
タシュ・ハウリ宮殿のハーレムを出て、内城の東側にやってきました。

東門としてパルヴァン・ダルバザ門が設けられています。

パルヴァン・ダルバザ門の内部は薄暗く奥行きがあります。

パルヴァン・ダルバザ門は、奴隷の門とも呼ばれます。ここでは、奴隷の売買が行われていました。門の中の小部屋は、奴隷のための牢獄でしょうか。奴隷は、トルコ人部族やカザフ族に売られました。ヒヴァのハンは、奴隷を仕入れるために、周辺の住民や旅人を襲わせたといいます。
19世紀のはじめには、ロシアはロシア人奴隷の開放を要求して軍隊を派遣し、1873年ヒヴァを陥落させました。解放時の報告では、ロシア人奴隷は3000人ほどで、それ以外に3万人の奴隷がいたといいます。
ヒヴァの歴代のハンは、恐怖による統治を行っており、拷問や処刑を公開で行っていたといいいます。
いわれを聞くと、余計に陰惨な感じがします。

外から眺めたパルヴァン・ダルバザ門。

内城(イチャン・カラ)の外にもミナレットが立っていました。

続いて、アラクリ・ハン・メドレセへ。

アラクリ・ハン・メドレセは、アラクリ・ハンが、1830年から1840年にかけて、東門やバザール、キャラバン・サライと共に建てさせたものです。

中庭に面した建物は、他と同じ土産物屋になっています。
中庭では、伝統舞踊ショーが行われるのですが、雨のために隣接するレストラン内のホールで行われることになりました。この伝統舞踊ショーは、自由時間内の希望者ということだったのですが、朝から雨の中を歩き続けていたので疲れも出ており、ツアー参加者が全員見学することになりました。お茶とつまみも出されたので、良い休憩タイムになりました。

ショーが始まるまで少し時間があったので、イスラーム・ホジャ・ミナレットを上ることにしました。

イスラーム・ホジャ・ミナレットは、ヒヴァで一番の45mの高さを持っています。頂上までは118段の階段があります。通路は細く急で暗いため、懐中電灯が必要です。急なために自然に手をついてしまうため、懐中電灯を口にくわえて登りましたが、そのために余計に息がきれました。

登りの人に追いつくことがなかったので、5分ほどで一気に上りきることができました。
ジュマ・モスクとミナレットが下に見えています。

青いドームは、パフラヴァン・マフムド廟。奥にカルタ・ミナルが見えています。

カルタ・ミナルの右は、キョフナ・アルクが広がっています。

イチャン・カラ内の居住地域。

急いでアラクリ・ハン・メドレセに戻り、民族舞踊ショーを見学しました。
総勢六名の家族経営の舞踊団です。

子供の踊りが大熱演でした。




鳥のマネをした踊りで、床に置いたエサに見立てた布を口で咥えて取りました。

女性の踊り。母親でしょうか。衣装は中央アジアを感じさせる異国的なものです。




最後は、観客も誘い出しての踊り。
40分程のショーでしたが、楽しめました。

これで、イチャン・カラでの見学は終わり、土産物屋をのぞきながら入り口の西門に向かいました。


観光客用に置かれているラクダ。

指人形。ちょっと間の抜けた顔が気に入って、持って帰るのが少々大変でしたが、買ってしまいました。

フッジャ人形。フッジャ・ナスレディンについては、ブハラのところにて。
この後、ヒヴァの郊外にあるクブラ・トザ・ホグ宮殿に夕食のために向かいました。

東門としてパルヴァン・ダルバザ門が設けられています。

パルヴァン・ダルバザ門の内部は薄暗く奥行きがあります。

パルヴァン・ダルバザ門は、奴隷の門とも呼ばれます。ここでは、奴隷の売買が行われていました。門の中の小部屋は、奴隷のための牢獄でしょうか。奴隷は、トルコ人部族やカザフ族に売られました。ヒヴァのハンは、奴隷を仕入れるために、周辺の住民や旅人を襲わせたといいます。
19世紀のはじめには、ロシアはロシア人奴隷の開放を要求して軍隊を派遣し、1873年ヒヴァを陥落させました。解放時の報告では、ロシア人奴隷は3000人ほどで、それ以外に3万人の奴隷がいたといいます。
ヒヴァの歴代のハンは、恐怖による統治を行っており、拷問や処刑を公開で行っていたといいいます。
いわれを聞くと、余計に陰惨な感じがします。

外から眺めたパルヴァン・ダルバザ門。

内城(イチャン・カラ)の外にもミナレットが立っていました。

続いて、アラクリ・ハン・メドレセへ。

アラクリ・ハン・メドレセは、アラクリ・ハンが、1830年から1840年にかけて、東門やバザール、キャラバン・サライと共に建てさせたものです。

中庭に面した建物は、他と同じ土産物屋になっています。
中庭では、伝統舞踊ショーが行われるのですが、雨のために隣接するレストラン内のホールで行われることになりました。この伝統舞踊ショーは、自由時間内の希望者ということだったのですが、朝から雨の中を歩き続けていたので疲れも出ており、ツアー参加者が全員見学することになりました。お茶とつまみも出されたので、良い休憩タイムになりました。

ショーが始まるまで少し時間があったので、イスラーム・ホジャ・ミナレットを上ることにしました。

イスラーム・ホジャ・ミナレットは、ヒヴァで一番の45mの高さを持っています。頂上までは118段の階段があります。通路は細く急で暗いため、懐中電灯が必要です。急なために自然に手をついてしまうため、懐中電灯を口にくわえて登りましたが、そのために余計に息がきれました。

登りの人に追いつくことがなかったので、5分ほどで一気に上りきることができました。
ジュマ・モスクとミナレットが下に見えています。

青いドームは、パフラヴァン・マフムド廟。奥にカルタ・ミナルが見えています。

カルタ・ミナルの右は、キョフナ・アルクが広がっています。

イチャン・カラ内の居住地域。

急いでアラクリ・ハン・メドレセに戻り、民族舞踊ショーを見学しました。
総勢六名の家族経営の舞踊団です。

子供の踊りが大熱演でした。




鳥のマネをした踊りで、床に置いたエサに見立てた布を口で咥えて取りました。

女性の踊り。母親でしょうか。衣装は中央アジアを感じさせる異国的なものです。




最後は、観客も誘い出しての踊り。
40分程のショーでしたが、楽しめました。

これで、イチャン・カラでの見学は終わり、土産物屋をのぞきながら入り口の西門に向かいました。


観光客用に置かれているラクダ。

指人形。ちょっと間の抜けた顔が気に入って、持って帰るのが少々大変でしたが、買ってしまいました。

フッジャ人形。フッジャ・ナスレディンについては、ブハラのところにて。
この後、ヒヴァの郊外にあるクブラ・トザ・ホグ宮殿に夕食のために向かいました。