ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載補遺20)

2022-09-26 | 〆近代革命の社会力学

八ノ〇 第二次メキシコ共和革命

(3)傀儡第二帝政と第二次共和革命
 1855年の自由主義革命に対する反革命内戦の性格を持つ改革戦争は1860年にいったん保守派の敗北に終わることになったが、保守派はなおも散発的な抵抗を続けていた。とはいえ、抵抗は農村部にとどまり、独力での反転攻勢の見通しは立たなかった。
 一方、勝利した改革派フアレス政権も宿弊の財政難と内戦による元来未整備なインフラストラクチャーの破壊という難題に直面する中、新たな転機が海外からもたらされた。フアレス政権が国債の利息支払い停止を宣言したことがフランスをはじめとする欧州列強債権国の反発を招き、にわかに軍事介入の機運が乗じたのであった。
 フランスを筆頭にスペイン、イギリスを加えた債権国はメキシコ政府のモラトリアム宣言に対する武力制裁として、1861年末から共同出兵した。しかし、フランスがメキシコの占領を企てていることが明らかになり、スペインとイギリスが撤収した後も、フランスは単独でメキシコ侵略作戦を続行した。
 これに対し、メキシコ側も頑強に抵抗し、いくつかの個別的な戦闘ではフランス軍を打ち破る戦果も上げたが、1863年5月に力尽きて降伏、同年7月にはフランス軍がメキシコシティを制圧し、フランスが勝利した。
 フランス戦勝の要因としては、その圧倒的軍事力もあったが、レフォルマ戦争で保守派軍を率いたミゲル・ミラモンをはじめ、フアレス政権の打倒を望むメキシコの保守派による積極的な幇助があったことも大きい。
 その点、フランスの第二帝政を率いるナポレオン3世もメキシコをカトリック保守の衛星国に仕立て、ラテンアメリカに拠点を設ける狙いがあったから、メキシコ侵略はフランスとメキシコ保守派の同床異夢を超えた「同夢」の企てであり、反革命内戦の続戦としての反革命干渉戦争の性格を持つ事象であったと言える。
 戦勝したフランスは直接的な統治を避け、オーストリア皇室ハプスブルク家親戚のマクシミリアン大公を皇帝に招聘し、1864年以降、メキシコ入りしたマクシミリアン1世を戴くメキシコ帝国を樹立した。
 これは、独立直後の第一帝政に対し、王政復古した第二帝政と称される新局面であったが、実態はフランスの傀儡であり、メキシコ国民の広範な支持は得られなかった。そのため、マクシミリアンは自身に継嗣がないこともあり、第一帝政のイトゥルビデ1世の孫アグスティン・デ・イトゥルビデ・イ・グリーンを養子に迎え、第一帝政とのつながりを演出しようとした。
 一方、マクシミリアンはある程度自由主義的な思想の持主であったことから、推戴を支持したメキシコ保守派との関係も不安定なものとなり、帝政の運営が軌道に乗らない中、フランスの中米進出を望まないアメリカは傀儡帝政に反対を表明し、国内亡命中のフアレス政権の復旧を要求していた。
 こうした難局に直面する中、欧州ではドイツの強国プロイセンとの関係が悪化し、フランスが軍の撤収を決めたことが、仏軍の存在なくして存続し得ないメキシコ第二帝政の短命な命運を決めた。
 フアレス亡命政権軍が決起すると、1867年2月にはマクシミリアンは首都を追われ、同年5月、敗走先のケレタロで拘束、軍事裁判で死刑を宣告され、6月にミラモン他、帝政協力者のメキシコ人ともども銃殺刑に処せられた。
 こうして、一代限りの短命な第二帝政を打倒した1867年革命は、同じく一代限りの短命な第一帝政を打倒した1823年革命に対し、第二次の共和革命となるが、これは1855年自由主義革命の仕切り直しの革命でもあり、経過としては1821年独立革命の仕切り直しであった第一次共和革命と類似している。
 19世紀中に二度までも君主制と共和制の間を往還した末、最終的に共和制に落着した経過は同時代のフランスとも共通しているが、メキシコでは本性的に共和制志向の力学が強く、二つの君主制は持続することなく、いずれも短期間で崩壊することとなった。

コメント