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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

あとがき (「子どもでもわかる世界論のための素描」)

2017年02月26日 | 子どもでもわかる世界論

 いろいろと難渋しながらやっと「子どもでもわかる世界論のための素描」を書き上げた。もっとなめらかな文章にしたいと思いながら書き進んだけれど、如何せんいろいろとよくわからない岩石や岸壁が立ち現れたりして、とてもしんどい行路でであった。「子どもでもわかる」としたのは、実際には「子どもでもわかる世界論」を書かないかもしれないけれど、そのようなやさしい言葉ややさしい文体を目ざしているんだよ、という信号のようなものであった。

 現在のわたしたちの生活も意識も表層から中層に渡ってはすでに十分に欧米化の波を被り浸食・滲透・改変をとげているけれど、たんなる外来の思想や概念の模倣や改作ではない、このような割と自前の世界論を依然として見かけることはほとんどない。すなわち、わたしたちの生活や意識の深層から汲み上げてきたような世界論のことである。わたしが試みざるを得なかった所以である。

 2011年の年末に、三つの詩集(『沈黙の在所』、『ひらく童話詩』、『人のあわい』)をひとつのつながりを持つものとして編んで、ネットで公開した。この辺りから、この「世界論」の構想が芽ばえたように思う。きっかけとなったもっと具体的な作品を取り出してみると、「ちいさな日差しから 深い日差しへ 流れ下り上る ―試みの宇宙論 あるいは今ここの」(詩集『沈黙の在所』)になると思う。つまり、わたしの中では、詩も思想も世界論も別物ではない。

 わたしは、自分のことを詩人と思ったことはあんまりない。普通の生活者であることを逸脱してしまった部分でいえば、むしろ詩をも含んだ人間の総体に渡る表現者としての意識はある。そしてその部分では、詩はほとんどお金になることはないけれど、萩原朔太郎以来の詩こそが根底的で直接的な表現が可能な一番のものであるという思いはある。
  (2017年2月26日) 


短歌味体Ⅲ1569-1571 言葉の渡世シリーズ・続

2017年02月25日 | 短歌味体Ⅲ-2

[短歌味体 Ⅲ] 言葉の渡世シリーズ・続
 
 
 
1569
ふだん口にはしない言葉も
湧いてくる
飲み込んでしまうけど悪業もよぎるぞ
 
 
 
1570
口先だけじゃないよね
と自問する
時言葉の重量によろめく
 
 
 
1571
口先だけで渡り歩くも
いいさ
わたしの文体は採らないけどさ


現在にまで残るこの列島の古い社会・国家観の遺伝子

2017年02月25日 | 批評


  詩人伊東静雄の若い頃、親友に宛てた書簡集がある。これを読むと、当時の流行の思想や文学に触れている様子が伝わってくる。阿部次郎の『三太郎の日記』や西田幾太郎などの哲学本や島崎藤村らの「文学界」グループの作品などに触れて、自由主義的で理想主義的な影響を受けている若き伊東静雄のふんい気が伝わってくる。

 この中で、気になっていた言葉があった。「個人の親たる社会」という言葉に見られる伊東静雄の社会や国家観である。次の社会主義などへの関心を述べた箇所で出て来る。



その後どうしてゐるか。

私は必死の勉強に没頭してゐる。私の前に突如ひらけた
個人の親たる社会に関する思想は私を熱情的にしてしまつた。この転換は私の思想をるい弱から救ふたのみならず、身体さへも健康にしてゐる。私がこの次君の前にあらはれる時、かなり変わつた姿であるに相違ないと、それをひそかな期侍〔待〕で喜んでゐる。この私の転換は、もつとも自然的にやつて来た。自然主ギ的個人主ギ的な人生とう検はしらしらとした諦視か、救はれ難きニヒリズムかのどちらかだ。私が落ち入らうとしてゐたのも全く前者であつた。そして、その弱々しい諦観を私は人間の到達する最高の境地と思つてゐた。なるほどそれは一つの最高峰ではある。然し、私達は、少なくとも今の私達今一つの世界を、今一つの方向を持つてゐる。それこそ、社会主ギ的世界観の方向だ。そして、その理想だ。私は今私の思想に転機をあたへたあの恋愛の失敗を感謝してゐる。いつか、面接の上で語ることもあらう。
 (『伊東静雄青春書簡』P171 大塚梓・田中俊廣編 1997年)




 これは伊東静雄の大村中学(長崎県大村市)時代からの親友、大塚格宛ての書簡である。ちょっと読みずらい曖昧な表現の部分もあるが文意は伝わるだろう。昭和4年6月25日消印の手紙とある。伊東静雄は、昭和4年(1929)3月に大学を卒業して、同年4月、大阪府立住吉中学(現住吉高校)に先生として就職したばかりの時期に当たっている。大正末から当時にかけては、ロシア革命の思想的な影響がこの列島にも押し寄せていた。そのように沸き立つ文学や思想から伊東静雄の内的なモチーフが「熱情的」に引き寄せたものだったろう。しかし、半年後の同年の12月書簡ではその「熱情」もずいぶん醒めたものになっている。今はそのことの詳細には触れないが、これは、「人一倍熱しやすい私の性質」(P175 同上)と自ら内省する伊東静雄の性格的なものから来るものというよりも、自己内省や自己格闘から来たものだと思う。

 この書簡の中の「個人の親たる社会に関する思想」は社会主義的な思想を指している。しかし、ヨーロッパ近代思想や社会主義思想には、個人と社会との関係を「個人の親たる社会」というような親子という家族関係のようなものとして捉える考え方はないはずである。そして、それは若い伊東静雄の独自の考え方と言うよりも当時の欧米の波を被った自由主義や理想主義の文学や哲学などの流行思想に底流していたこの列島の思想の古い部分というような気がする。つまり、そこからの影響のように思う。個人と社会との関係を家族関係のように捉える考え方は、アジア的な専制の政治社会制度の下の考え方なのか、もっとそれ以前の段階の名残もあるのか、わたしには確定的なことは言えないが、その辺りから来ている考え方だと思われる。

 ところで、首相の所信表明演説やら天皇の所感などが新聞に載っても、ほとんど目を通すことのないわたしが、偶然「皇太子さまの誕生日会見」(毎日新聞 2017.2.23掲載)を流し読みしてしまった。そこにわたしの目をひく言葉があった。



 陛下は、おことばの中で「天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」と述べられました。・・・中略・・・このような考えは、都を離れることがかなわなかった過去の天皇も同様に強くお持ちでいらっしゃったようです。・・・中略・・・戦国時代の16世紀中ごろのことですが、洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が、苦しむ人々のために、諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経(しんかんはんにゃしんぎょう)のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。・・・中略・・・そのうちの一つの奥書には「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました。・・・中略・・・私自身、こうした先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がまさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたいと思います。



 この戦国時代の後奈良天皇が写経の奥書に書き記したとされる言葉「私は民の父母として、徳を行き渡らせること」という考え方は、中国の儒教思想の仁や徳という考え方の影響もあるのかもしれないが、天皇、国、社会、民というものが、伊東静雄が書き記した「個人の親たる社会」という考え方と同一の家族関係に擬せられたものとして捉えられていることは間違いない。そして、現在の天皇や皇太子の考え方は、一方で「国民の安寧と幸せを祈ること」としての親と子の縦の関係を保持しつつ、他方でその縦の親と子の関係を現在の割と平等な家族内の関係と対応するように、縦の関係から水平の関係へ変貌させている。このことは建前としては戦後の個を中心とする民主的な考え方や関係に基づく社会というものに対応した天皇の有り様だと思われる。そして、「象徴天皇」というあいまいな位置にあっても灰汁の強い政治家などとは違ってその無償性と純粋さのイメージから天皇がこの列島の多数の人々から敬愛されるのももっともだろうなという気がする。もちろん、わたしはこの社会が真の平等と自由へ突き進む重要なきっかけとして特異点である天皇や皇族は普通の住民になるのが理想だと思う。だから、わたしたちの大多数が天皇や皇族のことを余り気がけないように自然になっていく、つまり天皇や皇族が普通の住民になっていくのを待つほかないと思う。

 現在にまで亡霊のように生き延びている極端な「ウヨク」思想は、北朝鮮同様に個の好みや自由を圧殺するイデオロギー性を持っている。だから、そんな環境では人は本心と建前という二重化を強いられる。この極端な「ウヨク」思想は、一度先の敗戦で決定的な〈死〉を体験したはずだが、無反省であり、性懲りもなく亡霊として死に体であるのに今なお生きている。その異形の紋切り型の外皮をはぎ取ってみれば、縦の関係としての「個人の親たる社会」という考え方、今風に言えば公を優先する考え方がある。たぶん、彼らのイデオロギーは、大きな屋台骨を中国から来た、あるいは中国と共通するアジア的な専制制度やそこから下ってくるものに借りているはずだ。そして、それは近代以降の現在までの歴史の積み重なりからの退行に当たっている。もちろん、彼らも一方で現在の社会のもたらすものは十分に享受しているはずだ。

 そして、縦の関係としての「個人の親たる社会」という考え方であっても、縦の関係を水平の関係に変容させるような情愛や親和が存在すれば現在の天皇の位置に近づくことになる。こういう情愛や親和をまとった「個人の親たる社会」という考え方やイメージは、わたしの漠然とした印象に過ぎないが、アジア的な専制制度以前にまで、つまり古代以前にまでさかのぼれるような、正とも負ともなり得るような、根深い遺伝子かもしれない。わたしたちは近代以降欧米の波を十分に被って、情愛や親和をまとっていたとしても「個人の親たる社会」という考え方やイメージにはもはや帰れない。一方、十分に成熟した個という存在ということもあやしい。この両者がどのように折り合いを付けていくのかということは、大切な現在の渦中のことであり、かつ、今後のことに属している。


「エレヴァス」問題再び

2017年02月23日 | 吉本さんのこと

「エレヴァス」問題再び
 
 
 今日、「表出史の概念」を確認しようとして、吉本さんの『定本 言語にとって美とはなにか Ⅰ』(角川選書)をぺらぺらめくっていたら、なんと以前書いた「エレヴァス」問題に関する言葉に偶然出くわした。P235(同書「第Ⅱ部 近代表出史論 (Ⅱ) 3)に次のようにある。「この水準は、同時代の文学体をこえるエトワ゛スをもつものといってよい。」ほんとは、初版の『言語にとって美とはなにか Ⅰ』にも当たるべきなんだろうが、たぶん同じだろうと済ませておく。
 
 ウィキペディアによると、「ワ゛」は、現在は「ヴァ」を用いるとある。とするとこれは先に予想したようにドイツ語の「エトヴァス」(何かの意味)の誤植ではないかということになる。ささいなことかもしれないが、これで、ちょっとすっきりした。

(参考)「エレヴァス」問題 2016年12月15日 吉本さんのこと
http://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/0a645cd9fa29e45cb3093d273d5a5991



※2月24日にネットでの知り合いの方から以下のことを教えてもらいました。ネット社会の合力(ごうりき)はありがたい。『言語にとって美とはなにか』には索引が付いていたのに、忘れていました。『定本 言語にとって美とはなにか』の索引にもページは違っても同じくエトワ゛ス4箇所載っていました。

 ブログに、「言語にとって美とはなにか」のなかにエトワ゛スの語を見つけたとありました。そこで探してみると、勁草書房の単行本にもありましたし、全著作集の「言語美」では索引に、221226237289のページ数が示されていました。やはりいずれにもエトワ゛スの語がありました。結構気にいって使っていたみたいですね。