積み上げた
石で囲った
祈りの場
囲った石の
多寡は如何ほど
今週に入ってから胃の調子がおかしい。
風邪っぽいので体調不良が胃に出たのかもしれない。
これまで冬休み期間には高確率で風邪をひいていたが今年は何かこう、
特殊な補正が働いくので大丈夫だろうと見込んでいたのだが
どうやら当てが外れた恰好。
単に風邪をひいたのか必要があって風邪をひいたのか、
はたまた風邪をひいたのだが補正が働いて症状が緩やかなのか。
日本の年末は特殊である。
先日ネットで読んだのだが現代日本人はクリスマス前に全員で右傾化し
クリスマスに全員で左傾化し、大晦日を全員で仏教徒として過ごし
正月を全員で神道徒として祝うのだと。
中心と拡散、死と再生。
読むまで気付かなかったがどういうわけだが上手く機能するようになっていると。
さて教会組織について。
教会と書くと精神的な繋がりを中心とする意味が強いのでここでは教会組織と書く。
中世欧州、西欧における教会組織はどの様な社会機能を持っていたのか考える。
・中流上流階級次男坊の就職先
・教育機関
・権力監視機構
・社会不安の吸収装置
・富の吸い上げ再配分装置
こんなところか。
人は死ぬ。
けれども社会は続く。
人は社会を必要とし社会が続くためには新たに人が必要で、
死ぬことを前提に多めに人が生み出される。
だが死ななかったりもするわけで人が余るという現象が起きる。
長期的には必要だが多少減っても困らない、という就職先があると便利だ。
勉強というのはかったるい。
読み書きには訓練が必要だが訓練が進まないことには人はそこ意義を見出せない。
一定の強制力が無いことには社会は文盲で溢れかえってしまうと。
弱者は強者に媚びる。
強者のまわりに弱者が集り、多くを奪えと唆す。
唆された続けた者同士はそのうち衝突するわけで、
そういった唆されの唆され具合を見て取り止める者が居ないことには
社会のあちこちでドンパチやらかされる結果となる。
馬鹿は先を見越して備えるという事をせず痛い目を見て他人を恨む。
痛い目をみた者が備えるように、考えるようになるかというとそうはならず
普段は忘れていて、何かの拍子に思い出し意味もなく走り出す。
馬鹿ほど不安で動く。
適当に気休めを言う人が居た方が社会は安定するだろう。
備える人は機会に恵まれる。
機会を活かせば人は富む。
だがそれが進むと人が富を得るのではなく富が富を産む形になっていき、
富んだ人以外の機会が枯渇していく。
再配分が必要、ということになていくと。
これは行きすぎると今度は逆に機会を活かす意味が無くなるのだが。
なのだが。
新天地で余剰人員を吸収出来るのなら宗教という就職先の必要性は薄まる。
宗教教義が科学から乖離すると宗教機関の教育機関としての機能は無くなっていく。
宗教機構が権力化していくとただの抑圧機構に成り下がる。
罵り合う坊主達に不安を託す人は居ない。
配分の恣意性はどうなる? 独裁組織が金を片手に屈服を求めるのか?
権力を持ち、富を握り、民衆を教化し、不安を集め、余剰人員を抱えた組織。
ここに「騎士団」という構図を加えると、外部からはどのように見えるだろうか。
さて冒頭に日本の年末は機能していると書いたが
経済的にはまったくと言って良いほど機能していない。
葬式はぼったくりであり宗教界は閉鎖的だ。
お祭りの場所では健康に悪い食べ物が雰囲気の下高値で売られていたりする。
多くの日本人は宗教を必要と認識していない。
2009年も日本時間で残り一時間を切った。
良いお年を、で締めるのが正しいと感じていないのがなんとも。
石で囲った
祈りの場
囲った石の
多寡は如何ほど
今週に入ってから胃の調子がおかしい。
風邪っぽいので体調不良が胃に出たのかもしれない。
これまで冬休み期間には高確率で風邪をひいていたが今年は何かこう、
特殊な補正が働いくので大丈夫だろうと見込んでいたのだが
どうやら当てが外れた恰好。
単に風邪をひいたのか必要があって風邪をひいたのか、
はたまた風邪をひいたのだが補正が働いて症状が緩やかなのか。
日本の年末は特殊である。
先日ネットで読んだのだが現代日本人はクリスマス前に全員で右傾化し
クリスマスに全員で左傾化し、大晦日を全員で仏教徒として過ごし
正月を全員で神道徒として祝うのだと。
中心と拡散、死と再生。
読むまで気付かなかったがどういうわけだが上手く機能するようになっていると。
さて教会組織について。
教会と書くと精神的な繋がりを中心とする意味が強いのでここでは教会組織と書く。
中世欧州、西欧における教会組織はどの様な社会機能を持っていたのか考える。
・中流上流階級次男坊の就職先
・教育機関
・権力監視機構
・社会不安の吸収装置
・富の吸い上げ再配分装置
こんなところか。
人は死ぬ。
けれども社会は続く。
人は社会を必要とし社会が続くためには新たに人が必要で、
死ぬことを前提に多めに人が生み出される。
だが死ななかったりもするわけで人が余るという現象が起きる。
長期的には必要だが多少減っても困らない、という就職先があると便利だ。
勉強というのはかったるい。
読み書きには訓練が必要だが訓練が進まないことには人はそこ意義を見出せない。
一定の強制力が無いことには社会は文盲で溢れかえってしまうと。
弱者は強者に媚びる。
強者のまわりに弱者が集り、多くを奪えと唆す。
唆された続けた者同士はそのうち衝突するわけで、
そういった唆されの唆され具合を見て取り止める者が居ないことには
社会のあちこちでドンパチやらかされる結果となる。
馬鹿は先を見越して備えるという事をせず痛い目を見て他人を恨む。
痛い目をみた者が備えるように、考えるようになるかというとそうはならず
普段は忘れていて、何かの拍子に思い出し意味もなく走り出す。
馬鹿ほど不安で動く。
適当に気休めを言う人が居た方が社会は安定するだろう。
備える人は機会に恵まれる。
機会を活かせば人は富む。
だがそれが進むと人が富を得るのではなく富が富を産む形になっていき、
富んだ人以外の機会が枯渇していく。
再配分が必要、ということになていくと。
これは行きすぎると今度は逆に機会を活かす意味が無くなるのだが。
なのだが。
新天地で余剰人員を吸収出来るのなら宗教という就職先の必要性は薄まる。
宗教教義が科学から乖離すると宗教機関の教育機関としての機能は無くなっていく。
宗教機構が権力化していくとただの抑圧機構に成り下がる。
罵り合う坊主達に不安を託す人は居ない。
配分の恣意性はどうなる? 独裁組織が金を片手に屈服を求めるのか?
権力を持ち、富を握り、民衆を教化し、不安を集め、余剰人員を抱えた組織。
ここに「騎士団」という構図を加えると、外部からはどのように見えるだろうか。
さて冒頭に日本の年末は機能していると書いたが
経済的にはまったくと言って良いほど機能していない。
葬式はぼったくりであり宗教界は閉鎖的だ。
お祭りの場所では健康に悪い食べ物が雰囲気の下高値で売られていたりする。
多くの日本人は宗教を必要と認識していない。
2009年も日本時間で残り一時間を切った。
良いお年を、で締めるのが正しいと感じていないのがなんとも。