狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

教会組織について

2009-12-31 23:28:03 | Weblog
積み上げた
石で囲った
祈りの場
囲った石の
多寡は如何ほど

今週に入ってから胃の調子がおかしい。
風邪っぽいので体調不良が胃に出たのかもしれない。
これまで冬休み期間には高確率で風邪をひいていたが今年は何かこう、
特殊な補正が働いくので大丈夫だろうと見込んでいたのだが
どうやら当てが外れた恰好。
単に風邪をひいたのか必要があって風邪をひいたのか、
はたまた風邪をひいたのだが補正が働いて症状が緩やかなのか。

日本の年末は特殊である。
先日ネットで読んだのだが現代日本人はクリスマス前に全員で右傾化し
クリスマスに全員で左傾化し、大晦日を全員で仏教徒として過ごし
正月を全員で神道徒として祝うのだと。
中心と拡散、死と再生。
読むまで気付かなかったがどういうわけだが上手く機能するようになっていると。

さて教会組織について。
教会と書くと精神的な繋がりを中心とする意味が強いのでここでは教会組織と書く。
中世欧州、西欧における教会組織はどの様な社会機能を持っていたのか考える。
・中流上流階級次男坊の就職先
・教育機関
・権力監視機構
・社会不安の吸収装置
・富の吸い上げ再配分装置

こんなところか。

人は死ぬ。
けれども社会は続く。
人は社会を必要とし社会が続くためには新たに人が必要で、
死ぬことを前提に多めに人が生み出される。
だが死ななかったりもするわけで人が余るという現象が起きる。
長期的には必要だが多少減っても困らない、という就職先があると便利だ。

勉強というのはかったるい。
読み書きには訓練が必要だが訓練が進まないことには人はそこ意義を見出せない。
一定の強制力が無いことには社会は文盲で溢れかえってしまうと。

弱者は強者に媚びる。
強者のまわりに弱者が集り、多くを奪えと唆す。
唆された続けた者同士はそのうち衝突するわけで、
そういった唆されの唆され具合を見て取り止める者が居ないことには
社会のあちこちでドンパチやらかされる結果となる。

馬鹿は先を見越して備えるという事をせず痛い目を見て他人を恨む。
痛い目をみた者が備えるように、考えるようになるかというとそうはならず
普段は忘れていて、何かの拍子に思い出し意味もなく走り出す。
馬鹿ほど不安で動く。
適当に気休めを言う人が居た方が社会は安定するだろう。

備える人は機会に恵まれる。
機会を活かせば人は富む。
だがそれが進むと人が富を得るのではなく富が富を産む形になっていき、
富んだ人以外の機会が枯渇していく。
再配分が必要、ということになていくと。
これは行きすぎると今度は逆に機会を活かす意味が無くなるのだが。

なのだが。
新天地で余剰人員を吸収出来るのなら宗教という就職先の必要性は薄まる。
宗教教義が科学から乖離すると宗教機関の教育機関としての機能は無くなっていく。
宗教機構が権力化していくとただの抑圧機構に成り下がる。
罵り合う坊主達に不安を託す人は居ない。
配分の恣意性はどうなる? 独裁組織が金を片手に屈服を求めるのか?

権力を持ち、富を握り、民衆を教化し、不安を集め、余剰人員を抱えた組織。
ここに「騎士団」という構図を加えると、外部からはどのように見えるだろうか。

さて冒頭に日本の年末は機能していると書いたが
経済的にはまったくと言って良いほど機能していない。
葬式はぼったくりであり宗教界は閉鎖的だ。
お祭りの場所では健康に悪い食べ物が雰囲気の下高値で売られていたりする。
多くの日本人は宗教を必要と認識していない。

2009年も日本時間で残り一時間を切った。
良いお年を、で締めるのが正しいと感じていないのがなんとも。
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証明について

2009-12-30 22:00:54 | Weblog
土塊が
息吹き込まれ
自由あり
良心合わず
苦心惨憺

キリスト教で言うところの神様の存在を科学的に証明出来るかという命題がある。
これは簡単、預言が成就すれば良いわけで。
さらに条件を付けるなら
・人類規模、世界規模、宇宙規模の現象であること
・預言から成就までの期間が物理的に予測不可能なだけ開いていること
・偶然の一致ではありえない確率であること
・意思、つまり一定の恣意性と対話性があること
・再現性、つまり現象が次々に起きること

このあたりが満たされれば科学的意味で存在していると言える。
もちろん証明方法は人類が獲得したものでないと人類にとって
その証明は理解不能なわけだが幸い、現時点で人類は物理学を持っている。

さて近い未来に存在しているという結論が出たして問題は、唯一かどうかだ。
多神教的世界観で超存在が百人(?)くらいあつまってああでもないこうでもない
としていると捉えることも出来る。

人格(神格?)的一意性については長期的な一貫性と
思考という発展性が伺えればいいのだが一番判りやすいのは多分、
怒りだろう。
ああでもないこうでもないでは一元的な怒りというものは出てこない。

「神様は自分で持ち上げられない岩を作ることが出来るか」という設問がある。
その答えは新聞に載ってたりするわけだ。
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文明について

2009-12-29 11:46:59 | Weblog
靴の泥
雪隠の滓
芳しき
何処に寄りやと
人人に問う

内陸部は後進的である。
必ずしも真ではないが世界史にもあちこちの地域史にも
その傾向が見て取れまた各地の有力者もそれを感じていたのだろう
内陸地域の政治集団は海岸を目指す。

海岸が有れば、港が有れば進歩的か。
否だろう。
良港に恵まれながら後進的な地域というのはあちこちにある。
では何か。
何が先進と後進とを分けているのか。
農業か。 気温か。 人口密度か。

エアコン文明論というのがある。
熱帯地域にエアコンを持ち込むと熱帯によくある無思慮が減るというものである。
確かに気温が30度のあたりから上がるに連れ人間の思考力は低下していく。
これもありそうだ。
だが同じ熱帯でも、亜熱帯でも、寒帯でも、文明への理解度には差がある。

人は何を以て人を文明的だと判断するのか。
文学か。 数学か。科学か。 宗教か。 商習慣か。
簡単な基準が一つある。
トイレである。
トイレは文明である。

公衆衛生。 治水能力。 教育制度。 建築技術。 相互尊重。 治安維持。
トイレの水準にはそこの社会におけるこれらの、最低水準が反映される。
汚い。 流れない。 壊れている。 囲いに穴がある。 備品に不足がある。
これらの評価はその地域社会のそれらに欠陥が有ることを意味する。

トイレこそが文明である。
ここで考え方を入れ替えてみる。
文明がトイレなのだと。
文明があってトイレがあるのではない。
トイレのために文明があるのだと。
快適なトイレがある。
快適さを維持しようとする。
維持するためには文明が必要になると。

トイレは臭う。
臭うトイレは不快である。
糞尿の香りは人を動物にする。
不快なトイレで人は思考出来ない。
トイレ無きところ文明無し。
江戸という巨大治水システムは日本の文盲を減らした。

文明がトイレを作ったのか、トイレが文明を作ったのか。
卵が先か鶏が先かみたいな話である。
なのだが。
仮にトイレが先だとするとトイレの発展が滞ると文明が発展しないということになる。
実験するのは簡単だ。
後進地域の小学校にでも快適なトイレを作り、生徒や親たちに開放する。
そしてその快適な状態を維持する。
生徒の文明観に違いが出てくればそれはトイレ文明を意味する。
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賭博について

2009-12-28 12:55:02 | Weblog
熱狂と
怒号渦巻き
欲望の
風に舞い散る
紙吹雪かな

昨日昼頃、競馬の有馬記念はどうだっただろうかと思った。
で思い出したのだがその日が有馬記念の日なのでまだ結果は出ていないはずだと。
有馬記念とは日本の中央競馬その一年最後の日に行われるレースで
そこで勝てば年の終わりを楽しく過ごせるという思惑から
競馬ファンが一番盛り上がるレース。

何年か前の有馬記念で、その日当て続けた結果の数百万だか数千万だかの金を掛け
億だかさらにその上だかの勝ちを得た人の話がニュースになった。
そういうことも起きるレース。

思いついたのだから行動するのが正しいと考え、
馬券売り場に向かうことにした。 馬券売り場を知らずに。
向かったのは最寄りから数駅先、わりと考えの足りない人が
多く住むだろうと見られている地域のターミナル駅。
私がそこで勝つことが正しいのなら導かれるはずであり、
正しくないのなら別のなにかにたどり着くはずだと考えながら移動。

一つ前の駅で電車の窓からうどん屋が目に付く。
そこで降りるか逡巡したが腰が上がらず当初の目的駅へ。
目に付いたのだからうどん屋に向かうべきとの考えからうどん屋へ。
鴨うどんと牛肉うどん、どっちにするか迷って鴨うどんを選ぶ。
うどん(まあまあ美味しかった)を食べ終えると鳩を目に。
じゃあそっちだろうと歩いたら、看板だか小冊子だかを持って立っている人たちが。
「目ざめよ!」と書いてあった。
日本では、まあ日本以外でもだが、カルト扱いされている人たちである。
世間一般から見れば私もカルトの一種なのだろうなと
複雑な気持ちを持ちながら階段を下り、さらに別の方向に歩くとまた別の人が。
「聖書になにが書いてあるか」との看板だか小冊子だかを持っていた。

私は聖書を持っている。 持ち歩いている。
まだ全部読んではいないが読もうと思えば読める。
よってそれは冊子の内容を説明する文言ではなく私への問いかけと解釈した。
つまりはそれが今回の行動への答えだと。

足の向くままに歩きデパートの前に出た。
中でチーズを買った。
駅に戻る道すがら、見た途中に見た鯛焼き屋に並んだ。
が列が半分くらいになった頃に購入を止め、駅に向かった。
駅では若い男がタンを吐いていた。

さて何故私は馬券売り場に向かったのか。
多分私はこういう状態だったのだという考えがあるので説明する。
最初私は何故賭博施設があちこちにあるのか判らなかった。
ひょっとすると何らかの理由で必要なのではないかと迷った。
そこである考えに到った。
賭博はある人達にとって給料のようなものなのではと。
一般労働者が賭場に寄付し、お金を必要とするある人たちが
あたかも銀行で給料を下ろすが如くそこからお金を引き出すのだと。
その考えに到った時、私もそこで金を下ろせるのではとの期待を持つようになり
そして「不必要な賭場」という最初の考えが頭の片隅に追いやられた。

私は馬券売り場にたどり着けなかった。
これが答えなのだろう。

さて有馬記念はどうなったのだろうか?
まだ結果を調べていない。
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中世ヨーロッパについて

2009-12-27 09:23:47 | Weblog
欧州に
続いた火種
消し炭に
なった今日
量る功罪

392年 ローマ帝国でキリスト教が国教化
476年 西ローマ帝国滅亡
661年 ウマイヤ朝成立
718年 レコンキスタ開始
843年 フランク王国分裂
1096年 第一回十字軍
1235年 モンゴル軍遠征
1347年 ペスト流行開始
1453年 東ローマ帝国滅亡
1521年 アステカ滅亡
1571年 フィリピン植民地化
1651年 ケープ植民地設立
1763年 フレンチ・インディアン戦争終結
1877年 イギリス領インド成立
1882年 エジプト保護国化
1916年 サイクス・ピコ協定

中世ヨーロッパってどんな感じだったのだろうかと歴史上の出来事を漁ってみたが
長すぎて消化しきれず。
とりあえず窓からウンコをぶちまける連中が世界を征服したことだけは判った。

西ヨーロッパの中世開始は西ローマ帝国滅亡からルネッサンスまでの期間だそうな。
西暦400年から約千年。
西ローマの滅亡の理由の一つがキリスト教化への反発だったらしいのだが
反発していた地域はその後地域間で戦争を繰り返しながらキリスト教化していったと。

近代の開始とされる技術が活版印刷術、羅針盤、火薬。
これを帝国主義の歴史に当てはめるとそれぞれ、
イデオロギー煽動、侵略、虐殺の手段ということになるわけで。
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身体障害者について

2009-12-26 11:55:42 | Weblog
目が無いか
手足が無いか
耳無いか
有る人有って
常意識せず

重度知的障害者の逸失利益認定だそうな。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091225-OYT1T01151.htm

というわけで精神障害者について書こうと思ったのだが
今書いても多分、自分が書きたいと思う水準に届かない気がする。
身体障害者の方が精神障害者よりも考えやすい、
書くハードルが低いと思うのでそちらを書く。

こんな話がある。
今度帰るという電話が戦場に行った息子からかかってくる。
家で両手両足を無くした友人を世話したいとのこと。
それを聞いた両親が大変だから止めろと言う。
その後その息子が自殺する。
自殺した息子には両手両足が無かったと。

身体障害者いわゆる障害者に関する視点を4つ考える。
・障害者当人
・障害者の身内
・障害者利権者
・他人

私の頭は多少おかしいがまあ一般に言う障害者ではないので
障害者に関して常時他人という視点で生活している。

障害者に関する経済状況を幾つかに分けて考える。
1. 生産性
2. 生活
3. 生命維持

まず生産性について考える。
経済は平均すると一人の人間が一人の人間を雇う構図になる。
実際の社会には子供がいて老人がいて病人がいて失業者がいるわけだ。
そんなわけで勤労納税者と呼ばれる人たちの平均的な生産性は、
だいたい食い扶持二人分と見る。
目の前の仕事という量り方だと調整交渉や維持福祉といった裏方分も
考慮する必要があるので三人分やって一人前の社会人。
で障害者はどうかというと、食い扶持二人分に届けば有能な人、
場合によってはゼロと。

生産性向上に関するアプローチは二つ考えられる。
健常者の生産性に専念する方法と、障害者向きの仕事に障害者枠を作る方法。
前者はどの社会でもやっていることだろうから考えるべきは後者と。
例えばプロスポーツ枠の半分を障害者に充ててしまえば
かなりの雇用が作れるわけだ。
スポーツ選手は有り余る身体能力をテレビで笑顔を振りまくなどという無駄
ではなく畑仕事なり土木工事なりに費やせばいいと。
国会で居眠りする議員が誹られる傾向があるがあれが老人枠。
居眠りをして持ち帰った給料を地元に落とすのが彼らの仕事なのだ。

生活はどうか。
ここに関してさらに二つに分けられる。
社会生活と個人生活。
社会生活は雇用とバリアフリーが整えばあとは個人の領域と考える。
偏見の除去について国や大手新聞といった巨大権力が関与するべきではないと考える。
介入が必要な偏見が有るというのなら障害者個人が小説でも書けばいい。
努力次第、数撃ちゃ当たるで当たれば影響力という形で偏見は減る。

個人生活はどこまでが政治がかかわるべきかはよく判らない。
車椅子で狭い便所にはいるのはほぼ不可能だろうし
片手で料理するのは段取りから片づけまでの作業尽くに一手間かかるだろう。
日常のあちこちで物いりで、場合によっては介助が必要になると。
物いりについては私は国家による経済支援は最小に止めるべきと考える。
車椅子、盲導犬、補聴器、一部の工事費用。 そこまでで終わり。
料理出来ないことが食費を圧迫するのなら圧迫されればいい。
貧乏は自由だ。

介助について考えるべきは、時間だろう。
要請から到着まで何分、一人あたり何分と。
この辺についてはそのうち調べてみた方がよさそうな。

さて生命維持なのだが。
障害者の生命維持に問題が発生する状況は
なんらかの形で行動不能になった場合、犯罪に巻き込まれた場合、
それか障害ゆえに危機回避が出来なかった場合と考える。
行動不能に関しては公的か身内か周囲の他人かはともかく、
介助者がいれば良い。
携帯型の救命信号発信装置でも開発すればいい。
犯罪抑止にもなる。
上手く機能するようなら健常者も持つようにすればいい。

危機回避。
これはおそらく当人にも他人にも困難だ。
そもそも健常者でも危機回避に問題がある人を街で多数見かける。
酒を飲む人たちとかバックで車庫入れ出来ない人たちとか。
これについては、障害者の事故例を義務教育に取り入れるのがベストと見るが。
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また変な夢を見た

2009-12-26 07:43:15 | Weblog
私は旅行中で、雑貨屋でパンなどもってレジに行くと
テレビを見ていた数人の内の一人、警備員風の服を着た人が
「私が対応する」と仲間に言い、レシートに英語で
「25日クリスマス、核攻撃で死傷者50万人」といった意味のことを書いた。

知り合いの部屋に行きレシートを見せて何かあったのかと尋ねたが
要領を得ずも否定は無し。
自分の部屋に行きパンを取り出し食べながらテレビを点けると
ニュースでなにかやっていた。
何かよく判らないが何かが起こっていた模様。

場面が変わり、小学生くらいの子供がどこかの職員に
「友達は無事か」と聞いていた。
職員は否定的だった気がする。
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クリスマスについて

2009-12-24 23:29:24 | Weblog
太っ腹
落ちた金子が
世にまわり
街に煌めく
イルミネーション

さてクリスマスについて。
クリスマスというとイエス氏の誕生日、ということになっているはず。
日本では24日のことをクリスマスイブと言うのですがこれ、
一日が日没から始まるユダヤ人の習慣から来たそうで
24日の夜から25日の日没までがクリスマス、イブというのは
イブン、イブニングの語尾が消滅したものだとか。

日本におけるクリスマス習慣はだいたい三つの方向性があります。
一つはイエス氏の生誕を祝う日。
一つは子供がプレゼントを受け取る日。
一つはセックスの日。

何でセックスの日になったのかを考える。
経緯は以下のようだったと推測。
1. クリスマスはプレゼントの日
2. クリスマスは財布が緩む
3. ロマンチックなクリスマスをと宣伝されるようになる
4. 豪華なホテル、ディナーでシャンパンとなる
5. ギシギシアンアンが定番となる

マスコミは商業主義で動いていますからスポンサーには逆らえないわけで
クリスマスは我がホテルでロマンチックに、みたいな宣伝をあちこちで打たれると
もう道徳も敬虔さも遙か彼方に逝ってしまうわけですな。

まあその結果生まれてくる子供達が祝福されるのなら
それはそれで結構なことなのかもしれないのだが。

セックス・シティ、中絶否定の法案を批判。
http://cnn.co.jp/showbiz/CNN200912220031.html
私は医療保険の中心は救命に有るべきだと考えています。
そういう意味では延命にも疑問を持っていますが。
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美しさについて

2009-12-23 20:29:44 | Weblog
宝石と
ブランド品に
包まれた
化粧の下は
化け物の肌

当初この日に7つ更新していた理由は私の中ではすでに埋没しているのだが
挑戦的な意味で今年もやってみた。

猫の場合は見目の悪さも愛らしさと扱われたりもする。
そういう扱いをする人が猫好きと呼ばれたりするわけだが。

美しさ。
夜空に煌めく月星、夕日の沈みゆく海原、朝霧漂う山林、白銀の世界、
花、刀剣、燃え上がる炎、貴金属や宝石、繁華街のネオンサイン、
進化精錬の果てに生まれた流線型などが美しいとされたりする。
あるものを美しいとする時は暗に、他のものを美しくないとしているわけだが。

人は美しさに価値を見出す。
「ね?」と言って首をかしげる様を
美人がすれば見た人はとろけ、
不美人がすると見た人は眉を顰める。
差別である。
そして不美人差別は常に意識され、そして忘却される。

夕日。 夜空。 山水。
気象だ。

肉食獣。 草食獣。 花。
命か。

膿。 腐汁。 汚物。
病気だ。

なるほど。
美しさに対する印象の強さというのは生存に必要な経験への関心の高さなわけだ。
そして人の美醜とは社会価値が本能に侵食してきたのだと。
ある部族では首が長いほど美しいとされる。
ミスユニバース選考基準は日本では不評だ。

まあなんにせよ、猫は美しい。
コメント (1)
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たくましさについて

2009-12-23 19:31:36 | Weblog
たくましく
あってほしいと
願うこと
苦労が多い
人生の常

日本語のWikipediaで「たくまし」で検索を書けたところ
小中学校の標語や校訓のようなものが大量に引っかかった。
たくましい。 たくましさ。
筋肉の付いた身体をたくましいと表現したりもするが
もっぱら人生に対する前向きさ、柔軟さ、ねばり強さ、
逆境での精神的な強さ、活力などを表す単語。
親が子供にそうあってほしいと願うことの筆頭。

マイナスな意味を持つことはまれで、
皮肉を含む形で使われるのは商魂たくましい、くらいか。
踏まれても生き続ける雑草がたくましさの象徴とされることが多い。

殉職海軍兵の家族、麻薬カルテルに殺される。
http://cnn.co.jp/world/CNN200912230008.html
麻薬カルテルメンバーは麻薬を自分たちで使い出す。
買う時に使うようになる。
売る時に使うようになる。
運ぶ時に使うようになる。
これまで使っていなかった人は使い出す。
使っていた人はより多く使うようになる。
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