バラハウズ・モスクを見下ろすようにアルク城が広がっています。
アルク城は、ブハラ発祥の地で、最初に造られたのは2000年以上前になります。モンゴル来襲の際には、立てこもった多くの住民が虐殺され城も破壊されましたが、後に再建されました。その後も破壊と再建を繰り返し、現在のものは18世紀に建てられたものです。1920年にソ連に攻略されて滅亡するまで、歴代のブハラ・ハンの居城でした。
入り口は細 . . . 本文を読む
ヒヴァの観光を終えてウルゲンチからブハラへ飛行機で移動しました。ツアーによっては、ヒヴァからブハラへ、キジルムク砂漠をバスで移動するものもありますが、8時間ほどかかります。飛行機ならば、1時間40分のフライトですみます。
ブハラのホテルは、「ブハラパレス」でした。建物は結構立派ですが、室内など老朽化しているところもあります。
部屋にはベランダが設けられており、朝になって出てみると、旧市街地 . . . 本文を読む
ヒヴァのイチャン・カラ(内城)の見学を終え、夕食をとりに郊外のクブラ・トザ・ボグ宮殿で訪れました。
クブラ・トザ・ボグ宮殿は、19世紀後半から20世紀前半に建てられた、最後のハンまで使用された夏の宮殿です。厚い城壁に囲まれています。
入場の時は結婚式の宴会が行われており、裏口から入りましたが、退場の際の写真を並べなおします。
ブドウ棚の奥に入り口があります。
中庭には池が設けられて . . . 本文を読む
タシュ・ハウリ宮殿のハーレムを出て、内城の東側にやってきました。
東門としてパルヴァン・ダルバザ門が設けられています。
パルヴァン・ダルバザ門の内部は薄暗く奥行きがあります。
パルヴァン・ダルバザ門は、奴隷の門とも呼ばれます。ここでは、奴隷の売買が行われていました。門の中の小部屋は、奴隷のための牢獄でしょうか。奴隷は、トルコ人部族やカザフ族に売られました。ヒヴァのハンは、奴隷を仕 . . . 本文を読む
内城(イチャン・カラ)内で昼食を終え、次はクシュ・ハウリ宮殿に向かいました。
壁に囲まれた細い路地を歩いていると、現代であることを忘れそうです。
石畳には、車輪の轍が刻まれていました。
クシュ・ハウリ宮殿の入り口には、馬車も展示されていました。
クシュ・ハウリ宮殿は、アラクリ・ハンの命によって、クフナ・アルク宮殿にも匹敵するものとして、1830年から1838年にかけて建てられま . . . 本文を読む
メインストリートに戻ると、高さ83mのジュマ・ミナレットが見えてきました。このミナレットには上りませんでした。
ジュマ・ミナレットの下にはジュマ・モスクがあります。10世紀に建設され、現在の形になったのは18世紀末といいます。
ほの暗いモスクの中に柱が立ち並ぶ多柱式建築様式になっています。
モスクであるため、ミフラーブや説教台も設けられていました。
中央には、小さな泉が設けられ . . . 本文を読む
ヒヴァのキョフナ・アルクの続きです。
中庭からは、城壁越しにカルタ・ミナルやムハンマド・アミン・メドレセが見えていました。
中庭には井戸が設けられていました。ヒヴァは、カラクム砂漠とキジルクム砂漠に囲まれていますが、オアシス都市として発達しました。アムダリヤ川からの地下水源が豊富なようです。
クリヌッシュ・ハーンのアイヴァン。17世紀に建てられましたが、イランの軍隊に破壊され、現在の . . . 本文を読む
ウzベキスタン観光のハイライトの一つであるヒヴァの観光スタートです。
まずは、観光客入場口の西門に向かいました。残念ながら雨が降り続き、傘をさしながらの歩きになりました。
城壁は高さ7~8mで、全長は2200mあります。この城壁は18世紀のイランナディール王の侵入まで街を守り続けました。イラン軍は、ヒヴァの街を征服し、城壁は一部破壊されました。
オタ・ダルヴァザ門(西門)に到着。
ヒヴ . . . 本文を読む
タシケントの観光を終えて夜に飛行機でウルゲンチへ飛び、そこからはバスでヒヴァに移動しました。夜遅くなってからの到着であったため、街の様子も朝にならないと判りませんでした。
ヒヴァは、ウズベキスタンの西部にあり、カラクム砂漠への入り口として栄えたオアシス都市です。場所がら、まさか雨が降るとは予想もしていなかったのですが、明け方から本降りの雨になっていました。
朝方一時雨が止んだので、散歩に出かけ . . . 本文を読む
ウズベキスタン歴史博物館の後、ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場を見学してからナヴォイ公園に向かいました。
ここには、アリシェル・ナヴォイの像が置かれています。アリシェル・ナヴォイは、1441年に生まれ、60歳の生涯をとげた、「ウズベク文学の父」として現在でも英雄的な扱いを受けている詩人です。「言語を知る、ということはその国の人・文化を知ることだ」という言葉が残されています。
ここも結婚記念 . . . 本文を読む
チョルスー・バザールの見学を終えて、地下鉄に乗ってチョルスー駅からムスタキリク・マイダニ駅に移動しました。地下鉄の各駅は、美しく装飾されていましたが、撮影禁止であったのは残念でした。
地下鉄駅から地上に上がると、ムスタキリク広場(自由広場)に出ました。コウノトリの飾りを載せたゲートが設けられていました。
コウントリは、ウズベキスタンのシンボルになっているようです。
その奥には、子供を . . . 本文を読む
日本人墓地に続いて、クカルダシュ・メドレセを見学しました。
クカルダシュ・メドレセは、16世紀に、当時タシケントを支配していたシャイバニ朝の大臣クカルダシュによって建てられた神学校です。
ウズベキスタン観光では、幾つものメドレセ(神学校)を見学することになります。
正面入り口の壁は、ブルータイルによるアラベスク模様に飾られています。
この一帯は、かつてはレギスタンと呼ばれる . . . 本文を読む
タシケントの市内観光では、まず日本人墓地を訪れました。
市街の南西のムスリム墓地のいっかくに日本人墓地があります。
ここには、第二次大戦後、ソ連に抑留され、強制労働のために亡くなった79人の日本人が眠っています。
左にほうきを持って立っているのは、祖父から引き続いて三代目の墓守です。お墓はきれいに保たれており、お礼にチップを渡しました。
日本語には、「永遠の平和と友好 不戦の誓 . . . 本文を読む
タシケントの宿は、ラ・グランドプラザでした。ウズベキスタンのホテル全体にいえることですが、外観は立派ですが、テレビがつかなかったり、お湯の出が悪かったり、トイレで紙を流せなかったりしますが、リゾートライフを楽しみに来たわけでもないので良しとしましょう。
ホテルは、地図を見るとティムール広場の近くにあります。前日のホテルへの到着が遅かったため、シャワーを浴びて夜食をとってから寝たのは遅い時間になり . . . 本文を読む
ウズベキスタンというと日本人には馴染みも薄く、見所は何という質問が返ってくることが多いかと思います。それでもサマルカンドという名前は、聞いたことがあるだろうと思います。「シルクロード沿いに発展した都」、「青の都サマルカンド」などの謎めいた雰囲気が旅立ちを誘いました。
各社からツアーが出ていますが、ウズベキスタン国内の移動二回が飛行機になる次のツアーを選びました。日程は、現地に到着してからの変更が . . . 本文を読む