加薬飯

日々雑感 ときどき雑記 愚だくさん

三河弁を訪ねて/あーへん】

2011年02月28日 | 未分類
「あー変。なんだか変。とっても変。わたし変なの。どうしたのかしら。あー変。」

とまあ、そのような意味合いの言葉では決してない。三河弁における「あーへん」というのは、「変」とは何の係わりもない言葉なのである。

厳密に言えば、「あー」と「へん」から成り立っており、「あー」は「有る」が変化したものだろう。そして「へん」は打ち消しを現す言葉であり、「あーへん」は「有りはしない」と言い換えることができる。「有りはしない」とは即ち「無い」ということであり、主には「へん」を「ない」と捉えればよいだろう。

「今月ピンチだもんで、2~3万円貸してくれーへん(くれない?)」
「なに言っとるだん。貸すような金なんか、あーへん(ないっ!)」



【べつに亭主関白な訳じゃない】

2011年02月27日 | 未分類
休みの日にどこにも出かけず、一日中家にいるなんてことは滅多にない。元来がアクティブ派のわたしとしては、家に居てもやることがないとなると、ついどこぞへ出掛けたくなって尻の辺りがモゾモゾしだすのだ。

それが、ここ一か月近く車に乗れない(免停中)ものだから、自分で好き勝手に行動できない。ちょっとした用事で出掛けるにしても、いちいち家族の誰かに用件と場所を伝えて送って貰うしかない。もちろん家の用事である限りは、文句も言わずに送ってくれるが。

これが果たして、まるっきり私的な都合だけという事になればどうなのか。

「あー暇だなァ。ちょっくら出かけてこようかなァー」

わざと聞こえよがしに言ってみる。

「出かけるって、どこ行くの。車運転できないのに」
「だから、そのなんだ、ちょっと手首の運動なんかした方がいいかな、なんてな」
「わかった。パチンコ行きたいんでしょ」
「別にそんなこと言ってねえし」

図星であっても、ここはとりあえず恍けておくしかない。

「どこまで行くの?自転車で行ったら?」
「そんなもん、どんだけ時間掛かるんだよ」
「送ってほしいんでしょ」
「別にそんなこと言ってねえし」
「ふぅん。送ってあげようか」
「あ…ああ」
「どの位かかるの」
「車で20分くらいだな」
「帰りはどうすんの」
「送ってくんなら帰りも迎えにこなきゃ帰れねぇだろが」
「どのくらいで迎えに行けばいいの」
「そんなもん、勝つか負けるかで時間なんて違ってくるだろが」
「もし負けたら?」
「一時間もたねえだろうな」
「じゃあ家に着いた頃にまたすぐ迎えに行かなきゃいけないじゃん」
「まあ、そういうこった」

でもって、どういう風の吹き回しか家内のやつが西尾のパチンコ店まで送ってくれたのである。わたしが迎えの催促の電話を入れたのは、それから四時間以上経過してからだった。つまりは勝ったってことだな。



【さんかんしおん】

2011年02月26日 | 未分類
予め知っていれば問題はないが、知らない言葉を耳にした場合、発音だけでは語句(漢字)のイメージが湧きにくい言葉といったものも中にはある。
また、別に知らない訳ではなくて知ってはいるが、知ってはいてもなおかつ違ったイメージとして捉えたいといった言葉もあったりする。

わたしの場合むかしから「三寒四温(さんかんしおん)」という発音に対して抱いているイメージというのがあって、つい「山間紫苑」といった漢字を当て嵌めたくなってしまうのである。
ラベンダーの群れ咲く山野のイメージがあって、なんとなく心和む気がするでしょ(しないか)。



【三河弁を訪ねて/らんごく】

2011年02月25日 | 未分類
戦乱によって農地が荒らされ、民百姓が苦しむ乱国の世…の乱国から来ているのかどうかは定かではないが、語源的には近いものがあるのではなかろうか。
「らんごく」とは三河弁で乱雑・雑然といった意味であり、散らかし放題の状況を指す。

「お前の部屋はほんとにいつもらんごくだなあ。足の踏み場もあやへんが」

時によっては「らんごくない」とか「らんごかない」という言い方をすることもあるのだが、言葉の意味的に考えると、後ろに打ち消しの「ない」が付くのはおかしいような気がする。
「らんごくない」つまり「乱雑ではない」ということになって、まるっきり逆の意味になってしまう訳で、この場合の「ない」は「ある」という意味を現していると考えるのが妥当と思われる。

つまり「らんごくない」は「らんごくであるなあ」ということが言いたい訳だから、「ない」は「ある」のことで、「ない」と「ある」が同じ意味ということは、つまりよく解らんが、要するに、どうゆうことかというと、ああー、なんだか、わたしの頭の中が「らんごく」になりそう。



【三河弁を訪ねて/あんなあ】

2011年02月24日 | 未分類
「あんなー」と聞いたら、おじさんはもう甲斐バンド(甲斐よしひろ)の「安奈」しか思いつかんのよ。

 ♪ 安奈 おまえの愛の灯はまだ 燃えているかい …

歌ってる場合じゃなかった。「安奈」じゃなくて「あんなあ」の解説だった。
しかし、これは三河弁というよりは、ほとんど全国的に通用するんではなかろうか。「あんなあ」から伝わるニュアンスとしては「あのな」「あのね」しかないではないか。要するに話し始める前のスタートの合図や、話の途中のつなぎみたいなものだろうか。

「あんなあ、折り入ってお前に頼みたいことがあるんだけど。あんなあ、実は…」



【三河弁を訪ねて/きんのう】

2011年02月23日 | 未分類
わたしなんかは「きんのう」と聞くと、つい勤皇派と佐幕派による幕末の動乱を思い描いてしまうのだな。新撰組の襲撃による「池田屋事件」とか「蛤御門の変」「鳥羽伏見の戦い」とか。しかしそんな血生臭い話ではなく、三河弁で「きんのう」と言えばただ単に「昨日」という意味なのである。

考えてみたら「昨日(きのう)」に「ん」が挿入されただけであるが、かといって「今日(きょう)」のことを「きんょう」などと言ったりはしない。第一どうやって発音するんだ。
「きんよう」なら解らなくもないが、今日が金曜とは限らない。月曜や火曜だったら「きんようはげつよう」みたく、ややこしいことになってしまう。もちろん「明日(あした)」のことを「あんした」とも言わないので、くれぐれも「きんのう」だけに留めておくように。

そうそう「きんのう」のことを「きんにょう」と言ったりする地域もあるようだが、なんか「尿が近い」みたいで、すこぶる落ち着かんがね。



【三河弁を訪ねて/~まい】

2011年02月22日 | 未分類
本来「まい」とは、打ち消し(否定)の意思・推量を表す言葉であり、例えば「帰るまい」は普通「帰らない」という己の意思や「帰りはしないだろう」といった推量でもって使用(標準語)される。

ところが三河弁においては、言葉の後ろに「まい」を付けた場合、動詞の未然形に対しての誘導表現となる。上述の「帰るまい」は「帰ろうよ」といった意味だし、「行くまい」は「行かない」ではなくて「行こうよ」なのである。つまり「~~まい」とは「~~しようよ」という事になるのだ。

ただし、くれぐれも相手を見極めて使用せねばならない。三河弁を解さぬ人に対して「お寿司食べるまい」などと言おうものなら、「えっ食べないの。じゃわたしが代わりに食べてあげるね」などと解釈されてしまう恐れがあるので、充分注意が必要である。



【三河弁を訪ねて/じゅるい】

2011年02月21日 | 未分類
結構いい歳をして、いまだに幼児語が抜け切らないSのM子は「しょんなのじゅるい」とか言ったりするのである。要するに「そんなのズルい」と言いたいらしいのだ。
何がズルいのかは知らないが、意味不明の発言は日常的なことなので、特に気に留めることもなかろう。無視して放置しておくに限る。

M子の発する幼児語の「じゅるい」ではなく、三河弁で「じゅるい」という言い方がある。
泥んこ状態の泥濘(ぬかるみ)を指す言葉で、
「雨で道がじゅるいで、転ばんように気いつけにゃあかんよ」
と言った使われ方をする。

アスファルトやコンクリートで固められた今時の道路にあっては、雨で泥濘(ぬかる)むこともなく、使用する機会も殆んどないと思われる。



【待てば開花の日和あり】

2011年02月20日 | 未分類
一週間以上も雨戸を閉め切ったまま、陽光の差し込まぬ部屋に放置しておいて、果たして開花するのだろうかとの心配も杞憂におわった。下から順に開きはじめ、ほとんどの蕾が開花するに至っている。待てば海路の日和ならぬ、待てば開花の日和である。

それにしても想定外の雪やら雨やらでペンキ塗り作業が大幅に遅れている。南向きの雨戸はなんとか開けられるようになったものの、シンビジュームの置いてある西向きの雨戸はいまだに開けられない。

もうそろそろ雨戸を閉め切った暗い部屋や、屋外の足場の圧迫感ともおさらばしたいと切に願う。家の外も内も一時的に退避させた物があちこちに乱雑に散らばっており、早く片付けたいとのストレスが既にピークに達しているのである。



【風を送ることに違いはない】

2011年02月19日 | 未分類
果たして違いが解っていて買ったのだろうか。そんな疑問がふと頭を掠めたのである。

日常生活の中である時突然、今まで見たこともなかったモノの存在に気付くことがある。それはちょっとした家電製品であったり、いろんな道具であったり、あれだったりこれだったりするのだが。
わたしが知らないということは他の家族が買ってきたものには違いないのだが、わたしがそれらの存在に気付くのは、いつもある程度時間が経過してからと相場は決まっている。

あれっ、こんなもの家にあったっけ。いつ買ったんだろうと今回思ったものはサーキュレーターだった。女房がこんな気の利いたものを買うだろうか。そう思いつつも家内に聞いてみたのである。
果たせるかな、やはり違いは解っていなかった。家内はサーキュレーターを、飽くまで扇風機のつもりで買ったらしいのだ。しかも買ったのは2年も前だという。

いわく形が小さくてデザインがすっきりしていて可愛いでしょという事であるのだが、違いは解らなくても、使い方は間違ってないから、まあいいか。つまりこの時期、暖房器で暖められた部屋の空気の攪拌に使っていたのである。(ただし送風の向きの設定は違っていたが)



【雨の日は雨に濡れると思うのだ】

2011年02月18日 | 未分類
「だから雨の日は散歩に行かない」という訳にもいかないので、やはり出掛けるしかないのだが。
ハルクは外でしかトイレをしない。しかも生い茂った草叢で隠れるようにしてすることが多い。イヌといえども野糞のセオリーを心得ているのだ。
「なにもわざわざそんな奥深い所まで行ってするこたぁねぇだろ。こちとら後の始末がしにくくってしょうがねぇや」と厭味のひとつも言ってやりたくなるが、そこはそれ、犬にも恥じらいというものがあるのだろう。

ところが雨の日は、片手に傘の柄とリードを持ち、もう片方の手に持ったスコップでウ○チを拾い、ビニール袋に入れようと悪戦苦闘しているまさにその時、わっ、急に引っ張るな! ウ○チが飛んで、あっ、あっ、空からウ○チが、がぁぁ……。






【三河弁を訪ねて/くるう】

2011年02月17日 | 未分類
狂うとなれば穏やかではない。とうとう気が触れてしまったか。なに、そうじゃない。じゃなにか。酒に狂うとか、賭け事に狂うとか、女に狂うとか、そういった類いの狂い方…とも違うのか。そうか時計が狂ってるのか。
何れにしても狂うということは、正常でない状態を指す言葉には違いない。

ところが三河弁で「くるう」と言えば、「はしゃぐ」「戯れる」「じゃれあう」といった意味になる。
「階段でくるっとったら落ちてケガするでやめときん」
「危ないで道路でくるったらあかんよ」
などと使う。

それにしても「狂」という字は印象がわるい。同じ表現をするにしても、「発狂」と書くよりは「乱心」とした方が、まだ格調高いような気がする。多分に気のせいだろうとは思うが。
そう言えば、英語で狂った親父のことを「狂う爺」と言ったっけ。あっ、クレージーか。



【三河弁を訪ねて/ひずるい】

2011年02月16日 | 未分類
日本は古代より「日出(いずる)国」と言われてきた。太陽は東から昇るため、東方に位置する日本のことを「日が昇る方角の国」即ち「日のいずる(方の)国」と称したのである。

三河弁に『ひずるい』という表現がある。「日がズルい」ということではない。それだと「太陽は狡猾」という意味になってしまう。『ひずるい』はつまり「眩しい」という意味の方言なのだ。

眩しいことが何故に『ひずるい』なのか。
思うに昔の人は太陽が昇る「ひいずる」の状態を肉眼で正視し、その眩しい情況のことをそのまま「ひいずる」と言っていたのではなかろうか。それがいつの間にか『ひずるい』と入れ替わって定着してしまったとの解釈には、いささか無理があるだろうか。あるかも知れない。多分あるだろう。あるに決まってる。それでも構わず先へと進める。

日が昇る瞬間や日が沈む一時、つまり朝焼けや夕焼けは、太陽も空も真っ赤に染まり情緒的な趣があるが、日が中天にあるときには、とても眩しくて正視することはできない。思わず『ひずるい!』といって手をかざすか、目を逸らすしか術はないのである。



【三河弁を訪ねて/あーむいて】

2011年02月15日 | 未分類
「りんご食べる?」
「うん、食べる」
「皮、むいてあげようか」
「あー、むいて」
というのは間違った使用例である。

三河弁における「あーむいて」とは「仰向いて」とか「仰向けて」の意味であり、
「どっちかちゅうと、あーむいて寝るとイビキかきやすいじゃんねえ」
などと使うのが正しい。

当然のことながら、腕が痛いときに「アーム痛え」というのも、間違った使用例である。




【別に飼ってる訳じゃないが】

2011年02月14日 | 未分類
いつからなのか。玄関に置いてあるホンコンカポックの木に、一羽の椋鳥(ムクドリ)が棲みついてしまった。朝な夕な玄関を開けて人が出入りする度に、その木から飛び立って近くの木に移ったりするが、いつの間にか又ホンコンカポックの木に戻っているようなのだ。

いつものことなので、その木にムクドリがいるであろうことは承知はしていても、そういつもいつも気に留めている訳でもないので、つい忘れて玄関を出入りするのだが、突然葉陰からバサッと飛び立たれると、予測していないだけに、やはり一瞬ビクッと驚いたりする。

ムクドリやヒヨドリは人家周辺でもよく見掛ける鳥であるが、巣を作っているような様子もない。たった一羽でわが家の玄関先を鳥座(とぐら)にしているのには、恐らくそれなりの深い事情があるのに違いない。鳥だけに一度、トリ調べてみる必要がありそうだ。