狸喰うモノ牛愛でるモノ

あー。 なんでこんな偉そうな事書いてるんだろうなー。

テレビ云々

2011-11-27 14:13:19 | Weblog
リベラルアーツって孔雀の羽だろとも思う。 まあ理系三科は違う
かもしれないが。 これがローマ市民の条件として広まった結果
「市民」の虚業化が進み実業部分は奴隷中心に。 奴隷が「こいつら
いらなくね?」と気づいた途端ローマが崩壊したと。
まあリベラルアーツがおかしいのではなく評価制度がステータス化
する事がおかしいのだろうが、同じ結果が出るのならそれが孔雀の羽
なのだと言い切っても間違いではないわけで。

フジテレビスポンサーの花王に対する抗議行動を新手のテロだと
指摘する声が依然少しあったが私はそうとは見ない。
というのもそうした手口自体は以前からあった、例えば不二家報道。
旧来のマスコミ特にテレビがやっていた手口をネットの連中が採用
しただけだと。 でもまあ私は様子見。

映画作成現場で一番えらいのは監督と。 監督がクリエイターなのだ
とするとこれはある意味当然、作品を作る場所なのだからそうでない
方がおかしい。 ではスタッフはどうか。 監督の下で働かされる。
スタッフとして働いてきた人が製作現場や発表環境というその監督の
資産を引き継ぐ。 世代交代があるとするとこれは当然か。 では
スタッフはクリエイターなのか。 優秀な監督の下にクリエイター
として優秀なスタッフが入ってきたとする。 その監督がそいつの
才能を見抜いたら自分が死ぬまで待たずに早く独立しろというか、
あるいは嫉妬して潰そうとするかのどちらか。
ただのスタッフに引き継がれる、それが繰り返されてきたのが
テレビ業界。
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三回負けと三回勝ちではどちらが正しいのか

2011-11-25 14:40:23 | Weblog
自民党の凋落は暴対法に始まったのではないかと見る次第。
結果としてマスコミ特に日本の中でも突出してヤクザとの
繋がりの大きいテレビ業界がゴッソリ自民党の敵に回った。
自民党、いわゆる保守派に何故ヤクザとの繋がりがあったのか
というとこれ簡単、アカに対抗するためだったわけで。
アカよりヤクザの方がマシ、という判断には私も納得がいく。
テレビ業界がアカまみれ、ヤクザまみれなのは業界全体でNHKも
民放もそこから自由に在るわけではなく、業界を通して癒着して
いるにもかかわらず安直に良心を吹聴する分NHKの方がより
タチが悪いとも言えるわけで。

タイトルはどちらが正しいか、としたがこれ正しいかどうかに
まったく関係しない。 三回三負けだろうと三勝ちだろうと
見える範囲で良くしようとする判断をする方が良く、逆が悪い
というだけ。
では三回三勝ちは三回三負けの損失に対して補償し補填する方が
良いのではないかと思うかもしれない。 これは優先順位判断
の問題である。 ぶっちゃけると多く持ち余っているのなら
勝ち負けとは無関係にその人の責任範囲内、見える範囲内で
最も足りていない所に与えるよう判断するべきだろう、そして
判断は見える範囲内、見えていない所に出し与える事に大した
意味は無い。 役に立つかもしれないし立たないかもしれない。
それは判断をしていないのと大きな違いは無い。

では実際の三回負け、多数回負けに対する補償とはどのような
ものなのだろうか。 私は自民党の沖縄政策をそれと見る。
沖縄には米軍基地が有る。 沖縄でなければ基地が有る意味は
薄い。 それが有る場所が沖縄でなければならない関係から
沖縄は、勝ち負けの側としては負け側で在り続ける。 では
沖縄と比較して米軍基地設営数の少ない本土は勝ち側なのか。
それは無い。 強いて言うのなら周辺地域の平和というプラマイ
ゼロの状態がその配当だ。 ではどの程度の補償が正しいのか。
これが判断だ。 これだけあれば十分だという線は無い。
極論すると無しというのもまた間違いではない。 多少土地の
利用に不具合が発生するだけで、事故事件などを除けば人が
死ぬわけでもない。

沖縄人は十負け。 極東の情勢が変わりでもしない限り負けが
延々続く。 では沖縄人が自民党の政策を否定するのは正しい
のか。 私はそれを否とする。 政策を嫌うのは感情論として
自然だ。 だがその目的と意義を無視して否定するのは視野に
欠けるものだと見る。 勝ち負けで感情の根拠に差がある。
では十負けがそうした政策を否定するのと五勝ち五負け、
根拠にさらに差がある九勝ち一負けが否定するのとでは
どちらがより悪いのか。
見ていない、根拠が有ろうと無かろうとただ流されているだけ
だという点で、両者に差は無い。 どちらも判断を投げ出して
いる、ただそれだけ。
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村長とか

2011-11-23 15:15:33 | Weblog
なんだこりゃ?
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2011/11/22/0200000000AJP20111122001200882.HTML
とりあえず朝日新聞とジューヨークが相変わらずなのは判った。

ある村の村長が判断をした所、村人の六割がそれ以前より良くなり
残りの四割が悪くなったとする。 全体で二割ほど良くなるという、
よくある話。 同様の判断をさらに二回すると大雑把に見て1000人中
6,7人が三回続けて悪くなる計算だが現実にはもう少し偏りが発生
したりもする。 三回人たち、負け組という言葉から三回負けとする、
はこう主張するかもしれない。 我々はすでに二回負けていたのだから
三回目には村長は我々を勝たせるべきだった、と。
私はこの意見を見ない。 ある人たちが二回負けだろうと十回負け
だろうと村を良くする事を選ぶ村長を支持する。

三回負けたちの意見を酌む人を村長の後任に選んだとする。
その人はどうするべきなのかね? 前村長に対する不信を煽り
村内での愚連隊の地位を上げるために消火の妨害でもするのかね?
それをしたら愚連隊たちは喜ぶだろうな、その時そこに居たのが
彼で良かった、と。

私は平等さを見ない。
誰が何回勝ったとか負けたとかの一切を判断材料にしない。
足りていない人が居ないかだけを見、足りていない人を無くそうと
する人を評価する。
長は平等になるよう判断するべきだと言う人たちを私は唾棄する。
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電車利用者のマナーとモラル

2011-11-21 13:43:01 | Weblog
先日ひさしぶりに電車を利用した。
それが不快だったわけだ。
不快の理由一つ目は酔っ払いっぽい人。
二つ目は混雑というほどでもないにせよ座席がほぼ埋まっている
中で座っている横に荷物を置いて隣の同僚としゃべっていた
サラリーマン。 抱えろよと。
自分がサラリーマンになる以前はどうだったかと思い返すに
どうやらさほど他の乗客の行動に不快を感じていなかった模様。
サラリーマンになるのと同時期に足の親指が巻き爪になっており
それは辞めてしばらくしてから治ったのだが痛む中の視点が恒常化
しているっぽく多分普通の人よりも精神的に過剰に反応している
のだろう。 まあそれにはそのうち手をつけると。

んでだ。
駅ホームや車内などの公共の場で不快に感じる他人の行動を私は
二つに分けて見ているわけで、一つがモラル意識の欠如によるもの、
もう一つがマナー意識の欠如によるもの。 単発的に嫌なものと
しては偶発的なものがあったりもするがこれは事故的なもの、
すぐ忘れるように私は出来ているらしい。
上に挙げた例だと酔っ払いをマナーの欠如、サラリーマンをモラル
意識の低さと見たわけだが不快度だと酔っ払い、咀嚼音じゃないが
くちゃくちゃしている、アルコールがなんか匂うなど、の方が
上だったのだがあれはそういう人なのだと思ったら許容出来た。
一方のサラリーマンの方はかなり駄目、その雑談相手の同僚の方は
特に問題を感じなかったから私が今ニートだからというわけでは
ないはず。
移動中にも個々に生活領域があって、そこから意識してはみ出して
いるように見えるかどうかの差なのかなとか思ったり。
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媚化強要

2011-11-17 15:09:14 | Weblog
物を作るのは意外と楽しい。 意外でもなんでもないか。
絵を描く事や工作を楽しむ子供は多く、また大人で家庭菜園や魚釣りに
興じる人は少なくない。

IT業界は生産性の差が著しい場所と言われている。
他の業界では末端労働者のそれは平均的な人と優秀な人とで質の面を
抜きにするとせいぜい2倍程度らしいがそこでは最大10倍とも100倍
とも言われている。 平均的な熟練者が20時間で作る物をある人は
1時間で作りそれを元に別用途の物を10本作ったりすると。
それをできる状況とできない状況とがあるわけで常時それをするのは
不可能だとしても10倍程度の差はざらにある。 デスマ抜きで。
逆に言うとできない人はできる人の10分の1という状況なわけで、
では10分の1の人の生産物が質が高いかというとそうではなくむしろ逆、
流用が効く物の方が合理的にできていたり。
なぜそれが通っているのかと言うとお客さんが結果つまり生産物を
物として見ることができないからだったり。
粗製住宅がそのまま売れてしまう。
物を作っているはずなのに粗悪品でも利益が出る。
利益が出れば内部評価にはなる。 正しいとされる。

社内評価と社外評価は違う。
まあそれはそれでいいのだろう、評価なんてそんなものだ。
評価する人は誰か。 その人は何を評価しているのか。
店員の身なりが良いおもちゃ屋と子供が遊んで面白いおもちゃ屋とが
あったとする。 購入者が親なら前者が儲かり子供なら後者が儲かる。
それが評価。 売り手の戦略としては極論購入者つまり評価者さえ
騙せればあとは利用者はどうでもいい、となる。
では評価者の評価基準は何か。
雰囲気、空気、そういったものも一つ。
末端の消費者から企業の担当者まで雰囲気を重視する、そういう状況は
珍しくはない。 そうなると物自体に対する評価は二の次三の次になる。
なぜそうなるのか。 企業の戦略ゆえか。 私は否と見る。 消費者が
そうなる事を求めたからだ。 物を見ず宣伝を見て買う。 物を買って
いるのではなく宣伝を買っている。 それを求めていてそれが評価と
なり、そしてその結果それが市場で勝ち残る。
消費者を有権者に置き換えれば政治さえもがそうなりうる。 

政治の話はひとまず置いておく。
媚を売る。
消費者がそれを求めているのならそれが商売人の正しい在り様だ。
空気を売ってくれと言う人が来たのなら空気を売ればいい。
空気なんて買ってもすぐに無くなるから別の物を買った方が良い、
などと言う人は商人には向かないだろう、医者や教師、宗教家に
向いているかもしれないがそっちに進んでも評価はされない。
消費者が物を買うついでに媚を求める。 団塊武勇伝飲食店編など
珍しい話ではない。 そういった場では職場の環境はどうなるか。
担当者は労働者に対し、こう媚を売れと強要する事になる。
そういう人が利益を上げ結果そこでの評価となる。 消費者がその
経済活動に媚を求めた結果、労働者が経営者の媚売りの道具となる
状況を作っている。 当たり前だ。 客が買う物を出すのだから。
では買われた媚はどうなるのか。 そのまま誰かに売るという形で
流通するのか、あるいは、大量消費する誰かの下に消えるのか。
それがどうなるのかを私は知らない。
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火星

2011-11-15 14:53:52 | Weblog
先週だったと思う、テレビで画家が馬の絵を書いていた。
他にNHKでF15燃料タンク落下事件の続報など。

ある人が銀行から出てきたところで持っていたお金30万円が
風で飛ばされたときの話がネットに転がっていた。
周りにいた人たちがそれを集めて飛ばされた人が確認したところ
たしかに30万円あり、集めてくれた人たちに感謝の意を述べようと
した時にはその人たちはすでに散ってしまっていた後だった、
といったもの。 お菓子でも文房具でも同じ事が起きるだろう
たまたまお金だったというだけの話なのだがそこの人は
うちの国では起こりえるかとの問いを発していた。
その問いに対する読者の反応の一つがうちの国がそうした状態を
目指す必要は無く、一般的な先進国を目指せばよいとの事。

血縁地縁、交友も無く利害関係も無いまったくの他人を喜ばせる事に
価値を見出すか。 どうやら世の中には誰であれ喜ぶ事を好ましいと
する人とそうした発想を持たない人とが居るらしい。
前者が無私の人なのかと聞かれれば私はそうではないと答える。
前者はそれが好ましいという感覚があってそうしているだけであり
後者にはそうした感覚が無く他の状態例えば親族の発展だったり
相対的な地位だったりを好ましいとしているだけの事だろうと。
じゃあ前者はなんでそういう人になったのか。

以前自分の中の自分の価値とは自分に喜ぶ他人だと書いた。
んで自分の中の他人を漁ってみたのだが喜ぶ自分ばかりが出てきた。
なんじゃこりゃである。
テレビカメラのような視点があり、空気のような自分が喜んでいる。
じゃあ他人が喜ぶのを好ましいとするのはそこにテレビカメラの
ような視点を想像しそこに喜ぶ自分を見ているのだろうか。
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平等か公正かの選択と自動販売機

2011-11-15 13:58:59 | Weblog
医者は患者の病状に応じて対応を決める。
切るべきだと判断したら一定の手続きを経て切る。
全員に抗がん剤を配ったりはしないし、また患者の要望によっては
一切治療しないという選択肢を採る事もある。

では病人に対する医者の対応に平等さは無いのか。
私はそれに類するものがまったく無いわけではないと見る。
たとえばこんな場合。
ある患者、Aとするか、に次に来た時にプリンをあげると約束する。
別の患者Bにも同様に次回プリンをあげると約束する。
次回AとBが同時にやってきたがプリンは一個しかなくそれはAに
与えられたとする。 Bは不公平だと言うだろう。
同じ内容の約束が複数ありその約束の文言に対し個々に忠実に対応
した結果、約束の対象者全員が公平だと感じる事はあるだろう、
この点に関しては医者も他の業者と違いは無い、と言うか他の業者
も結局のところはこれである。
一物一価もお金の価値に対してこれが広く適用された状況。
つまり自動販売機である。

医者がすべての患者に対し同じ対応をする。
明日から長期休暇の人にもオリンピック出場を控えた人にも同じ
ように抗がん剤を飲ませる。 病気に対して公正であろうとすると
必然的にこうなる。 逆に個々の人に対応しようとするのなら
そこに被対応者が平等だと感じるような状況は無くなるだろう。

経済学者は経済人という概念を用いる。 ホモエコノミクス。
個々の経済人は経済活動にあたって各々の利益、効用を追求する。
物が欲しいという欲求がありそれを優先度順に解消しようとすると。
経済人は概念上のものであり概念上のものでしかないとされている
つまり社会の随所にある経済活動はこれからずれているとされて
いるわけだ。 以前これを貨幣外の心理的貨幣として「媚貨」と
書いたわけだが紹介という形での人脈つまりは経済活動圏の拡大
から店主がもたらす耳寄り情報のようなものまで含めてここでは
これらを無形利益とする。 対して店で手渡される物品あるいは
契約書上に載っている情報や権利といった取引対象物が有形利益。

旧来の経済活動には有形利益と同時に無形利益の取引も並行して
行われていたわけだ。 ただしイケメンに限る、の世界。
アピアランスが重視されるのもこれゆえでありそして無形利益は
有形利益に転じたりもする。

無形利益の奪い合いを日常とする人たちは無形利益の発生しない
経済活動を嫌っているように見える。 人間性が無い、などなど。
そうした活動で得た無形利益が時に有形利益に転じる様を見ながら
有形利益のみを得ようとする人たちを見下していたり。
じゃあ旧人と新人との差は自動販売機のような無形利益の無い商業
形態が当たり前かどうかなのかと聞かれたらそうかもしれないと
答えるだろう、自動販売機の歴史を調べると発明されたのは紀元前
でその後その発展が途絶えたりしているのはなんでだろうなーとか。
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店舗販売か通信販売か

2011-11-13 19:40:16 | Weblog
プラスとマイナスがある。 共有されると言うが強さ、距離、他との共有関係
あるいは周囲の状況に応じた偏りが発生する。 千切れると一方がプラスになり
もう一方がマイナスになったりするが、マイナスは周囲のプラスに引き寄せられる。
分子間結合の話。

店舗販売に関する感覚が旧人と新人とで異なっているなと感じる。
旧人には対面販売を好む傾向が強い人が多いようだが彼らはそこに利益を見出して
いるんだな。 情報がその一例だが他の交友関係への便宜がそこを通して発生
する事を見込んでいたりもすると。
取引に上下関係を見出す傾向が強いのも旧人の特徴か。 相手が自分より下である
事を喜ぶと。 いずれにせよ物品の販売をただの交換とは見ない。
利益があるからこそ相手が喜ぶことを好ましいとする、つまり今後の発生が
見込めない場合はそこに自分にとっての好ましさを見出さない。
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隠れ虚栄

2011-11-09 16:12:24 | Weblog
実家の近所のケーキ屋が隣の県に引っ越すらしい。
んで引越し先の店に行って「前の店で買ってた」と言ったら店主は喜ぶ
だろうと言ったら家人は「交通費が惜しい」との事。 家人にしてみたら
たかがケーキ、赤の他人、私の金銭感覚がおかしいとするのだろう。
私にとっても客と店主、名前も知らない顔も思い出せない他人なのだが。

虚飾の自分と虚飾の無い隣人を比べる事を忌避し、そうした人たちの
集まる場所へと自ら進んで行く人たちが居る。 日本のネットで
「メキシコの漁師」などと呼ばれている話の裏面でもある。
私はそういう場所のうちの最大のものをバビロンと呼び、そうした構図を
地獄に例えたりしているわけだ。 そこの権威は昔パリにあり、そして
今シャンハイが欲しがっているのだが世間の人たちはそれを国際平和と
言っていたりする。

兵隊欲しい病、ジョッキー志向、ファッション至上主義、知的さ評価、
配役利権。 これまで私が嫌ってきたものを並べてみたがこれら、同じ
病因から出た違う病気のようにも思える。 こうした人たちはもっぱら
病識を持っていないようだが。

劣者が居てこその優者だ。 弱者が居るからこそ強者とされる。
では平等が正しいのか。 私は平等とは言わない。 それは親が居て
子が複数居て、そこで親が言う言葉だ。 では子が子に対して平等と
言う場合はどうか。 蟻も居れば象も居る中で誰が平等だと判断する
のか。 答えは簡単、これが平等だと言う人だ。 これこそが正しい
のだと。 不公平だと言うのならそれは個人の見解だ。 あくまで
言う人にとってのそうだと聞く人が解釈する。 では平等はどうか。
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盗む人

2011-11-09 15:30:49 | Weblog
ここ最近何度か母に奇跡が有る模様。 奇跡といっても空を飛んだり
する類のものではなく隠れている人が袖の先だけを出して見せるような
もので、当人にとっては大きな偶然だが周りの人たちにとっては特に
意味のないものが有るのだろう、と横から見て取っているだけ。
現状は、度し難いとしか。 そういうものなのだろう。

さて前回ある判事と娘のニュースを取り扱った。
体罰か虐待か。 ネットの違法ダウンロードが問題だったという話だった
が事が数年前でありその時点ですでに何度も体罰を受けていた模様、
違法ダウンロード問題が一般的になったのはここ十年くらいの事よって
父娘どちらかあるいは双方の名誉のために社会的に扱いのあいまいな
違法ダウンロードを表面化させる部分として選んだというのが実態では
ないかと思う次第。
父親が判事という職業人でありながら娘を司直の手に委ねなかった理由を
自分の立場を惜しんでのものと書いたが別の可能性として彼がその国の
司法制度並びに更生施設をまったく信用していなかったからだと見る事も
出来るか。

以前盗む人が理解出来ないと書いた。 理解出来ないよって盗む人は何故
盗むのかではなく盗まない人は何故盗まないのかという点から考え一般に
その場で自分にデメリットが無くとも盗まない人は盗まれる人の出現を
嫌うから盗まないのだとし盗む人というのはそれを気にしないあるいは
好むから盗むのだ、という結論に至った。
盗む人と盗まれる人か盗む人と盗まない人かという視点の差。
最近少し別の考えも出てきた。
盗む人もやはり盗む人と盗まない人という視点を持っていて盗む方が得だ
と考えている、そして得を選ばない盗まない人は宗教的狂信を持った
馬鹿なのだ、と考えているのではないかと。
この構図を盗む娘と罰する父親に当てはめると娘の視点から見た構図は
本来得をする行動をとる自分の方が正しいのだが父親が宗教的狂信から
体罰をするつまりは虐待だ、という事になる。
正しさを強要する父親と自分の正しさに固執する娘。
どちらが正しいのやら。
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