狸喰うモノ牛愛でるモノ

あー。 なんでこんな偉そうな事書いてるんだろうなー。

人の価値

2012-11-29 14:25:23 | Weblog
たとえばだ。
近所に住んでいる親子の子供を気に入った人が居たとする。
彼が言う。 今日から私がその子の親になる、と。
これは通用するか。 一般には否だろう。
彼がその子に他の親でも良いではないか、その子の親に
他の子でも良いではないかと言う。
これも通用しない。
その子にとっては父親は父親その人一人であり母親は母親
その人一人だけである。 同様に、子供を何人も享けようとも
親にとってはそれぞれが「一人だけ」の存在である。
これが人間関係における人の価値であり社会のすべての状況に
これが当てはまる。 その人がそこに居てこそ家族であり
その人がそこに居てこその集まりである。
企業についてもそれは言える。 担当が変わればその人こそ、
としていた人たちにとっては別の会社となる。

優劣はどうか。
これは結局ある「その人」と別の「その人」とで一方を選ぶ、
そういうものである。 選ばれた方も「その人」であり
選ばれなかった方もやはり「その人」である。
百人で競えば百の順位があり「百人で競った一位」は百人
それぞれが居ない事には成り立たない。
競争と選択は違うと言われるかもしれないが競争は作られる
ものである。 暗黙なり明文化されるなりのルールがあり
つまりはルールを作る人が「この基準」とし選択とする。
もちろん基準と無関係に一位を見ずに三位を見る、という行為も
当然ある。 それも好き好きである。
基準を作った段階では「その人」は無いな。
それは「どの人でも」だ。 そして基準で決まる。
基準と無関係に選ぶのが「その人こそ」であり基準で決めるのが
「誰でも」か。 結局のところ「誰でも」に人の価値は無い。
「選ぶ」事も無いし「選ばれる」事も無い。
これが途中で変わる事もあるな。
大怪我をしたらその時は「誰でもいいから医者」であり、
次からは「その医者こそ」となる。 もちろん「その医者だけは
嫌だ」になるかもしれないがそれはそれで、「その人」だ。
それはそれでそうでも、害する人は選ばれない。

「その人を選ぶ」で発生するのが「その人に対してどうするか」
である。 その人に対してどうするかを選ぶ、決める事によって
自分が相手にとっての「その人」になる。 一瞬か、続くかは
さておき。 「その人こそ」に「どうするか」を決める、そう
生きてきた人にとって社会は「誰でも」ではなくなりまた
その人も自身が「誰でも」ではない事を知っている状態になる。
逆に言うと「誰でも」を求める人たちとは周囲の人たちという
鏡に映った自身を「価値が無い」としている人たちか。

では生産性とは何か。
これは大雑把には「より多く」である。
一人一人がありその一人一人の先にさらに一人一人を見て
「より多く」となるのか、自分に多くするための「より多く」
なのか。 この違いは質に出る。 「一人に良く」をより多く
ならば一つ一つが良くなければ意味が無いが、ただ自分に多く
でより多くならただ数だけあれば良い。
数が多くより悪く、となっていく人とは近くの一人に価値を見ず
よって近くの一人に見出される事も無い人である、となる。

なるほど。
自分が「多くである」と見せようとする人は実際には自分に
価値が無いと感じている人であり、「良くする事」を選び続けて
こそ自分に価値があると感じる事が出来るになると。
そして利害の無いまったくの他人に良くする事が出来る人が
実際には「価値を多く持つ人」となるのか。
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夜の虫

2012-11-27 09:30:42 | Weblog
山奥の村に居たら戦争が有った事に気付かなかった、なんて話がある。
情報が共有されない。 そういう状態を別世界なんて表現したりもする。
ある所に周囲から隔絶した村があったとする。
深夜に睡眠ガスかなにかを流し込んで村人全員を熟睡させその間に
その村そっくりに作られた別の村に移動させたとする。
村人たちは違いに気付くか。 そりゃ気付くだろう。
では村人たちが朝起きると同時に村のセットが大火事になっていたと
したらどうか。 村人たちは自分たちの村が火事になったと思うだろう、
でもすぐそこが違う場所だという事に気付くはず。
では村のセットの大火事のあったその日に大雨が降り水があふれ
土砂崩れが起き周囲の地形が一変してしまったような場合はどうか。
それなりの期間気付かない人が出てきでもおかしくはないはず。
さらに土砂降りの中を全員で遠くまで移動するような事態になったら。
そこまでなると気付かない村人たちの方が多数派になるだろうと思う。
自分たちの村は焼けてしまった、自分たちは自分で知らない土地まで
移動した、そういう認識になる。

兵隊のテトリス化とでも言ったものか、な現象があるのだそうな。
どの程度の広がりを持つものかは知らないがなんでも湾岸戦争の時
戦争協力を求められたある会社が暇つぶしにでもと携帯ゲームを
配ったところ「兵隊はテトリスをする」という状態が定着し
戦闘に行って来た事よりもテトリスが上手な方が偉いなんて状況も
あったりするとかなんとか。

人の方向性を二分する。
モテる事を目指すのと食える事を目指すのと。
「モテる事」も「食う事」をどっちも「楽しい」だ。 一般には。
どういった種類の楽しいとか嬉しいとかの実現を目指す行動を方向性
とすると。 「苦しい」や「悲しい」を避けるといった行動の指針も
あるがこれはもっぱら他動的、強迫観念的なもの、その人個人が持つ
方向性とは違うか。 鞭打てば大概の馬は走る、それだけの事。
ゲームを続けているとそのゲームが上手になる。
そうすると他の人と成績を比べたり対戦したりする。
さてこれ自分が上達するのが楽しいのか他の人を下すのが楽しいのか。
前者の楽しいをモテ系、後者の楽しいを食う系とする。
モテ系方向人と食う系方向人の差はどこにでるか。
いわゆるブーム、世間の流行に対する態度にあると見る。
大勢の人がやっているからやる、と、大勢の人がやっているから試す、
試してみて楽しければ続けるし楽しくなければすぐ離れるとの差。
継続性か。 継続性が無い人を「方向の定まらない人」などと
評したりもするが、当人は何かを追っているつもりなのだろう、
私はその先に誘蛾灯を見る。 世界で一番大きいそれにはなにやら
enlightening the worldと書かれているとかなんとか。
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孟母の害

2012-11-24 11:59:12 | Weblog
ジョンレノン氏がモラルになったと書いたらサ派は喜ぶだろうか。
私はそれをぬか喜びだろうとする。
「盗んだバイク」の人もそうだと書いたらピンとくる日本人は
少なくないのではと思う。

問題とされる社会行動があったとする。 これをどう捉えるか。
頭の良い人は問題を解決するが、賢者は問題を避ける、とかの
文を見た。 原文はおそらく英語だろうするとインテリジェント
とワイズの差だろう確かに交通事故を起こさない人の方が賢い。
所がだ。 固定的恒常的な社会問題があり周囲がよりましになる
のはどちらの側か、となると評価は変わってくる。
岩のような社会に対しては問題の解決者も回避者もどちらも無力、
大勢にとって大事なものが失われるショックのみがそれを変える、
そう見る事も可能になってくる。 だが私はこの見解を取らない。
老若男女、人は自身を変える事が可能であるから。

ユダヤ人とはなんだとの問いを置く。
国家モラルだとの答えを置く。 そう創られている。
偽ユダヤとはなんだとの問いを置く。
国家モラルを捨てた人たちなのだとする。
捨てた者たちが持ち続けている者たちを責める。
アラブ人に国家モラルが与えられんとしている。
そこに大きな拒絶がある。
拒絶する者たちのために鉄の壁がある。
偽イスラムとはなんだと問うことも出来る。
ウンマ派だとの答えを置く。

A-1. 社会にとって問題だとされる現象がある
A-2. 問題の原因となっているものは何か
A-3. 原因はどうしてそうなったのか
A-4. 原因を発生させない方法にはどのようなものがあるか

a-1. 戦争によって死者が出る
a-2. 戦争の原因は権力者の支配権争いにある
a-3. 支配権争いは周囲がそれを課し求め評価するから起こる
a-4. 馬に鞭を入れる人たちがそれを止めれば戦争は無くなる

B-1. 社会にとって問題だとされる現象がある
B-2. 問題の原因となっているものは何か
B-3. 原因を排除すれば問題は解決する
B-4. 原因を排除に同意しない者たちの存在こそが悪である

b-1. 戦争によって死者が出る
b-2. 戦争の原因は権力者の支配権争いにある
b-3. 権力者を排除すれば良い
b-4. 権力者の排除に同意しない者もまた悪である

最初にa-4が有り、それを正とする人がA-3ではなくB-3を選ぶ。

何をもって社会問題とするのか。 これは立場による。
投機者たちにとっては財務主義で統一されていない社会の存在
こそが問題であり生産者たちにとっては投機者たちの存在こそが
社会問題である、となったりする。
「財務主義は投資者のためにある」との文に私は「肖像画家たちは
貴族のためにあった」との文と同程度の一致を見る。

北海道を見る。
かつてニシンが採れた。
今は米が作られている。
私はここに「やらずもがな」を見る。
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