日伊文化交流会

サークル「日伊文化交流会」は板橋区で生まれ、元東都生協登録サークルとしてイタリア好きの人たちが集まり楽しく活動しています

ドイツ語圏文化セミナー シリーズ「私は東ドイツに生まれた Auf den Spuren des alten Berlins」に行ってきました(2019.3.8)@(公財)日独協会

2019年05月12日 | ドイツ語・独検

ドイツ語圏文化セミナー シリーズ「私は東ドイツに生まれた Auf den Spuren des alten Berlins」に行ってきました(2019.3.8)@(公財)日独協会



「私は旧東ドイツに生まれた」シリーズには必ず顔を出しています!! というわけで行ってきました日独協会 ^^) _旦~~
西ドイツと東ドイツという ふたつのドイツ国家が存在した時代に 東ドイツで生まれ育ったリースナー先生に 自らの体験を織り交ぜながら
東ドイツの実態についてお話し頂くシリーズです 

今回のテーマは「Auf den Spuren des alten Berlins」で 数々の貴重な写真をご紹介いただきながら ベルリンにある歴史の痕跡を辿るものでした:

まず最初の写真は 18世紀から20世紀にかけてのドイツの歴史的人物です 

 18~20世紀のドイツの歴史的人物


フリードリヒ一世は ベルリンのStadtschlossを建てますが 
妻のシャルロッテが若くして亡くなり 
その名前をつけて シャルロッテンブルク宮殿 と名付けます

  フリードリヒ一世 左下が妻シャルロッテ 


息子の フリードリヒ・ヴィルヘルム一世(F. Wilhelm Ⅰ)は 義務教育や徴兵制度 (Wehrpflicht)等も作りました


ベルリン王宮(Berliner Stadtschloss)は 1945年に空襲で焼失し 廃墟は1950年にDDR政府によって取り壊されましたが
王宮跡地のうち東半分には ホーネッカー時代に 共和国宮殿(Palast der Republik) が建てられ 
昔はSEDの党大会が行われたりしており
ランプが多いので 「エーリッヒ(ホーネッカー)の電灯のお店(Lampenladen)」等と言われていました

1990年10月のドイツ再統一の直前 共和国宮殿はアスベストのため閉鎖され 再統一後に再建工事が始まり 
2019年には 新しい複合文化施設「フンボルトフォーラム」(Humboldtforum)として再建される予定とのこと

 ← 共和国宮殿


ウンター・デン・リンデン(Unter den Linden) 
フリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm/1620-1688)が ここに並木道(Allee)を作った当時は乗馬道(Reitweg)で 
まわりに建物はなく クルミの木(Nussbaeme)や 菩提樹の木(Lindenbaum)等を植えたのですね 


古いブランデンブルク門(Brandenburger Tor)は 関税門でした
ここを通る時に関税を払い 18カ所の門のうちここだけが残っているのだそうです

 ← 古いブランデンブルク門

四頭立ての馬車(クアドリガ/Quadriga)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像が乗せられました

完成直後にナポレオンによりベルリンは征服され ヴィクトリア像はフランスへ戦利品として持ち去られ のちに門の上に戻されました
なので 1813年の写真には Quadrigaはなかったのです (トップの写真)

門は1957年に東ベルリンによって修復されましたが 社会主義国らしくなるよう 鷲と鉄十字ははずされました
そして 統一後の1990年から 再び鉄十字がつけられました



  1956~1990までは 鷲と鉄十字ははずされた 

ブランデンブルク門は...まだ壁のあった頃に 閉ざされた門を見て 統一直後にも行って そして 開かれたこの門をくぐるという体験もしました...思い出深いですね


赤の市庁舎(Rotes Rathaus)(1869)入口にあった FriedrichⅠ世と WilhelmⅠ世の像
(die Bronzeplastiken von Friedrich I. und Wilhelm I. am Haupteingang) は プロイセンのシンボルのため 修復時にはずされたそうです
Wappensaal (紋章のホール)には 統一した時のために東西両方の地区の紋章がありました


1900年 ベルリン大聖堂(Berliner Dom)は ホーエンツォレルン家の墓(Hohenzollerngruft)でした 

そしてネプチューンの泉(Neptunbrunnen) これはヴィルヘルム2世が城の前に建てました 
ナチスは泉を爆撃から守るために壁で囲み そのため今も 破壊されずにオリジナルが残っているとのこと(eingemauerte Brunnen unbeschadet überstanden)
ただし今はRathaus(市庁舎)の前に移されていますね

Siegesallee これは今はなく (eingeebnet 平らにならされた) たくさんの立像(Stadtbilder)があったため 
Puppenallee(人形大通り)と呼ばれていたそうです
詳しくは こちら


 ← Siegesalleは今はもうない

大戦後埋められた像は掘り出され 修復されて 一部シュパンダウ(Spandau)の城塞(Zitadelle)に常設展示されています


カイザー・ヴィルヘルム記念教会(Kaiser-Wilhelm-Gedächtniskirche) 
これは 下の写真のように教会(右)が大戦で破壊され(左) その横に鐘楼(Glockenturm) そして礼拝堂(Kapelle)が作られました 
この教会はガラスが使われていて 中が明るいのですね  私も入ったことあります(^.^)

 ← 記念教会 今昔

プライトシャイト広場
には 2016年のクリスマス市でのテロを悼んで 15メートルにわたる金の裂け目(Riss)があるそうです
その他 マルク博物館(Märkisches Museum)の話等を聞きました


そしていよいよ 建築家ブルーノ・タウト(Bruno Taut)(1880-1938)の登場です
緑の中に住宅を建てたかったそうで 当時のベルリンの住環境は悪く お金もない中
今は世界遺産となっているベルリンのモダニズム集合住宅群を建ててゆきました 

 ← ブルーノ・タウト


クーダム(Kurfürstendamm)は  昔は乗馬道(Reitweg)でした 
銀行家は住宅地を建てたかったそうですが ビスマルクは2つめのReitwegを作りました 


Wannseeは 主に労働者の行く湖で Ostsee(バルト海)は金持ちが行く海岸とのこと
 
ゲットーのユダヤ人たちが死んだ 収容所の Mahnmal (警告の記念碑) Mahnmal-Gleis-17-–--Berlin-Grunewaldが Grunewaldにあります 
ナチス・ドイツ時代 この17番線ホームから大量のユダヤ人が 収容所へ送られたのですね...

がれきの中の女性の記念碑
Trümmerfrau-Denkmalが 1955年に
Volkspark Hasenheideに作られました これは大戦後のがれきを 素手で片付けた女性達を記念して作られたのですね 

ベルリンのがれきの花瓶 (Trümmervase)がクーダムの道にあり
けっこう背が高いそうです

切れかけた鎖 
(Gebrochene Kette)が 
1987年に作られましたが これは分断のMahnmal(警告の記念碑)ですね

信号機のKanzel(操縦室)の写真も見せていただきましたが なんと50年代までは 車が少ないため信号機は手動だったそうで 60年代から自動化されたのですって( ゚Д゚)

西ベルリンの がれきの山で作られた Teufelsberg(悪魔の山)の山頂にある 米軍の盗聴施設(Abhörturm) 
山頂からは電波がよく傍受できたそうです

 → Teufelsbergの盗聴施設

西の 放送塔Berliner Funkturm(146,7m)は1926年に作られ 一方東ベルリンでは
1969年にテレビ塔Fernsehturm(368m)が作られましたが 
実はMüggelbergeに作ろうとして(1954-1956)中止されたそうです
この理由というのが シェーネフェルト空港に近すぎるからとのこと 確かに... 

フリードリッヒスハインに2つ目をつくろうとして(1964) 経済不況(Wirtschaftskrise)でストップしました 
それで ウルブリヒトがテレビ塔を作る 7年計画(1959-1966)を建てたのですね

次に国際貿易センター( Internationales Handelszentrum IHZ)の写真を見ました 
日本の鹿島建設が建てた 近代的なビルですね 

Mauerweg(壁の道) 日本が募金で桜を植えましたね 
Günter Litfinの 壁建築直後の最初の犠牲者の碑の写真...これは私は 壁崩壊直後に花を捧げたところです すっごい思い出深い場所ですね...

そして 壁のアートのイーストサイドギャラリー 
題して"Berliner Mauer damals und heute"
監視塔(Wachturm)は2種類ありました 細長い簡易のと 四角形のちゃんとしたのと

車用の検問所は Alpha Bravo Charlieとありました
これは私も1981年に初めて東ベルリンに入った時に チェックポイントチャーリーの検問所の家(Haus am Checkpoint Charlie)に 何日も通い詰めた思い出があります

 ← ベルリンの壁 検問所など


Beelitz Sanatorium
というサナトリウムは 結核療養所(Lungenheilstaetten)で ヒトラーやホーネッカーも入院していたことのある病院で 今は廃墟とのこと

レーニン像の頭は今は Zittadelleにあるそうですが 
これはあの「グッバイ!レーニン」の映画で有名になったのですが 実はレーニン像の頭は7トンもあって 重すぎてヘリコプターでは運べないのだそうです

1936年の ベルリン・オリンピックのスタジアム 選手村 食堂舎(Speisehaus) の写真も紹介していただきました 
各国の料理を作るため 40もの台所があったそうです

テンペルホフ空港 は 閉鎖されたあとで 今はMesse(見本市)が開かれたり Flüchtlinge(避難民)の場所等となっています


このあと 各自ベルリンへの熱い思いや こだわりの質問等が交わされた とても充実した会となりました 
私たちも うちにあるベルリンの壁のかけらを持ってくればよかったかな? 1989年11月9日の壁崩壊直後にすっ飛んでいき つるはしでトンカン叩いて削ってきた 家宝なのです♡

貴重な写真とお話を 本当にありがとうございました ひさびさにベルリンに「還れた」ひとときでした💛 


セミナー「私は東ドイツに生まれた Auf den Spuren des alten Berlins」は こちら

リポート掲載をご許可くださいました(公財)日独協会様に 心よりお礼申し上げます

        *       *       *

また これを書くにあたり読んだ「ベルリン 東ドイツをたどる旅」(見市 知著、産業編集センター)という本には
電話のない世界」というコラムがあり 私も同じ体験をしたことを思い出しました 
コラムによると 1989年の壁崩壊時でも自宅に電話を持っている人は1割にすぎず 電報に頼るとか 仕方なくいきなり訪問したりしていたとのこと(笑) 

1986年に東ドイツのペンフレンドに会うため ドレスデンで彼女に電話しようと思い 電話局に行って彼女を呼び出してもらい 彼女が最寄りの電話局に駆けつけるまで数十分待って 
ようやくつながり話ができたのです
他にも写真の現像に2週間かかると言われたり コピーを取るには国の許可がいると言われたり... すべて1980年代のことでしたが 
今やネット時代で夢の中のことのようですね...

また「ベルリン廃墟大全」(キアラン・ファーヘイ著、青土社)も
写真満載で参考になりました 

というわけでオスタルジーに浸り 買ってしまいました「グッバイ!レーニン」のDVD ♪


希望の灯(In den Gaengen)」(2019.4.5~ロードショー) これは統一後のライプツィヒの市井の人々を描いた映画です



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