狸喰うモノ牛愛でるモノ

あー。 なんでこんな偉そうな事書いてるんだろうなー。

ちょい補足

2015-01-30 23:56:39 | Weblog
生命倫理と書いたが人間の、政治判断におけるそれは、数字である。
極端な話殺人鬼が百人殺そうとしているのならば数人の犠牲を省みずこれを
排除するものまた生命倫理、人命尊重の行動である。
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アムリットサル虐殺とシンガポール虐殺 産業構造統治対立問題水平比較

2015-01-30 10:23:27 | Weblog
英国が行ったアムリットサル虐殺と日帝が行ったシンガポール虐殺、それぞれの背景に
ある産業構造をそれぞれ書くと以下となると見る。 まずアムリットサル。
1. 大英帝国がインドの織物産業を禁止しようとする
2. インド人たちがこれに従わない
3. 統治筋による刑罰が行われる
4. インド人たちによる抵抗運動が起こる
5. 統治筋による報復的弾圧が実施される

こんな感じ。 3がインド職人の腕切断などで5が虐殺だな。
次にシンガポール。
1. 日本人たちが中国・東南アジアのアヘン貿易筋を悪と断定する
2. 英国人・華僑がこれを無視する
3. 日本人を中心に武力解放行動が起こる
4. 英国人・華僑らによる自己正当化政治闘争が起こる
5. 武力解放筋による報復的弾圧が実施される

こんな感じ。 3が石原莞爾氏らによる満州国建国、5が虐殺。

水平比較。 今日の人はこう見るかもしれない、アヘン貿易は悪だが織物産業は善だと。
あるいはこう、日帝は悪だが英帝は善だと。 前者の見方は一般には日本人やインド人、
東南アジア人らのもの。 後者は中国人韓国人、北米ユダヤ人、ニューヨーク筋に
連なるアフリカや東南アジアのエリートたちのもの。 これを善悪で分けるのは簡単。
宗教語を使えばアスラの側、ケツアルコアトル、あるいはネフィリムなどといった単語
で可能、最近のだとOinKやdon't Koreaなんだな。 私はこれこの差を「公の意識」や
「生命倫理」なのだとしている。
だが当時暮らしていた人たちにしてみれば自分たちの生活手段が否定された、そして
それに対する反応があったただそれだけなのだろう。
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この冬、乳海攪拌が、アツい

2015-01-13 12:28:06 | Weblog
「乳海攪拌」とはインドの創世神話である。 これに詳しいかと問われれば否で、
正直wikipediaで読んだ知識しかない。
さて私がこれを解釈する鍵とするのが核家族化、個人主義の流れである。
私はこれを旧神構造の崩壊と見ており遡って一神教側旧約聖書創世記の記述、
霊たちに人型が与えられた理由の一つともしているわけだ。

なるほど。
私は社会現象を表側、物質側から見るのが社会科学でありその表面一枚下には宗教
の世界があり、そしてそれを個々の動機、意思、そうしたものの流れとして捉える
のが裏側でありその宗教側の一表現を霊だとしているんだな、ある意味では。
そしてそこから宗教の継続性が「旧神」なのだとしていると。
霊についての概念を共有していない。 共有していないどころか大半の人、人間は、
持ってすらいない。 これはこれで私は「真理の蓋」と見ていて現状のままでほぼ
問題無いとしているものではあるが。
さてここまでは単に、社会現象をどう置き換えてみているかの説明でしかない。 
だが「人、人間が持つ人格の継続性も実は小規模な旧神構造なのだ」とするとこれ
が誰かが言っているだけの万人に無関係な話ではなくなってくる。 こういった
断言を置かれた人間たちの中に「はたして自分はそうなのか」といった問いかけが
発生する。 もちろん、即座に忘れる事も可能だが。

宗教文化の継続性が旧神構造である。 この世界各地にあった旧神構造は20世紀を
通して崩壊が進んだ。 私はこれを乳海攪拌にある「呪い」の実体と見る。 聖書
創世記は天地創造の記述は神様が居るという前提の下真実であり、神様は万人に
対して神様であるという当たり前の現実の下にインド人たちに与えられている
創世神話もまたそれを別の面から眺めたものなのだ、となる。
では乳海攪拌で旧神たちがやっている事は何なのか。 公共事業である。
水利と技術の発展に始まり環境破壊と大気汚染を伴いながら土木、農耕、牧畜、
商業、芸能などが現れていき最後に「宗教人たちの延命」が出てくると。
ではここで言う「アスラたち」とは何か。 これはスラム派の意思となるんだわな。

単なるお話。 そう流す事も可能だろう。
そこで日本人に対しこう置こう。 「韓国の狂態は彼らの宗教意思から来るもので
ある」と。 欧米人たちには「天使ドゥビエルの話」とかの方いいのかな?
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雰囲気霊論

2015-01-10 14:17:02 | Weblog
私はヤハ氏のやり方では人は公正さを学ばないと見ている。 この見方が正しいか
どうかが何気に今回の裏のテーマだったりする。

さて雰囲気霊論と置いた。
私は万物の実態である霊には二種類ある、としていて一方が意思の霊、もう一方が
雰囲気霊でありそれが今回の主題、雰囲気霊の論であると。 二種類しかないので
雰囲気霊論は同時に意思霊論でもある。

前振り。 生命倫理について少々。
現状の生命倫理は三者から出来ているすなわち、失われるモノ、残されたモノ、
そして新たに生まれてくるモノである。 これが「全たる」が科した倫理、現在の
死のある世界であり「全たる」はこれを科すにあたって「個たる」を三点移動と
した、それが「死」と「生」と「復活」である。 この三点移動、実は四点移動
でもあるのだが、はそのまま私が人の三点駆動と呼ぶものとなっており、生、死、
復活がそれぞれ食う寝る遊ぶ、あるいは食欲、睡眠欲、性欲に対応する形となって
いたりする。 三位一体の形でもある。

雰囲気霊の意思の霊に対する根本的な違いは何か。 雰囲気霊は振動する神様を
源流とするが意思の霊たちは移動する神様をその起源とする。 この差は大きい。
チンピラには何故客観性が無いのか、女は何故道を塞ぐのかの霊的な答えがこれで、
彼らがもっぱら雰囲気の霊として在るからである、となったりする。 他者の存在
を基準としていないのだ。 元の問いを引っくり返そう何故意思の霊たちは客観性
を持つ事が可能なのかだがこれが現在の「個たる」相当者に対し意思の霊たちが
他者であるからであり、意思の霊たちにとって「個たる」相当者が自分たちの起源
と異なるモノとなっているからであると。 つまり振動する神様の形を持つモノ
現「個たる」相当は意思の霊たちに世界に対して他者である事を科すモノすなわち
彼らが公共性を持つ他無い構造となっているのだと。

さてこれは客観性転じて公共に対する在り様に関する霊論上の答えとなってはいる。
だが私が社会にある霊の差の、大きな表れである現象のもう一方、ファッションへ
の志向の答えとなってはいない。 雰囲気に浸るのとファッションとが同一である、
というのは有る。 感覚的に。 だがそれでは言葉になっていない。 明文化未満
である。
さてファッションとは何か。 装いである。 外部に対する表面を、内部と異に
する行為である。 内部にある本質を現すのはファッションの行動ではない。
なるほど。 だとすると遡って、自身の本質から「異」であろうとする、外部に
対しそう提示するのが振動する神様の形なのか。
さて雰囲気の霊たち転じて人間たちは、振動する神様の形、「肯定」と「否定」で
ある、を持つ「生」から公正さを学ぶだろうか。 私はむしろ不公正さを真似るの
ではないかと危惧している。 何故ヤハ氏はこんなにも隠蔽的なのかと。 真理の
危険性からなのだろうか。
では人はどうか。 こちらは「生」によって公正さを科されている。 では問題
無いのではないかと言われれば、そうかもしれないとなる。
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