一つを取っても社会的な不安への負の貢献にしかなっていない。第一、この間の様々な問題を巡る政権や官僚の悪行の数々がわたしたちに根深い不信感を与えている。
 
 ネトウヨ含めて専門家(医者など)のツイートなどを見ると現状の医療システムや人員配置を固定的に見過ぎて、そこからの医療崩壊への不安ばかりが叫ばれているように見える。緊急性の高いこんな場合にも、政治家ももちろんだが、医者や看護師にも個(患者)の内面への想像力は必須だと思う。
 
 また、原発大事故の問題の時とは違って今回は世界レベルで新型コロナウィルス問題に直面しているから、情けないことに、海外の対応や政治責任者たちの言動がわが国の貧弱なそれらを相対化し照らし出してもいる。
 
 わたし(たち)は、新型コロナウィルス問題に目や耳を傾けてその実体や対策を知ろうともするが、あくまで医療の素人である生活人なのだから、それに罹らないよう、人にうつさないように、日常的なふるまいに力こぶを入れるしかないと思っている。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 307-310

2020年03月29日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



307
何気ない大気や風に
揺れる
揺れる揺れるよお おっとっと



308
白線幅のみちをゆく
気軽に
Aとか非Aとか言い出せない



309
「ぼくなんかが根本的に大事におもっていることは、
人間は個人として自由に生きられ自由にかんがえられ、そして不自由がなければいちばんいい
にもかかわらず、社会的にも集団的にも生きなくてはならないということになってしまったということです。」
 
註.309は、吉本隆明『マルクス―読みかえの方法』より。



310
たくさんの花々みたいに
人の考えが咲いている
人の細道を今日もゆく

『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ①

2020年03月28日 | 坂口恭平を読む
『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ①


 1.物語世界の構造


 近代小説は、一般に作者・語り手・登場人物という基本要素を必要とし、作者は物語世界の後景に位置し、太古とは違って個としての作者のモチーフを担った語り手が、登場人物を引き寄せたり登場人物たちに促されたりしながらそれらを語る(描写する)ことによって、物語世界は駆動され、展開していく。もちろん、言葉を書きついでいくのは作者である。この場合の現場の様子としては、作者は、例えば、ある人が自分の職場の結婚式場に出かけて結婚式の司会をやるように、変身した語り手に憑かれるように、あるいは語り手になりきって言葉で描写していく。このような物語世界の構造にも時に乱流が起こることもある。

 普通の物語と違って、芥川龍之介の作品には物語世界に作者が登場するものがいくつかある。西欧の作品にもそういうものがあるのかどうかは知らない。「羅生門」では「ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門下で雨やみを待っていた。」と語り手が語り物語世界を開いていくが、途中で「作者はさっき、『下人が雨やみを待っていた』と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。」というふうに急に作者が登場する。これは旧時代の語り物の名残ではないかと思う。佐伯泰英の時代物、『居眠り磐音 江戸双紙』シリーズを読んでいる時にも感じたことがある。物語の時空を抜け出たようにしてある場所の歴史的な説明が急に入る時がある。これは江戸時代に下り立った語り手ではないから、作者が顔を出しているのだとみるしかない。現在に残る語り物でも、時には物語世界から語り手が抜け出て、ある出来事や場所の歴史的説明が入る時がある。必要だという配慮からそれらはなされているのだろうが、観客(読者)としては物語世界への没入に水をかけられたようで少し興ざめになる時もある。現在でも、いくらかこのような部分を残しているといっても、上記のような作者・語り手・登場人物という基本要素からなる物語作品が、現在の主流の形となっている。

  坂口恭平の『現実宿り』に見られる独特の物語世界の構造については、以前に触れた。(「『現実宿り』(坂口恭平)を読む」2016.12.10)それは、作者・語り手・登場人物という基本要素からなる近代以降の小説の物語世界とは少し違っているようだった。今回取り上げる作品『建設現場』も『現実宿り』と同じような物語世界の構造に見えるので、その以前の自分の文章で引用した『現実宿り』に関する作者のツイートを再び引用する。


1.(2016.8.05)
とにかくぼくはプロットも構成もそもそも着想自体なく鬱のまま書き始めているので何がなんだかわからないまま書いている。書かないと死にそうだから書いているだけなので、今日の文章教室ではそのことだけを伝えます。きっとただみんなほっとするだけの会になると思います。才能の問題ではありません


2.(2016.10.14)
新作「現実宿り」は10月27日に発売されます。今年の1月に鬱で死にそうになっていたときに頭の中が砂漠になって布団の中でもがきながら書いた本です。自分でも何を書いたのかわかっていないので買って読んで電話で感想ください。予約開始中 


3.(2016.10.24)
雨宿りという言葉は雨がただの避けるものではないということを示していて、気になっていた。雨音聞きながら寝ると気持ちいいし、雨の日に部屋にいると安心する。軒先を宿だと思う感覚も面白いし、軒先から見る雨は自分を守る生きた壁みたいに見えて何かが宿っているようにも見える。


4.(2016.10.24)
という「雨宿り」という言葉に対しての興味から、僕の仕事もただ現実からの避難所を作りたいわけじゃなく、一つそういった軒先のような空間があれば、現実に対する目も変化するのではないか、なんてことを考えながら、雨宿りから着想して「現実宿り」という造語をつくりましたー。


5.(2016.12.03)
「現実宿り」昨日久しぶりに数ページ読み返してみたが僕が書いたと思われる箇所がほとんどなくびっくりした。ほんと何度、ページ開いても不思議な感覚です。よく本になったなあと。そして、よくぞ他の人が読んでくれてそれぞれにいろいろ僕にくれたもんだなあと。僕に主題がないどころか僕が書いてない


6.(2016.12.08)
僕の場合、資料などは一切、入手しないでただ書く。目をつむらないで、目を開かないで、ぼんやりとしたあたりに、窓があって、そこからすかしてみるみたいな感じだろうか。嘘は書いちゃいけないと思っているので、創作した部分は結局最後には消すことになる。でも、そのまま書くと、ほんとむちゃくちゃ



 作者のツイートの1.2.6.は、表現の舞台に立っている(立たざるを得ない)時を振り返った作者としての実感、表情や思いである。3.4.は、表現の舞台を下りた作者が自分の表現の行動に与えた冷静な内省的な言葉である。これは通常の感覚である。

 『現実宿り』の時の読書感で言えば、シュールレアリズムのような表現が次々に転換し連結されていくような感覚や神話的な描写でもあるなという感覚を持ったが、この『建設現場』でもそのような印象がする。前回、上のツイートを引用した後に、この作品は、虚構という物語性の稀薄な、作者である「わたし」の切実な「心象スケッチ」と見なすべきだと思う、と書いた。この『建設現場』でもそれは言えそうだ。すなわち、この『建設現場』の物語構造も、『現実宿り』に見られる独特の物語世界の構造と同型であると思われる。そのことにもう少し立ち入ってみる。

 ところで、太古の巫女さんが、集落の人々の前で物語り(神のお告げなど)をする場合、神(大いなる自然)に促されて語り手の巫女さんが語ることになる。もう少し現代風に言えば、巫女さんは、集落の人々が内心に持っている世界観や世界イメージ(マス・イメージ)に促されてそれに応えるように、神自身に成り代わったり、神を讃えたり、神に訴えたりして語ることになる。ちなみに、『アイヌ神謡集』(知里幸恵編訳 青空文庫)には、「梟の神の自ら歌った謡」など神自身が一人称で語る話が残されている。

 この作者の「不思議な感覚」(ツイート5.)からすると、『建設現場』は、作者にどこからか訪れてくる緊迫した〈鬱的な世界〉とその時間が、作者のモチーフや物語性に取って代わっているのではなかろうか。そのために、ツイート5.に見られるような「僕が書いたと思われる箇所がほとんどなくびっくりした」となるのではなかろうか。作品で部分的には自分が書いたとは思えないと言う作者の言葉には出会ったことがあるような気がする。たぶん、作者たちは日常世界を離脱していくぶん我を忘れたように、あるいは、物語世界に憑かれるようにして書いているだろうから、いくらかはそういう場合があるのだろう。しかし、坂口恭平の場合は、それと違って全面的に見える。

 先の太古の巫女さんの物語りの例で言えば、巫女さんの物語りを突き動かすのが集落の人々が内心に持っている世界観や世界イメージ(マス・イメージ)であるのと同様に、坂口恭平の場合は、自らの内から沸き立つモチーフというよりは、緊迫した〈鬱的な世界〉とその時間が、作者を物語り世界に追い込み、突き動かしているように見える。素人の推測に過ぎないが、物語世界の中での作者の受動的な緊迫した時間の強度とそこから離脱した日常のふだんの時間の強度との落差の大きさが、醒めたときの自分が書いたものとは思えないという言葉になっているのではないかと思う。

 坂口恭平の『現実宿り』や『建設現場』という物語世界は、作者・語り手・登場人物を基本要素とする一般的な物語世界の、作者のモチーフに促された一般的な語り手とは違って、他の何ものかに促されたり迫られたりしている受動的な作者-語り手なのではないだろうか。ちなみに、出版社の『建設現場』の紹介コメントには、「これは小説なのか、それとも記録なのか。」とある。この作品が、普通の物語作品とは見なされていないということだろう。読者としていつものように物語の筋をたどろうとすると、世界の時空の理路がゆがみ、シュールリアリズムのイメージが連結されていくような、あるいは神話的な自在さのような印象を持つ。それらのイメージ流とも言うべきものの流れや展開に慣れていない読者としては、読んでいてきついなと思う。

 作者のツイート1.2.にあるように、この『建設現場』でも作者は「書かないと死にそうだから書いている」のだろう。そのことが現在を生きのびることになっている。つまり、ふいと訪れてくる避けられない〈鬱的な世界〉とその時間の制圧に抗うように書いているように見える。そうして、そうした状況で〈書く〉こと自体が作者にとって、鎮静剤や「自己慰安」のようになっているようである。


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 304-306

2020年03月28日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



304
言葉の川が流れている
重たい軽い
明るい暗い色んな言葉たちがぷかぷか流れていく



305
時代の大気の下(もと)
踊り出す
言葉もあれば身悶えする言葉もある



306
何気ないぼくのつぶやきも
するすると
言葉の川に吸い込まれていく

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 297-300

2020年03月26日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



297
「しまったしまったしまった」
「どうしたの」
「はだかと恥がシームレスしまった」



298
裸と恥はだかはじが
ハダカジにしまった
エピデミックパンデミック!



299
「閉まったものは仕方がない」
「箸で食べるしまった」
「化粧するしまった」



300
誰もが普通顔して
通って行く
しまった通りが今日も開いている

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 293-296

2020年03月25日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



293
赤ちゃんは裸ん坊
になってても
気にしないみたいアオアオと這う



294
何という国境を
潜ってきたのか
われら衣服などで武装している



295
ネコの前でおならする
我が家のネコたちに
さざ波も立たないみたい



296
(恥ずかしい)となってしまったからには
ネコみたいに
はだかで街中を歩けないな

メモ2020.3.24―物語の中に織り込まれた時代性

2020年03月24日 | メモ
メモ2020.3.24―物語の中に織り込まれた時代性
 
 
 物語世界は、作者のあるモチーフを主流として展開していく。そのモチーフを具体的に担っていくのは、作者によって物語世界に派遣された、語り手や登場人物たちである。しかし、そこには作者が割と自然なものとして呼吸している時代性―マス・イメージとしてのものの感じ考え方や流行など―というものも無意識的な形で流れ込んでいる。登場人物の考え方は、作者の考えと同一ではないが、作者が強く思い入れしている場合もある。ここで取り上げる二つの場面は、わたしの感じでは作者の考えに近いのではないかと思われる。
 
 村瀬学が『いじめの解決 教室に広場を』(2018年7月)で、いじめの場面が描写されているとして取り上げた物語のひとつ、ヘルマンヘッセの『デーミアン』を読み終えた。この中に、当時の進化論の考え方が生かされている描写がある。
 
 
1.主人公のぼく(シンクレア)と知り合いのピストーリウスとの対話
 
 次に会ったとき、音楽家(引用者註.知り合いになったピストーリウスのこと)はぼくに説明してくれた。
「わたしたちは自分の人格を狭く考えすぎているのだよ。わたしたちは個々に異なる相異点ばかり見て、それを自分の人格だと思っている。ところが、わたしたちはこの世界のあらゆるものから成り立っているのだ。ひとり残らずな。人間の進化の系図を辿ると、魚まで、いやもっと先までさかのぼることができる。わたしたちの魂には、かつて人間の魂のなかで生きたものがすべて詰まっている。かつて存在した神々と悪魔、ギリシア人のものであろうと、中国人のものであろうと、はたまたズールー人のものであろうと、すべて、わたしたちのなかにある。可能性、願望、選択肢として。人類が滅亡して、なんの教育も受けていない平凡な子どもがひとりだけ残ったとして、そんな子でも天地創造の過程を繰り返して、神々、守護霊、楽園、掟に禁忌、旧約聖書と新約聖書など、なにもかも再現することができるだろう」
「それはわかりますけど」とぼくは異議を唱えた。「それじゃ、個人の価値はどこにあるんです?もし、ぼくらのなかにすでに全部そろっているのなら、努力する意味なんてあるんですか?」
「待った!」ピストーリウスが激しく反応した。「世界を自分のなかに持っていることと、それを知っていることとは大いにちがうぞ。頭のおかしな奴がプラトンを思わせる考えを口にすることはある。ヘルンフート兄弟団の敬虔な幼い学童が、グノーシス主義やゾロアスター教における深遠な神話とのつながりに自力で気づくことだってある。しかし世界が自分のなかにあることを知っているわけではない。そのことを知らなければ、木や石、よくても動物とおなじだ。世界が自分のなかにある、とかすかにでも閃いたとき、初めて人間になる。きみだって、二本足で往来を歩いている者を見て、直立して歩き、九ヵ月間母の胎内にいたという理由だけで人間と見なしはしないだろう?多くの人がむしろ魚や羊、虫や蛭、蟻や蜂にそっくりなことに気づくはずだ。だれだって、人間になる可能性を秘めている。そのことに気づき、すこしでも意識する必要がある。そのことを学んではじめて、その可能性は生まれる」
 僕らの会話はだいたいこんな感じだった。
 (『デーミアン』P162-P164 ヘッセ 光文社古典新訳文庫)
 

 
2.主人公のぼく(シンクレア)と知り合いのデーミアンとの対話
 
 なぜなら、現世の崩壊と再生が肌に感じられるほど間近に迫っていることは、口にだそうがだすまいが、ぼくらみんなが感じていることだったからだ。デーミアンはぼくに何度も言った。
「なにが起きるかはわからない。ヨーロッパの魂は、長井いだ軛につながれていた獣と同列さ。解き放たれた当初はとんでもない状態になると思うな。だけど迂回も含めどんな道を選ぶかは重要なことじゃない。大昔からそんなものは存在しないとまことしやかに言われたり、麻痺させられたりしてきた魂が本当に危機に瀕していること、それが明るみに出ることこそ大事なんだ。そのときがぼくらの出番さ。ぼくらが必要とされる。ただし指導者とか、新しい立法者としてじゃない―新しい法をぼくらは体験しないだろう―むしろ志ある者としてだ。つまり運命が呼ぶところへ手を携えて進み、そこに立つ者として。・・・中略・・・人類の歴史に足跡を残した人はみな例外なく、運命にたいする心構えができていたから、そういう能力を持っていたのさ。モーセ、仏陀、ナポレオンやビスマルクにも言えることだ。どういう波に乗るか、どちら側につくかなんて、自分で選べることじゃない。ビスマルクが社会民主主義者を理解して同調していたら、賢明な人物だったと言われただろうけど、運命の人にはなれなかっただろう。ナポレオン、カエサル、ロヨラ、みんな、そうだ。生物学的、進化論的に考えればもっとはっきりする。地球上の変動が水生生物を地上に放りだし、陸生生物を水中に放り込んだとき、新しいことを成し遂げて、新たに適応することによって種を絶滅から救ったのは、運命に対する備えができていた個体たちだった。その生き残った個体が、現状維持を望む保守派として抜きんでていたのか、変わり者の革命家だったのかはわからない。わかっているのは、備えができていたことだ。だからこそ進化することで、自分の種を救えた。だからぼくらも備えようじゃないか」
 (『同上』P228-P230)

 
 
 1.は、人間という存在の認識で、そこに進化論的な考え方が行使されている。
 2.は、混乱の状況の中で自分たちはどう生きたら良いのかと、歴史の推移する動因のようなものが注視されている。歴史の推移を象徴する歴史的な人物、有名人を取り上げて、そのことの意味が遙か人間以前の運命の中での進化の振る舞いとして考察されている。『デミアン』は1919年に発表されたということだから、ヨーロッパの動乱の時代である第一次世界大戦中に書き継がれたことになる。2.の描写はそうした背景をうかがわせる。そうして、それが進化論の考え方と織り合わせて登場人物によって語られているが、語られる熱い思いのようなものから、これは作者の考えに近いのではないかとわたしには感じられた。ちなみに、「個体発生は系統発生を反復する」という反復説という独自の発生理論を唱えたヘッケル(1834年-1919年)の書物類は、『デミアン』が書かれたときには刊行されていたものと思われる。
 
 最後に、わたしがどうしてこの部分が気にかかったかということにはもうひとつ理由がある。
『「すべてを引き受ける」という思想』(吉本 隆明/茂木 健一郎 2012年6月)の次のような吉本さんの言葉を連想したからである。
 
 
 まだ熟した考えではありませんが、最近ぼくはこんなことを考えています。
 人類史というのは、人間がおサルさんと分かれたときから現代までずっと続いていて、ふつうはわれわれの身体の外にある環境(外界)、つまり政治現象や社会現象などの歴史も一応、「人類史」と考えられています。ところが、このあたりのことをもう少し細かくいうと、これまで考えられてきた古代史以降の環境の歴史というのは、いわば文明史あるいは文化史にすぎない。人類史全体ではないということになります。したがって人類史を探るにはやっぱり人間がおサルさんと分かれたところまでさかのぼる必要があるのではないか。
 それからもうひとつ、「人類史」にはそうした人類史のほかに、もう一種類あるのではないかということを考えています。別種の人類史とは何かといえば、個々の人間がそれぞれの身体性のなかにふくんでいる人類史です。個々の人間の身体性の範囲のなかで行われる精神活動や身体の運動性は人類史を内包していて、文明の移り変わりとか社会の変遷といった一般的な人類史とは別個のものとして考えられるように思います。
 そうしたふたつの人類史を媒介するものが、身体性の順序からいえば、種としての遺伝子の変化、風俗習慣の変遷、地域的差異に基づく言語の発展の仕方の違い、文明・文化の進展具合と、その根底にある自然へのはたらきかけ方……これをつづめていえば、種、住んでいる地域的環境、言語、この三つがふたつの人類史を媒介している。いまはそんなふうに考えています。
 (『「すべてを引き受ける」という思想』 P70-P71 対談・吉本隆明/茂木健一郎 2012年6月)
 ※ この対談は、茂木健一郎の「まえがき」によると、二〇〇六年七月~十月にかけて行われたものとある。