ネボ山の見学を終えて,、近くのマダバの街で聖ジョージ教会を見学することになりましたが、その前にこの街の特産品であるモザイク工場を訪れました。
モザイク作成の手順を見学することができました。下絵に沿って小石を置いていきます。
作業するのは裏側で、絵が完成すると、接着剤で固めます。作業面の裏側が観賞する表面ということになります。
土産に買ったモザイク。小さなものでも、結構な値段がしました . . . 本文を読む
死海のホテルを昼前に出発してネボ山をめざしました。ホテルを出ると、車は高度を一気に上げていき、眼下に死海の眺めが広がりました。
ネボ山は817mの標高を持ち、モーゼ終焉の地とされています。山頂には、4世紀後半に建てられた教会をはじめ、モーゼにまつわるモニュメントが置かれています。
午前中に死海で泳いだことが嘘のように、雨が降って寒さに震える天候になっていました。
入り口から進んでいく . . . 本文を読む
第4日目の夜は、死海のモーベンピック・リゾート&スパ・デッド・シーに宿泊しました。ワディ・ラム見学の後、夕暮れ時に到着の予定でしたが、窓ガラスが外れかかったバスの交換を行ったため、暗くなってからの到着になりました。まずは部屋に入る前に、レストランで夕食を食べました。
部屋に落ち着いた後、館内の散策に出かけました。
テラスから見ると、街灯りが見えていました。手前は死海で、街灯りは対岸のイスラエル . . . 本文を読む
車は、砂漠の奥にさらに進んでいきました。
周囲の岩山は、場所によって風雨による削られ方がかなり異なっていました。この付近では、角が丸まっています。
砂漠は、彼方まで続いていました。
ピラミッド状の岩山も現れました。
車を前景に置かないと岩山のスケールが攫めませんね。
ストーン・ブリッジが現れました。
裏側に回り込んだ所で、写真撮影のために車を降りました。ウン . . . 本文を読む
車に乗って、再び砂漠を進みます。
砂漠の砂も場所によって色が異なるようで、この付近は特に赤みを帯びていました。
周囲の岩山に目が引き付けられます。
岩場の中に進んでいきました。
車を下りると、ペドウィンのテントがありました。ここでアラビアのロレンスの撮影が行われたといいます。
砂山に登って展望を楽しむことになりました。ここは、ガイブブックに「小さい砂山」と書かれている . . . 本文を読む
ペトラを離れると砂漠地帯が広がるようになりました。
ワディ・ラムが近づくと、岩山が見えてきました。
ヨルダン南部の砂漠地帯にあるワディ・ラムは、月の谷を意味し、赤い砂の上に荒々しい岩山が聳える風景は、ヨルダン南部を代表する観光地になっています。
ワディ・ラムは、第1次世界大戦当時、アラビアのロレンスことイギリス人将校T.E.ロレンスがベドウィンを率いてトルコ軍と戦った戦闘の舞台にもな . . . 本文を読む
旅の4日目は、リトル・ペトラを見学してからワディ・ラムに向かうことになりました。
ペトラの街を取り巻く丘の上に上がっていくと、街が見えてきました。セイフンと呼ばれる街のようです。
谷をのぞくと、ペトラ(ビザンチン)教会の白い屋根やカルス・アル・ピントが見えていました。その背後の岩山の頂上に白い建物が見えますが、これはジャバル・ハールーンと呼ばれるモーゼの弟のアロンの墓です。ドーム型の墓は、 . . . 本文を読む
ペトラ遺跡の見学を終えてホテルに戻り、シャワーをあびてひと休みして元気を取り戻しました。夕食を終えてから、8時半開始のペトラ・バイ・ナイトに参加しました。
夜になっても良い天気が続いており、ホテルの部屋の前からは、灯りに照らされてペトラの街を眺めることができました。
写真の下に見えるのが、遺跡入り口の広場です。
ホテルの玄関先に下りると、昔の岩窟墓を利用したケーブ・バーがライトアップされ . . . 本文を読む
ファサード通りの砂絵ボトル屋まで戻ったところで、時間と体力を考えた末、行けるということで犠牲祭壇を目指すことにしました。High Place of Sacrificeという英語表記の案内があるように、岩山の上にあります。
休憩所脇から階段上りを開始しました。
ひと登りすると、巨大な王家の墓が眼下になりました。
岩棚の上にロバが休んでいました。このコースもロバに乗って上ることができるよ . . . 本文を読む
ペトラ(ビザンチン)教会を出て、丘の上を東に向かって歩いていくと、岩山に彫りこまれた王家の墓が見えてきました。
王家の墓の手前には谷があり、金属製の橋が架かっていました。
細いけれども深い谷です。ペトラ遺跡内の水利施設の一部で、かつては水が流れていたようです。
ペトラ(ビザンチン)教会を振り返ったところ。
王家の墓が近づいてきました。王家の墓という名前ですが、墓、神殿、宮殿 . . . 本文を読む
エド・ディルへの軽登山を終え、今度はメインストリートの北側の丘陵地を見学することにしました。一般にはエド・ディルの見学を終えた後は来た道を引き返す者が多いようですが、せっかくの自由行動なので体力と時間の許す限り歩き回ることにしました。
レストランの脇から丘の上に通じる道に進みます。
ひと登りすると大神殿が見えてきました。
大神殿の構造が良く判ります。地球の歩き方における大神殿の写真も . . . 本文を読む
昼食後は自由行動になりました。ほとんどの人は、エド・ディルを目指すことになるのですが、階段登りが続いて個々のペースでないと歩けないため、自由行動になるのが普通です。
泊まったホテルが遺跡入り口なので夕食の時間までに戻れば良いのですが、ホテルが離れていると送迎バスの集合時間が決められて面倒なことになりそうです。
足の弱い人向けにはロバが利用できますが、断崖の縁を辿るところもあるので、怖くて乗る気 . . . 本文を読む
王家の墓を見上げながら歩いていくと、柱廊通りに入っていきます。
その入り口の右手にニンファエウムがあります。ニンファエウムは、生命の泉を称える噴水施設で、ローム帝国支配下になった191年に造られました。左手に立つ木はビスタチオで樹齢400年といいます。
柱廊通りは、長さ225m続き、幅は10mで大理石が敷き詰められていました。
左手には市場が広がっていました。柱の基部だけが残っていま . . . 本文を読む
ファサード通りにある休憩所から先に進むと、ローマ円形劇場が見えてきました。
ローマ円形劇場は、グレコ・ローマン様式で、紀元前1世紀頃、ナバタイ王国最盛期のアレタス4世によって造られました。その後に改装が加えられ、ローマ支配時には8500人収容可能になりました。
この劇場は、磨崖仏のように石を削って造られており、そのタイプとしては世界最大であるといいます。
この劇場は娯楽のために造られ . . . 本文を読む
エル・ハズネから先は、足の弱い人用にロバが働いています。
狭い谷間をしばらく歩きます。
狭い谷間を抜けるとアウター・シークと呼ばれる広い通りに出ます。
岩窟墓が連なることからファサード通りとも呼ばれます。
これらのファサードは、階段状の屋根や長方形の入り口など共通のデザインを持ち、紀元前7~6世紀のメソポタミア、アッシリア帝国の影響が見られます。
広場に出ると、右 . . . 本文を読む